春Ⅵ:春始の会【前編】




 朝早くからつづいたしたくが終わる頃になって、フィアはやっと自分自身がとても緊張していることに気がついた。これまでフィアが着たこともないような衣装も、身につけたことのないような宝飾品も、何もかもがその緊張を煽ってくる。

 部屋の中に視線を向ければ、使用人たちが使った化粧品などを片付けていた。リラトゥアスと共に選んだ新しい使用人である彼女たちは必要以上にしゃべらないが、いつも黙々と、しかしきっちり仕事をこなす。

 今日、フィアをエスコートしてくれるナインディアの第二皇子は夜会の会場で落ちあうことになっていた。時間になれば白銀宮に迎えの馬車が来る。普段とは違い、たとえ王宮内でもこの美しいドレス姿ではとても庭園を歩いて移動するなんてできなかった。広がったスカート部分に触れるとふわりと軽やかな感触がしたが、これからの季節に合わせた薄めの布であっても幾重にも重なっていればそれなりの重さだ。それに身につけた宝飾品の重さも加わりフィアは時間がたてばたつほど不安を覚えていた。何に対してかわからない。はじめての夜会に対してなのか、はじめて会う従兄に無礼な振る舞いをしてしまわないかという不安なのか、それとも――


 部屋の扉をノックする音に、フィアの思考は遮られた。いつの間にかうつむいていた顔を上げると片づけを指示していた侍女の一人がさっと扉の方へ向かい、突然の来訪者が誰かを確認するところだった。


「王太子殿下がお見えになりました」

「殿下が?」


 予定のなかった来訪にフィアは目を瞬かせた。


「お通しして」


 何かあったのだろうか? 不安がますます強まっていく気がした。


 リラトゥアスは夜会用の衣装に身を包んでいた。フォルトマジア王家であるデュアエルは元々は武を重んじる家系で、デュアエルに連なる人たちの正装もそれを思わせるものになっている。華やかな夜会用の衣装ではあるが、その下に鎖帷子を着ていると言われても何の違和感もないだろう。フィアが立ち上がって出迎えようとするとリラトゥアスは片手でそれを制した。


「その衣装では、立ったり座ったりするのも大変だろう」

「お気遣い、ありがとうございます」


 リラトゥアスの瑠璃色の瞳が何か言いたそうにフィアを見つめたが、結局彼は何も言わず部屋の応接セットのソファに座るフィアの向かい側に腰を下ろした。


「急に訪ねてすまなかった。忙しかっただろう?」

「いいえ、したくはもう終わっていましたから……殿下の方こそ、お忙しいのではないのですか? 何かございましたか?」

「男の私のしたくなど大したことではない。後は上着を羽織るくらいだ。これから常盤宮で人と会う約束があるから、その前に君の様子を見に来ただけだ」

「わたくしの?」

「はじめての夜会では、緊張するだろう? ナインディアの方たちやフィッツ゠グリン子爵が傍にいるとはいえ、私は――いや、私がここに来たところで君の緊張が和らぐわけではないだろうが」


 フィアは驚きを感じずにはいられなかった。リラトゥアスが彼自身のことをそんな風に皮肉げに言うことを聞いたことがなかったし、彼はいつもフィアを気にかけてくれてはいたが、今日の気遣いが今までとどこか違うような気がしたからだ。


「いいえ、殿下」


 フィアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「殿下が来てくださって、うれしいです」

「……そうか」

「ありがとう、ございます」


 その温もりが先ほどまで胸の奥に降り積もっていた不安や緊張を溶かしていくような気がした。




 真白の王宮の中で最も豪華で見る者を圧倒するのは黄金宮と呼ばれる建物だろう。白い宮殿を彩るのはその名のとおり黄金だったが、色合いを使い分け、派手になりすぎず、品を損なわず、しかし落ち着いた美しさを十二分に湛えている。王宮内にいくつかある庭園の中で最も広大な大庭園を含めたその場所は、王家主催の夜会やガーデンパーティーなどを行うためにあった。

 黄金宮に一歩足を踏み入れると、吹き抜けの広い玄関ホールが出迎える。両側には少し小さめの広間につながる扉があり、今晩はその片方にテーブルをおいて客人たちが軽食をつまめるような用意がされていた。

 玄関ホールの正面には左右対称にゆるやかなカーブを描く階段があり、二階部分の玄関ホールをぐるりと囲む廊下やそこに面した小部屋はそれぞれの階下を見下ろせるようになっていた。その内、玄関扉のちょうど正面に位置する部屋は最も広く、そこだけは楽団が夜会のための音楽を奏でつづけていた。

 楽団の部屋のちょうど真下、玄関ホールの二つの階段の間にある大きな扉は黄金宮で最も広い大広間へとつづいている。奥行きのあるその広間の最奥は一段高く作られ、王族のための席が用意されていた。春の春始の会と秋の豊穣祭は舞踏会を兼ねているため、休憩用の席が用意されている以外は広々とした空間のまま、しかし招待された貴族たちであふれている。


 フォルトマジア王国の貴族たちは十六歳になってすぐの春始の会か豊穣祭で家族に付き添われながら社交界に顔見せをし、成人になったことを示す風習がある。フィアもその一人だ。今日のために用意された春らしい若草色のドレスの、ふわりと広がったスカートを落ち着きなく直しながらフィアははじめて大人の世界へと足を踏み入れた。


「緊張なさっているのね」


 微笑ましそうな視線をフィアに送りながら大使夫人が軽やかに言った。入場する際にフィアをエスコートしてくれたナインディアの第二皇子は、今はフォルトマジアの国王夫妻にあいさつをしに行っている。

 はじめての夜会だからと大使夫人は言うが、それだけが理由ではなかった。ゼアマッセルで行われる社交の場は、子どもでも参加が許される場であってもフィアが離れから出されることはなかったし、普段の外出もそうだ。こんな華やかなドレスを着る機会など当然なく、それだけでも彼女の緊張を再び煽るには充分だった。

 無意識に王族の席へと向けられた視線はリラトゥアスの金色の髪を捕らえた。彼はちょうど第二皇子と話しているところだった。その瞳が一瞬こちらへと向けられた気がして、フィアは夜会の前に感じた温かな気持ちがまた胸に過るのを感じた。


「はい。ですが、夜会の前の方が緊張しておりましたから――王太子殿下が来てくださったので……」


 そこにつづく言葉をフィアはうまく見つけられないようだった。戸惑ったように眉を下げた彼女に、大使夫妻は顔を見合わせた。フィアと顔を合わせるのは今日で二度目だが、その少ない回数でも彼女の感情の起伏の少なさは感じていた。今日、はじめて彼女に会った第二皇子も同じことを感じたと大使夫妻に話していた。それがどうしてリラトゥアスに対しては無意識にこぼれる感情があるようだ。


「フィアお嬢様」


 第二皇子がこちらに戻ってきたのとほとんど同時に、大広間の人々のざわめきの合間からフィアに声がかけられた。


「子爵夫人」


 栗色の髪をきっちりとまとめ、落ち着いた色合いのドレスに身を包んだ叔母のフランカが立っていた。背筋を真っ直ぐに伸ばした姿勢が懐かしく、フィアは安心したように肩の力を抜いた。


「遅くなってしまって、申し訳ありません」

「あなたがフィッツ゠グリン子爵夫人か」


 第二皇子が穏やかに声をかけた。


「はい――お初にお目にかかります、フランカ・グリンと申します」

「エヴラール・ナインディアだ」


 大人たちのあいさつが終わると、第二皇子はフィアに腕を差し出した。


「色々と積る話もあるが、ひとまず、フィア嬢のあいさつを済ませよう。リラトゥアス殿も我が従妹殿のことを気にかけていたからね」


 フィア以外にもこの夜会で社交界にデビューする若い貴族が国王夫妻にあいさつをするために王族席の近くにいた。誰もが家族に付き添われている。成人してすぐの春始の会か豊穣祭で王族にあいさつするのが若い貴族の決まりなら、その傍で子どもを見守るのは親の務めだ。もちろん、その後に親が紹介する形でそれぞれの家に関わりの深い家を中心に顔見せをしていくからというのもあるかもしれないが。


 王族席にいるリラトゥアスの顔が、ここからはよく見える。彼はいつもと変わらぬ冷静な表情に、しかしいつも以上に近寄り難い雰囲気をまとっていた。先ほどフィアに会いに来てくれた時には羽織っていなかった上着の襟元にはデュアエルの鷹と剣の紋章が輝いている。いずれはそこに、フォルトマジアの国章が並ぶのだろう。

 フィアはまだ――たとえ家族がそれを認めていなくても――旗手である辺境伯家の令嬢にすぎないが、いずれはそんな彼のとなりに並び立たなければならない。はじめて公の場であるここで、失敗することはできなかった。それに……


 夜会の前にフィアを訪ねてきてくれたリラトゥアスの、瑠璃色の瞳がやさしくフィアを映していたのを彼女は知っている。


 第二皇子がフィアを一人王族席へ送り出そうと促すのをフィアはさりげなく拒絶した。成人のあいさつ自体は一人で行うもので、その傍らに付き添うのは家族だけだ。血縁関係があっても隣国の第二皇子にその役目をお願いすることはできない。


「フィア嬢?」


 フィアの予想外の行動に困惑し、第二皇子はささやくようにフィアの名を呼んだ。


「エヴラール殿下、お願いがございます」


 小さいが、はっきりとした声でフィアは告げた。その表情は相変わらず乏しかったが、その空色の瞳には決意がきらめいていた。


「わたくしの成人のあいさつを、傍で見守っていていただきたいのです。わたくしの……兄のように」


 第二皇子はその言葉に目を丸くしたが、すぐに「もちろんだ」と笑顔を浮かべた。


 第二皇子にエスコートされ、フィアは王族席に座る国王夫妻の前に進み出た。国王夫妻の傍にはリラトゥアスとマリアローゼもいる。さりげなく周囲に気を配れば、彼女が隣国の皇子にエスコートされたまま王族席に進み出たことに対するざわめきと、見極めるようないくつかの視線が向けられていた。

 その注目をできる限り気にしないようにそっと息を吐くと、皇子の腕を離れて国王の前に進み出る。深く膝を折りちょうど段差のところに膝がかかるようにひざまずいて、ゆっくりと視線を下げた。


「この素晴らしき春の始まりの夜にお目にかかれて光栄にございます。デュアエルが旗手、ゼアマッセルのフィア・グリンと申します」

「面を上げよ、フィア・グリン」


 国王はリラトゥアスと同じ金髪と、彼よりも淡い色合いの瞳を持っていた。顔立ちは穏やかだが、自然と頭を下げたくなるような威厳を感じる。視線を合わせると、国王は微かに口元に笑みを浮かべた。


「このフォルトマジア王国という旗を支える持ち手の一人として、そなたの今後の活躍を期待しているぞ」

「ご期待に添えるよう、励んでまいります」

「エヴラール殿、フィア嬢は聡明だがまだ若く、支えを必要とすることもあるだろう。先ほども話したとおり、彼女が必要とするときに力になってくれたらと思う。父君にもくれぐれもよろしく伝えておいてはくれないか」

「もちろんです、陛下。我が父であるナインディア皇帝も今宵のフィア嬢の選択を尊重するでしょう」


 国王はうなずいた。あいさつを終えた後は本来なら王族の前から辞すものだが、フィアが立ち上がる前に国王の視線は少し離れたところで大使夫妻と共にフィアを見守っていた子爵夫人へと向けられた。


「フィッツ゠グリン子爵夫人」


 声をかけられたフランカ・グリンはフィアのとなりに進み出て同じように膝をついた。


「そなたの亡き夫の爵位を生かしておいたのは間違いではなかった。これまでの献身に感謝する」

「身に余るお言葉をいただき、光栄にございます」

「そなたもまた、今後も彼女を支えてやってくれ」

「はい、陛下。与えられたお役目、きちんと果たしてまいります」

「リラトゥアスよ、今宵、我らが顔を合わせるべき若者は彼女で最後だ。席を離れ、皆にエヴラール殿を紹介してさし上げなさい」


 静かにフィアのあいさつを見守っていたリラトゥアスは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに冷静な顔に戻りうなずいた。まだ公に並び立つことができないフィアとリラトゥアスが共にいられるようにしてくれたのは明白だった。


 第二皇子を案内するリラトゥアスの視線がほんの一瞬だけフィアに向けられた。そのやわらかく細められた瑠璃色の瞳だけでも、自分のあいさつはうまくいったのだと思え、フィアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。



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