春Ⅲ:悪魔の子
翌朝も、フィアは一人で身じたくをすませた。そして昨日と同じくしたくが終わってすぐに彼女の元を訪れた者がいた。今日の訪問者は、リラトゥアスの侍従であるローガンだった。
「おはようござます、フィア様」
「おはよう、ローガン」
何かあったのだろうか? と内心首を傾げながら、フィアの視線はローガンの腕の中の花束に向けられた。薄桃色のやわらかな花弁が幾重にも重なったラナンキュラスがおしとやかに包まれている。
「こちらを届けに参りました――殿下からです」
にこにこと上機嫌な笑顔でローガンは長椅子に座ったままのフィアへ、丁寧に花束をさし出した。なんだかよくわからないままそれを受け取ると、すまし顔のラナンキュラスの間にメッセージカードが挟まっている。間違いなく、リラトゥアスの筆跡だ。「君の好奇心の刺激になれば」と簡潔に書かれたそれは、昨日の回廊でのやりとりを思い出させた。
「きれい……」
鼻先を寄せながら、フィアはそっとつぶやいた。
「殿下に直接お礼を言うことはできるかしら?」
「本日は殿下も予定がつまっておりまして……日を改めてなら」
「では手紙を書くわ。お昼過ぎに取りに来てくださる?」
「ええ、もちろんです」
フィアはほっとしたように表情をやわらげた。
「それから、本日の朝食はコンサバトリーに用意してあります。この部屋よりも庭がよく見えますよ」
白銀宮にも瑠璃宮のものよりは少し狭いがコンサバトリーがある。整えられた庭園と、小さな噴水が目を楽しませてくれ、国外の客がこの白銀宮に滞在している時などみんなこの美しい自然を楽しめるガラスの部屋で過ごす時間を作りたがった。
「心遣いに感謝します」
「殿下にお伝えしておきますね」
「花束をどうしたらいいかしら」
この部屋には花瓶がない。折角もらったのだからきれいに飾って少しでも長く楽しみたかった。
「申し訳ありません気が利かず……フィア様が朝食を取っている間に用意させましょう。少しならそのまま置いておいても大丈夫ですよ」
茎の切り口は水を含んだ綿で包まれている。フィアは心配になりながらもうなずいて、できる限りやさしく花束をローテーブルの上に置いたのだった。
でもやはり、朝食の席に持って行けばよかった。
ローガンのエスコートでコンサバトリーに向かう途中、彼がフィアの部屋に花瓶を用意して花を飾っておくよう指示をするのをフィアも傍で聞いていた。その時、念を押すようにその花束がリラトゥアスからの贈り物だと口にしていたのも。きっとそう言わないと仕事をしないかもしれないと思ったのだろう。
しかし今、部屋に戻ったフィアの視界には無残に散ってしまった薄桃色が広がっている。
その傍らに立っている花瓶を持った使用人がフィアに険しい顔を向けた。行きはローガンがエスコートしてくれたが、彼は彼の仕事があるのでコンサバトリーにフィアを送り届けると申し訳なさそうにリラトゥアスの元へ戻って行った。一応、朝食中は護衛が控えていたが、部屋に戻る際に彼女たちがついてくることはなかった。
目の前の使用人はローガンが仕事を頼んだ者ではなかった。あの時声をかけた女性は服装的に侍女だろう。目の前の彼女は着ているものを見るに女中のようだ。フィアと年齢はそう変わらないように見えた。
「花瓶をご用意しました」
フィアが口を開く前に、ぞんざいな口調で女中が言った。そして乱暴な手つきで持っていた陶器の花瓶をローテーブルの上に置いた。散ってしまった花びらが舞う――その光景はどこか現実味がなく、まるでヴェール越しに眺めているようだった。
「失礼いたします」と女中がフィアの横を通り過ぎ部屋を出て行こうとした時に、やっとフィアは我に返った。とっさに「待って」と呼び止めると、聞こえなかったフリもできない距離だったからか、面倒そうに女中は振り返った。
「この花はどういうことなの? 何をしたの?」
声が震えてしまうのを、フィアはどうすることもできなかった。こんな風にのどの奥が熱くなったのははじめてで、心臓が信じられないくらい暴れている感覚がした。女中は睨みつけるように目を細め、「さあ」とそっけなく答えた。
「わたしが部屋に来た時はこうなっていました」
それが嘘だと、フィアは知っている。
「そんなはずないわ」
「お嬢様が雑に置いたのではないですか?」
「あのテーブルの上にきちんと置きました。わたくしがそうしたことを殿下の侍従であるローガンも見ているわ。彼が届けてくれた、殿下からの贈り物ですもの」
リラトゥアスやローガンの名前に女中の顔色が変わったのをフィアは見逃さなかった。
「知らないと言っているでしょう!」
女中は叫んだ。
「言いがかりです! 偉そうなこと言わないで悪魔の子のくせに!!」
「えっ――」
耳を突いた言葉にフィアは呆然とした。その隙に、女中は逃げるように部屋を後にしてしまい、それ以上追及することはできなかった。
悪魔の子――
その言葉を聞いたのは、もう遠い昔のような気がした。実際はまだ三か月もたっていないというのに。
それは、ゼアマッセルで長い間上演されている舞台の悪役の呼び名――真実の愛で結ばれた二人を引き裂いた子ども、フィアのことだ。
でもその舞台は、ゼアマッセルだけで上演されていて、王都では知られていないはずだった。なのに、どうしてあの女中が……? ゼアマッセル出身なのだろうか? しかし王都でかの地の評判を考えると、この真白の王宮で出身の者が働いているとは考えにくい。
とめどない思考から逃げるように目の前に散らかったままのかわいそうな花弁を集めた。一枚ずつそっと拾ったそれは、ほんの少し力をこめたら溶けてなくなってしまいそうで、一枚集めるごとにフィアの胸の奥にはうっすらと霜が重なっていった。
集めた花弁はフィアの両の手からあふれるほどだった。
何度かにわけて少しずつ寝室へそれを運んだ後、ゼアマッセルから王都へ持ってきた数少ない荷物の一つである古ぼけた木の小箱をクローゼットの奥から取り出した。両手で持つとちょうどいいサイズのそれはフィアが暮らした離れに元々あった箱で、何に使われていたのかはわからなかったが、彼女はそこにどうしてもなくしたくないものを入れてきたのだった。
箱を開けると、薄い紫色のリボン、きれいな小石、インクが出なくなった万年筆、それから幼い頃に数回だけやりとりをしたリラトゥアスからの手紙と、誕生日に彼から贈られて来たカードが入っている。
その上にはらはらと集めた花弁を落とし、少しでも長くこのままの状態を保つように丁寧に魔力をこめた。二枚だけ箱からこぼれ落ちているのに気がつき同じようにしようとしたが、ふとその手を止めて、箱を元の場所にしまうと、フィアは二枚の花弁を持ったまま机に向かった。リラトゥアスへ、手紙を書かなければならない――広げた便箋の白に、ラナンキュラスの薄桃色がよく映えた。のどの奥が熱く、叫びたい気持ちを飲み込むように、フィアは机へと顔を伏せたのだった。
約束どおり昼過ぎにローガンが再びフィアの元を訪れた時、フィアの様子はいつもと特に変わってはいなかった。そのはずなのにどことなく違和感も覚えながら、ローガンは彼女が書いた手紙を持って主の元へと戻って行った。
「これは……」
その手紙は幼い頃に数回やりとりをした手紙の面影を残した筆跡で書かれていた。なつかしさと、あの頃の苦い気持ちが胸を過ったが、基本的にはお手本のような淡々とした文章の中にも花を喜ぶフィアの気持ちを察することができて、リラトゥアスはうれしいような、安心したような気持ちになっていた。
気がついたのは、丁寧にたたんだ便箋を封筒に戻そうとした時だった。
逆さにした封筒から、薄桃色の花弁がはらりとこぼれた。書き物用の机の上に染みのように落ちたそれは、たしかに今朝、リラトゥアスがフィアに贈った花束と同じラナンキュラスの物だった。
「あっ」
「どうした?」
ハッとして声を上げたローガンに、リラトゥアスは視線を向けた。
「いえ、この手紙を受け取りに行った時、少し違和感があったのですが……飾られていた花の数が、今朝持っていった物より少なかったのだと……」
眉をひそめる主人に、「もしかしたら寝室と分けて飾ったのかもしれませんが」とローガンはつけ足した。と言っても、彼はそうするように侍女に頼まなかったし、侍女がフィアのために気をきかせて花瓶を二つ用意するとも思えなかった。
「それは――」
リラトゥアスの言葉は、扉をノックする音で遮られた。
「兄上、今、よろしいですか?」
やわらかな声に入室の許可を出したのに合わせてローガンが扉を開けると、侍従と護衛を連れたリラトゥアスの弟、エデュアルトが立っていた。兄とどことなく似た顔立ちだが、癖のあるやわらかな金髪と兄より薄い色合いの青い瞳に浮かぶ悪戯っぽい雰囲気が十四歳の彼の年相応さと親しみやすさを感じさせた。
「どうしたんだ?」
手紙を引き出しにしまい、ソファに向かい合って座ると、リラトゥアスから口をかけた。
「学院でちょっと気になることがあったんです」
エデュアルトは王都にあるアーケアネス王立学園に通っている学生だ。学友も数名ついているが、将来役に立ちそうな分野以外に美術方面に興味を持っていくつかの授業を履修しているらしく、学友以外にも交友関係を広げていた。
「気になること?」
「王太子殿下が悪女と無理やり結婚させられそうになっているという噂があって――」
「は?」
「そういうお芝居が流行っているみたいなんです。と言っても、大衆向けの劇場でらしいんですが……僕も聞いただけなんだけど……」
エデュアルトの学友の一人が聞いてきた話を教えてくれたらしい。
その学友が同じ授業を履修している平民――と言っても、富裕層の出身だ――から、今、平民を中心に流行っている舞台の内容が実は本当のことなのではないかとたずねられたのがきっかけだった。
真実の愛で結ばれた夫婦がいたが悪魔の子によって妻の命が奪われ、二人の愛は悲劇に終わる。その悪魔は成長し、周囲をたぶらかして国の王子の婚約者となる。もし悪魔が王子の妻、この国の妃となれば国は荒れるだろう。しかし真実の愛で結ばれた夫婦の子どもが真実の力で悪魔を倒し、王子と国は救われるのだった……。
「――という話らしいんです」
「なんだそれは……」
「僕もバカバカしいとは思ったけれど」
「……たしか、ゼアマッセルに似たような内容の芝居があるらしいな」
そういう話を聞いたことがあるというだけで、実際に観たことがあるわけではない。が、“真実の愛で結ばれた二人”が“悪魔の子”によって引き裂かれるという内容であるのは知っていた。エデュアルトが聞いた話と似ているが、後半部分は全くはじめて聞く内容だ。
リラトゥアスは少し考えるように顎に手を当てた。ゼアマッセルで上演されている舞台が何を示しているのかは考えるまでもない。それなら、今、王都の大衆劇場で上演されている舞台が意味するところは――。
「ローガン、誰か人をやってその舞台の脚本家について調べてくれないか?」
「わかりました」
「エデュアルト、もし学院で他に何か噂になっていることがあったらその都度教えて欲しい」
エデュアルトは素直にうなずいた。彼自身は学生なのもあってまだフィアとそれほど接していないが、兄は婚約者のことをそれなりに認めているように感じていた。どちらにしろ、国の決めた婚約についてあれこれいうように見える舞台が――たとえそうだと意図していなくても――上演されているのはいささか問題があるとエデュアルトでもわかる。
エデュアルトとローガンが部屋を出て行き、静かになった室内で、リラトゥアスはエデュアルトが訪ねて来た時に引き出しへしまった手紙を取り出した。それを奥の寝室へと持っていく。そしてベッドサイドの小さなチェスト、その一番下の引き出しにしまわれた箱を取り出した。
寄木細工のその箱は、鍵穴がついていないが仕掛けを解かなければ開かないようになっている。子どもの頃から愛用しているそれを手慣れた手つきで開き、蓋を開けると古ぼけた数通の手紙や、シンプルなカードの上に今日もらった手紙をしまった。
この箱に収められているものは全てフィアからもらった物だ。あの短い文通の際にもらった手紙、リラトゥアスの誕生日に贈られてきたプレゼントにつけられていたカードやリボン。全てどうしてか捨てられずにこの箱の中にしまわれている。
蓋を閉めようとした手をふと止め、リラトゥアスはしまった手紙をもう一度手に取ると封筒の中の花弁を手に取った。手のひらの上で魔力をこめ、花弁の状態が劣化しないようにする。
ゼアマッセルの舞台のことも気になるが、この封筒にまぎれこんでいた花弁のこともリラトゥアスは気にかかった。
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