森の奔走

「イヴー!」


 声を張り上げて呼ぶ。洞の周りを闇雲に走り回っているうちに、洞を見失った。


 俺の大声で鳥や虫も声を潜めてしまった。


 木々の葉のかすかなざわめきだけの静寂。


「…イ、ヴ…」


 既にパニックになってた。


 ランタンが照らす範囲は想像以上に狭い。


 息があがる。


 自分の息遣いがうるさすぎて周囲の音が何も聞こえない。



 暗い。


 どこまで進んでも暗い。



 闇、闇、闇、血の匂いが鼻をかすめた気がした。



 血、血、臓物、白い肌、牙、眼──



 揺れる金の髪、小さな手、血、闇、息遣い──



 今起きてることなのか、あの夜の情景なのか、もう分からない。



 俺の足は大地を踏んでるか?

 俺は走ってる?

 ランタンはどこいった?



 暗い、闇、小さな女の子、血、獣の唸り声、闇、臓物──



 地球ではない世界──第二の人生──はぁはぁ、息が──



 誰の息だ──静寂──



 俺は立ち止まってた。


 手に触れるなにか、おそらく藪の葉。


 手元すら見えない真の闇だ。




 どこかで枝が揺れた。


 静寂の中でその音はひどく大きく響いた。


 この暗闇で俺は、あの子と同じように獣に食われるのか。




「うああああああああああああああ!!」




 風と静寂で麻痺していた耳に届く、その怒号が、自分のものだと知った。





「ああああ!なんなんだよ!!もう意味わかんねーよ!!なんで俺こんなとこにいんだよ!!」





 自分が叫んでいれば、静寂が気にならない。



 そうだ。



 女神?別世界?獣に食われる子供?ロボットみたいな美女?真っ暗な森の中?俺は一人?



 は?


 何もかも、全部どうでもいいよ!


「なんで…こんなことになってんだよ……」


 今まで味わったことのない熱を感じて、目を開く。


 昼間のように明るい。


 そして痛みを感じる。



 俺の周囲に逆巻く炎が立ち上り、真上を見るとぽっかりと、そこだけ宵闇が真っ黒なメダルのように円を描いていた。


 肌を焼く炎に少しだけ正気が戻ったが、俺に絶望を押し付けてくるものが、闇から炎に変わっただけだ。



 バキバキと周囲の木が燃える音がする。火の粉が飛び交って俺の周りで逆巻く。


 お次は山火事か。


 ははっ、いいよ好きなだけ燃えろ。



 死の恐怖を味わい、死を間近に見て、死に動じない人間と過ごした。




 充分だろ。もう。


 周囲の熱気に反比例して自分の体温が冷たくなってく気がする。


 俺はその場に膝をついた。


 全身に力が入らない。


 炎は俺の存在を無視して燃え広がる。



 ぼんやりと炎の壁を見ていると、その壁に亀裂が入る。


 赤とオレンジが織りなす炎が、ベールのように二つに割れて、イヴの姿が現れた。


 彼女に触れるのを躊躇うかのように、炎がその舌をちらちらと躍らせる。


 イヴの黒髪が煽られ舞い上がりながら、一筋も燃えることなく激しく揺れてた。


「アベル」


 膝を付くと、俺の目を覗き込みながら静かに言う。


 業火の音の中で、その声は不思議なほどはっきりと聞こえた。


「落ち着いて、炎を抑えてください」


 炎を抑える?何言ってんの?そんなことより、


「どこ行ってたんだよ…」


 喋ると熱で喉が痛い。


「アベル」


 イヴの手が頬に触れる。


「私はここにいます」


 その輝くアイスブルーの目を見ているうちに、疲労感が鉛のように圧し掛かってきた。


「…イヴ……」


 力が抜けていく感覚に抗えず、俺はそのまま彼女の腕に倒れ込んだ。



 辺りが暗くなった。


 夜の森を蹂躙した炎の渦が消えている。


 あちこちでくすぶる燃えさしと、森の闇。



 起き上がる気力もなくて、そのままイヴにもたれかかってた。


 やっぱり無言だったけど、背中に回されたその手が、イヴがそこにいるって証明してた。







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 俺はほぼ全身にまんべんなく火傷を負っていた。


 服も燃え残った生地をわずかに纏ってる感じでボロボロだ。


 イヴが手をかざして、その手からあふれる光が触れた部分から痛みが引いていった。


 我慢出来るレベルになって、やっと俺は歩き出せた。


 イヴに手を引かれ、暗い森を進んだ。



 聞きたいこともあるし、文句も言いたい。


 そしてお礼も。


 俺は君に助けられてばかりだ。



 でも今は口を開くのすら難しいほど疲れてる。


 闇雲に走ってる間に、イヴの小屋の近くまで来ていたらしい。


 偶然にしては出来すぎてるから、方向感覚フルスロットルになってたのか、帰巣本能みたいなもんが目覚めたのか、どちらにしろ謎だ。



 それより不可解なのは、イヴでさえ半日掛かった距離を俺はどれだけのスピードで走ったんだ?


 正確な時間は分からないけど、洞を飛び出た時も小屋に着いた時も真夜中だ。


 夜明けはまだ遠いだろう。



 小屋につくとイヴは俺を椅子に座らせた。


 そしてさっきと同じように、俺の体に光る手をかざす。


 改めて見ると俺の腕は皮がべろりと剥けていて、グロい。


 感覚が麻痺してるのか、痛みはそれほど感じないのが逆に怖い。


 光る手がそこを過ぎると、破けた皮膚が修復される。


 多分治療する魔法かなんかだと思う。


「…獣出なかったね」


 背後に回って俺の視界から消えたイヴに言った。


 多分沈黙が嫌だったんだ。さっきイヴが消えた時の恐怖がよみがえりそうで。


 背中に炎の熱とは違ったじんわりとした温かさが広がって、見えなくても皮膚が再生されてるのを感じる。


「はい」


「出会わないの知ってたから大丈夫って言ったの?」


「いいえ」


「じゃあなんで?」


「彼らは基本的に生きているものを襲いません。それに……」


 ふいに途切れた言葉に、少し驚いた。


 今まできっちり言葉を終える喋り方しか聞いたことなかったからだ。


 首を回してイヴを見る。彼女も俺を見ていた。


 しばらく沈黙が続いたあと、言葉を続けた。


「……今は空腹では、ないはずだからです」


「……」


 二つの意味で心が揺れた。


 一つはあの子が生きたまま食われた訳じゃないとちゃんと知れたこと。


 どちらにしろ酷いことだけど、あの恐ろしい牙を見なくて済んだんだ。


 その事実には、少しだけ救いがある。





 もう一つは、イヴが言い淀んだこと。


 俺にそれを言うのを躊躇したんだね。


 あの子が食べられたことを、俺が思い出すと悲しむと思ったから。





「イヴ」


 真っ直ぐ俺を見る目を、今はちゃんと見返せるよ。


 君に心がないなんて、絶対そんなことない。


「ありがとう」


「はい」

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