一難去って…ない

 「あっ…ああ…」


 叫ぶつもりが、弱々しい音が口から出ただけだった。



 こいつ食ってる!幼女を…人間を食ってる!


 幼女の不自然な動きは、彼女本人のものでなくこいつの動きだった。


 こいつが噛みつき、引きちぎり飲み込む、その動きが…あの手から俺に伝わっていたものだ。



 吐き気が襲う、それ以上に恐怖が。


 立ち上がることも出来ず、這うようにそこから離れようともがいた。見たくはないのに抗えない恐怖のせいで、振り向いてしまう。


 這った距離は希望より短かった。まだ獣の息遣いが届く距離だ。


 獣はあの子を食うことをやめて、抜け目なくこっちをじっと見ていた。



 俺は獣から目を離せなかった。




 獣と俺の目が絡み合っていた時間が、どれくらいか分からない。





 ふと獣は何もなかったかのように食事に戻った。もがくだけの小さな見物人など、気にすることもないと納得したかのように。


 獣の視線の呪縛から解放された俺は、そのまま手と足を使ってずりずりと後ずさる。


 音を立てたくない。あれがいつ気まぐれに、その牙を向けてくるか分からない。



 怖い。


 こんな純粋な恐怖を俺は知らない。


 平和な日本で、こんな死と向き合うこともなく普通に生きてきただけだ。


 なんでこんなことになってんだよ。


 これがあの女神が言ってた幸せな第二の人生だっていうのか? そもそも夢じゃなかったのか?


 自分が吐いた酸っぱい胃液の匂いが、今、一番身近な感覚として、現実を知らせてくる。



 頼む、誰か、誰でもいい。助けてくれ。



 少しでもこの場所から距離を取るために這いずっていたが、もう指一本すら動かせなくなってた。


 体力の限界なのか、恐怖によるものか分からない。


 歩道橋から落ちて死んだけど、あまりにアッサリしすぎてたから、二度目の死はゆっくり味わえとでも言うのか。


 ぼやけた視界に何か動くものを捉えた。


 獣がとうとうメインディッシュにかかる気になったのか。



 違う、それは誰かの靴だった。すぐそばに俺を見おろす人物がいた。



「……」



 そいつがどんな表情をしているのか分からなかった。足がすくんでいるのか棒立ちしてる。


 俺は痛みと疲労で、声を出すことすら難しい。



「…に…げろ…」



 助けを求めるつもりが、俺の口から出た言葉は、警告だった。


 無言のそいつは若そうだった。女性かもしれない。ここは女子供がいていい場所じゃない。


 獣が気づいたら、きっと無事で済まない。


 金髪の幼女は、可哀想だがもう死んでる。俺も多分もう死ぬんだろう。逃げる力もない。



 だから逃げろ。あれが俺を食ってる間に。




 不思議なもんだ。


 死を間近にして自己犠牲精神にでも目覚めたのか?俺は悪人じゃないが、そこまで善人でもなかったはずだ。



 言葉が伝わったことを願いながら、闇に沈むように意識を手放した。





---------------------------------------------------------------------





 ガタガタとものすごい音がしてる。


 すわ強盗か!?と飛び起きようとして、激痛にすくむ。


「ってぇ…」


 痛みが引くまで丸まってるしかなかった。


 薄目で何とか状況を確認すると、明らかに俺の部屋でも、病院のベッドでもない。


 ガタガタという音は外の嵐の音らしい。


 もう何度目か忘れたけど、改めて問う。



 ここどこだよ。



 脂汗が滲むほどの痛みに、もう夢じゃないことは分かってる。


 調子いいこと言ってたあの女神に騙されて、実は何度も悲惨な死をループすることにでもなったのか?


 肌に触れるシーツは麻袋かと思うほど、目が粗くて固くてお粗末だ。


 壁や天井は作りこそしっかりしてるけど、磨かれていない木材で組まれていて、見目好くない。


 外の嵐を確認できた小さな窓から見えるのは、灰色の厚い雲とガラスにたたきつけられている雨粒だ。



 その小さな窓から入るわずかな光だけが光源で、部屋の中は夜と大差ないほど暗い。


 あれからどれくらい経ったんだ?


 雨が嵐になったのか。あの金髪の子はこの嵐の中、未だあの森で幼気な体を貪られているのか。


 情景を思い出すと恐怖と絶望で胸が痛む。


 どうやら俺は生きている。


 俺を見おろしてた人物に助けられたんだろうか?



 突然、眩しいほどの光が窓から差し込む。暗闇に慣れていた目を思わずすがめる。


 一瞬後、びりびりと振動が伝わってくるほどの轟音が鳴り響いた。近くに落ちたんじゃないかと思うほどの雷鳴だった。


でもそれよりびびったのは、一瞬明るくなった部屋の隅に見えたものだ。


視界の隅に映ったそれは、人の顔だったような気がした。



そっと目をこらすと──…


暗闇の中に白い生首が浮かんでた。


「ひゅっ…」


吸い込んだ息が、喉でするどい音を立てた。


 うそだろ!


 もう俺キャパオーバーだって!どんだけ俺を追い詰めたいんだよ!あのクソ女神!いい加減にしてくれ!


 生首はぼんやりと浮かんでる。


 恐ろしいけど目を離すのも怖い。


 いやマジで怖い。見知らぬ場所で暗い部屋の中で、生首と二人きりだぞ。


 精神持たないってマジで。


 生首が動いた。ゆらりと近づいてくる。


  無理無理無理無理無理!



 本当に怖いのは生きてる人間だとかほざいた奴出て来い!


 俺と入れ替われ!


 この状況でもそんな世迷言のたまえるなら言ってみろ!



 生首は音もなく近づいてきて……窓からの光がその姿を照らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る