世界で一番残酷な夢(5)
妃と執事、それからロックに対しAとアンを紹介したQは、改めて白雪姫を見かけた地点を告げた。リボンを辿っていけばそのうち着くだろう。
おそらくもうその場にはいないと思うが、と前置きをしたけれども妃はそこへ向かうと聞かず、結局皆で歩くことになった。
アンはロックに懐き、例によって嬉々として彼を質問ぜめにしている。ロックの方も面倒見が良いようで、一つ一つ丁寧にそれに答えてやっていた。
その間にQは他の人々に聞かれぬように注意しながら、そっとAに声をかける。
「なあ、A。ちょっといいか」
「どうしたの?」
「ここについて、気になることがあってな。考えをまとめるために意見をくれないか」
「僕でいいのなら」
「助かるよ」
出会ってから一日も経っていないとはいえ、QはAのことをそれなりに信頼し認めていた。
少ししか話してはいないが、少なくとも同世代の少年少女よりは頭の回転が速く、大人びた視点から物事を思考する能力があると感じる。相談相手には申し分ない。
「さっき『白雪姫』って名前を聞いて、どう思った?」
「うーん。なんかすごくこう、メルヘンだなあ、って思った」
「それを『お妃様』が追いかけている点については?」
「真剣に探してるように見えるから彼女には悪いけど、ちょっと嫌な感じがするなあ、って。やっぱりその、ほら。ね?
でも直接、探してどうするつもりなの、とか聞くのはどうかと思いつつ」
「俺と同意見だな」
Qも妃と会話してみて、彼女が物騒な目的で義娘を探しているようには思えなかった。
しかしながら、さすがに妃に対して面と向かい、見つけた姫を毒殺する気はないんですか、とは確かめられない。雇われているロックも、話から姫を見つけるように言われているだけで殺せとは命じられてはいないようだが、実際のところはどうなのだろう。
「だから、この感覚をどう言えばいいのかなぁ。とてもメルヘンだけど、いわゆる物語の世界に迷い込んでしまった、という感じそのものではないというか。何だろうね」
「ありがとう。参考になる」
話してみると想像以上にAの感覚はQに近しく、考察を深めるのには役立つだろう。けれどもあとわずか、目指すべき仮説が組み上がらない。
もう一つ、Qは今朝より気になっていたことをAに聞いてみることにした。
「ところで……『ケティ・モーリス』、という名前を聞いて何かピンとくるものがあるか」
「えっ、ごめん。分からないかな」
唐突な問いにAは素直に答える。名前である、と言われてすら心当たりがない。
期待に添えずに申し訳ない。Aはそのような視線を投げるが、Qの方は特に気落ちした様子もなく、その回答に頷く。
「だよな。俺も大抵の人はその反応だと思う」
「誰なの、それ?」
「『アン』の
「アンの……っていったら、あのお人形かな? いつも持ってる女の子と兎のやつ」
振り返り、やや後ろを歩く少女の手元を見る。その腕には昨夜と同じく二体の人形が抱えられている。
Qは頷く代わりに、今度は首を横に振った。
「それも正しいんだが、俺が今言った『アン』はこの場にいる子のことじゃない」
「どういうこと?」
「——聞いたことないか。『赤毛のアン』っていうタイトル」
ゆっくりと、Qはとある文学作品の題名を口にした。
『赤毛のアン』——。
緑の切妻屋根の家に引き取られて暮らすことになる少女の成長を描いた物語である。
「あ、それは聞いたことがある。読んだことはないけど」
「その中に出てくる、主人公『アン』がガラスに映った自分の姿を友達に見立てて付けた名前が『ケティ・モーリス』なんだ」
「へえ、そうなんだ。それは知らなかったよ。じゃあ、アンのお人形もそこが由来なのかな」
「……だと、思うだろう? だけどあの子は、俺がその名前を知っていることを不思議がっていた。本を読んだ、と伝えてもだ」
もし彼女自身が『赤毛のアン』を読み、人形に名を付けたとする。子供であれば、自分と同じ名を持つ主人公が出てくる話を読めば印象には強く残るはずだ。
たが、彼女の反応はそれを知るものには思えなかった。
もちろん、今は児童書としての扱いが多いとはいえ『赤毛のアン』は元々子供向けに書かれた童話ではない。幼いアンが読むには難しすぎた可能性はあるだろう。
それであれば。
「それなら、ご両親のどちらかが名前を付けてあげたとか? お母さんは読書家だったよね」
「最初は俺もそう思った。偶然付ける名前にしては出来すぎているからな。だからふと今朝、書斎に案内された時に奥さんに聞いてみたんだ。『赤毛のアン』はあるか、って」
もしここが自分達の生きた世界と違う歴史をたどっているのなら、作中に出てくる地名や引用句などはどうなるのだろう、とQは気になった。
立派な書斎に数ある本の中から一つ一つを手に取り調べるのも手間なので、確実に置いてあるだろう書名を尋ねたわけだ。
「でも、奥さんは言った」
——何ですか、それ?
「えっ、知らないの? 知らないで付けた名前が偶然同じなんてことがあるのかな」
「な、おかしいと思うだろう?
それからもう一つ、奥さんはタイトルを知らなかった。家にない、もしくは読んだことがない、ではなく、そもそも聞いたことすらなかったんだよ。おまえですら題名を知っている小説を、あれだけ本を読む人がだぞ?」
極めて不思議だった。
ここはどこか遠くの異世界で、QやAの知る故郷と全く関わりがなく、そもそも『赤毛のアン』が存在しない。これは納得する。
しかしそれなら存在しない小説の登場人物と、ここで実際に生きている少女の人形の名が同じなどという、そんな偶然の一致が起こったのはなぜなのだろう。
「これに似たことが、あのロックって少年の話にもあった」
Qは彼から聞いた『ウィリアム・テル』についての経緯をAにも伝えた。聞き終えたAは、Qと同様に首を傾げている。
「確かに同じような感じだね」
「ああ。ロックの方は人から聞いたようだが、疑問点は同じだ」
「うーん、何だろう……」
考えつつも答えは出ないようでAは唸っている。声にこそ出さないがQも似たような気持ちだ。
今の状況で手に入っている情報ではこれ以上の進展はないだろう。もっと手掛かりを集めなければ。
「何でもいい。話を聞いてみよう」
Qは足を早め、前を歩く妃達を呼び止めた。
「少し休みませんか」
「休む? おまえ、その間に白雪が遠くに行ったらどうするの」
「おそらく、彼女はこの森から出ませんよ」
「どうしてそう言い切れるの」
「……『白雪姫』は森の中でお妃様に見つけられる。そういうものだからです」
話を聞く時間稼ぎに、と適当に言ってみたが、意外にも妃はそれ以上食い下がることなく足を止めた。
おそらくプライドの為に言い出さなかっただけで、かなり足が疲れていたに違いない。
妃は大木の陰に座り込み、服が汚れることも気にせずにその背を幹に預ける。
「わたくしは少し休みます。ディム、隣にいなさい」
「かしこまりました。どうぞ、お好きに」
にこりともしない執事の横で妃は目を閉じた。間もなく小さな寝息が聞こえる。
それを見てアンも近くの木陰に寝転んだ。どうやら妃を真似ているらしい。Qはディムのごとく隣にいるよう手招きされたが、代わりにロックを行かせた。
この機会を逃すわけにはいかない。
アンはQに向かって口を尖らせるも、ロックが頭を撫でるとそのまま眠りに落ちていった。ロックの方も欠伸を繰り返しているのでそのうち後を追うことだろう。
◎
「少し、話を聞いても?」
眠る少女達を起こさぬように気を遣いつつも、QとAは佇むポリッシュに声をかけた。彼は妃を見守りながら直立不動で待機していたが、Qの問いににこやかな微笑みを返す。
「ええ、構いませんとも。何をお尋ねでしょうか」
「ああ、そうだな……ええと、あんたの主人がどんな人なのか知りたいんだ。あんたの目から見た姿でいいから」
「——私の目から見たお妃様、ですか?」
ふふ、と意味ありげにポリッシュは笑ってみせる。
「そうですねえ。私に映るお妃様は、才能溢れるたいへん魅力的な存在ですよ」
穏やかな眼差しで、目を閉じた妃に微笑みかける。過去の記憶を思い返しているのだろう。
「ご幼少期、彼女は先代の女王様に養女として迎えられました。その頃からその素晴らしい輝きは変わりません。
義母である女王様が失踪されてからというもの、まだ幼いのに国を背負い、民を想い、そして義娘を愛し育てている……世界で一番美しくてお優しい、そんなお方なのです」
つらつらと恥ずかしげもなく、ポリッシュは主人に対する賛辞を述べる。
並べられた美辞麗句に、結局Qは正直なところ、妃がどのような人間なのかよく分からなかった。
「ところでさ、先代の女王様はどこへ行ったの?」
横で頷いていたAも、話を聞くうちに興味がわいたようで疑問を口にした。
「失踪、と言ったけど。あのお妃様を置いて出て行った……ってこと? 歳のわりにしっかりしている方なんだろうけど、彼女はまだ子供じゃないか」
同じくらいの年齢のくせによく言うが、確かにAの指摘はもっともだ。
「先代の女王——つまり当時のお妃様は、まだお姫様だった頃の白雪妃様と仲が悪かったのかな?」
何気なくAは問いかけたが、それはQも気になるところだった。
今彼らが探している相手だけでなく、それを探す妃もどちらも『白雪ひめ』には違いない。継母との関係にはつい興味を持ってしまうというものだ。
「先代の女王様もとても素敵なお方でしたよ。お二人は本当に仲が良かったのです。お妃様はお城にいらしてからずっと、愛情を注がれ大切に育てられていました。
ですので先代の女王様の失踪はご自身の意志ではなく、何か悪しき謀略の果てに引き起こされた悲劇ではないかと思うのです」
「おおっと……」
真顔でさらりと告げられた内容にQは視線を泳がせた。横を見ると、尋ねた張本人であるAも似たような表情を浮かべている。
これ、いわゆる国家機密の類では。
「あの、そういうのって俺達のような部外者の一般人に言っていいのか?」
「おやいけませんでしたか? 気分を害されたのであれば申し訳ございません。お尋ねになられましたので、お答えしたまでにございます」
「そう、なのか……」
確実に聞いたらまずい情報のような気がするのだが、それを述べたポリッシュ自身は全く意に介さないように見える。
ややあって、QとAがなんとも気まずい空気を伴っていることに思い至ったのか、彼は何事もなかったかのように補足した。
「ああでも、もちろんこれはあくまでも、私個人からの見方を述べたまでですよ。私はそのように考えるように出来ていますから。そこに善悪の判断を含めて感情はありません。そういうものなのです」
含みを持たせた言い方だった。
どことなく引っかかる言い回しに反応したのは、QではなくAの方である。
「もしかして——あなたは、擬人なの?」
違っていたらごめんなさい、とAは付け足した。ポリッシュは笑みを絶やさず、その言葉に頷く。
「仰るとおりでございますとも。私とあちらのディムは本来二枚で一組の調度品、一対の姿見。まあ要するに、鏡ですよ」
ポリッシュの言葉に、Aは合点がいったと言わんばかりの表情で応えた。
「どうりで、なんだかちょっと変わってるわけだね」
「おや、これは失礼。名乗った際にお伝えしておくべきでしたか」
「ううん、別にいいよ。擬人だって聞いたところで僕は特に何とも思わないもの。Qちゃんは分からないけど。あ、そもそも擬人を知らないか」
目で問いかけると、Aの視線にQは素直に頷いた。
「擬人……っていうのは?」
「ふむ、そちらの彼はご存知ないのですね」
「Qちゃんは世間知らずなんだよ、ものすごく」
「悪かったな」
茶化すAにQが不貞腐れるように返すのを、ポリッシュは変わらぬ様子で見つめている。彼が何者であるかについて、Qの知識が乏しいことを責める気はないらしい。むしろにこやかな笑みはよりいっそう濃くなるくらいだ。
「それでは僭越ながら、我々『擬人』とはどのような存在であるかをご説明致します」
そう言うと、ポリッシュは白い手袋に包まれた左手を顔の前に構え、右手でそのうち一本の指先をつまむ。
「こちらをご覧ください」
手袋をさっと外し、Qに見せるようにして手のひらを向けた。
そう、手のひら。
そこに微かな陽光が集まる。きらきらと輝いて眩い。そしてその煌めきは手のひらに当たると反射し、直視していたQの目を灼く。
「そのもの文字どおり、手鏡です」
誇らしげな顔。上手いことを言った気でいるらしい。だがQには見えない。目を瞑っているからである。
「おい、いきなり何を!」
「お気に召しませんでしたか? 結構、評判良いんですけどね、このジョーク」
「そういうことじゃなく……まあ、いいんだが」
薄目を開けてポリッシュが手袋を着け直したのを確認してから、ようやくQは前を向いた。
「本当に、鏡なのか」
「そうですよ。我々は古い姿見です。かつて魔術師より生命を与えられ、魔女よりこの姿に変えられました。その際、鏡であるというアイデンティティの保持の為にこの手を残していただいたわけです」
ヒトの外見を得るにあたって肌のすべてが鏡面でもよかったのですが、と続けるポリッシュにQは苦い顔をした。一歩間違えれば彼らは歩く凶器になっていたかもしれない。
「亜人とは違う……んだよな?」
「全然違うよ、Qちゃん。亜人は生まれつきそういう種族だもの。擬人っていうのは別種の何かが、人の心や外見を得た存在なんだ。つまりは元々人間ではないんだけど……」
そこまで言い、Aはポリッシュとディムに微笑みかけた。
「でも。かといって、物じゃない。もうすでに感情を持っているんだから。僕は擬人をあくまでも人として捉えてる」
「あぁ、擬人とは何か? そうです、仰るとおりでございます! なんと賢いのでしょう! さらにはたいへんお優しい!」
感動したのかしらないが、ポリッシュはAを褒め称えた。やや過剰な反応にAはやや赤くなっている。
「そ、そこまでのことじゃないよ? 普通だよ」
「その普通という考えを持つのが難しいのが人間、特に純粋なるヒトの方々でしょう」
言い得て妙だ、とQは否定できなかった。
人間とは、自分達と異なるものを受け入れることが苦手な生き物だ。Q自身そのような状況を幾度となく経験している。
このAの価値観は子供特有の素直さによるものか、それともQよりも器が大きいことの表れか。
ともかくもAはポリッシュの指摘どおりに賢く優しい善人なのだろう。
——だから、気付いても聞けないのだ。
「なあ、これは推測なんだが」
ポリッシュとディムが鏡としての役割を持つのならば。
「もしかして、白雪姫が城を出ていく原因を作ったのは、あんたらなんじゃないのか」
Aの代わりに悪役を買って出よう。
Qという男はそう言い訳をしつつ、結局は好奇心に勝てなかった。
◎
白雪、と少女は呼ばれていた。
名をくれたのは義母。名を呼んでくれるのも義母。その名を認めてくれる人は唯一、義母だけだった。
わたしが、悪いのかな。
自分は周りに認められない。愛される存在にはなれない。それは自分が、義母に見合う存在ではないからだ。
幼い頭には常にその考えがあった。
でも、どうすればいいんだろう。
白雪は悩んだ。起きている時はもちろん、眠っている時ですら。
義母たるお妃様は美しく、周りの皆に敬愛される女王である。そんな彼女の娘として相応しい、と。そう人々から思われるような存在でありたい。
白雪の悩みはいつしか願いに、そして祈りへと変わっていった。
——お母様のような、綺麗なひとになれますように。
叶うはずのない望みと分かっていても、感情は止められなかった。
いつもいつも。周りに馴染めぬ自分を責めるのと同時に、憧れの義母の隣に立つ優雅な将来を想像する。そしてその夢までが遥か遠いことに、また自分の惨めさを思い知るのだ。
わたし、どうしてここにいるんだろう。
誰からも期待されていないのに。求められていないのに。なのにここにいる意味は、価値はあるのだろうか。
繰り返す自問に答えはなく、ただただ清らかだった心に雲がかかってゆくだけだ。
その心に再び光が差したのは、とある女が彼女の元を訪れた時だった。
——ね、キミ。とっても困っているみたいね。アタシがなんとかしてあげましょうか?
長く伸ばした髪と爪。先を巻いた装飾が特徴的な靴に帽子。夜風に揺れる蒼い服。
皆寝静まる深夜のこと。
どうやってここまで来たのかは分からないが、その女は寝室の窓の外、バルコニーの柵に腰掛け白雪へ向けて手招きしている。
閉められているはずの窓は開け放たれており、白雪が女の誘いに乗るのを止める者はなかった。
この人のことは知っている。執事の二人から、聞いたことがある。確か、ええと。
「あなたはもしかして、魔法使い……?」
「そうよ。それも、きっとキミが最も望む魔法を使えるのがアタシ。皆からは魔女、って呼ばれてるわ」
口元だけ笑んだ表情を浮かべ、女はそう告げた。弧を描く唇とは対照的に、瞳には仄暗い何かを感じる。
魔女の機嫌を損ねてはならない。白雪は本能的にそう悟った。
「ん〜? 緊張でもしてるのかしら。いいのよ、楽にして。アタシはね、キミみたいに自分が嫌いな子には優しいのよ」
——だって、とっても可哀想だもの。
そう言って魔女はくすくすと笑う。
魔法使い、その中でも気分屋と言われている魔女。
もしかしたら関わるべきではないのかもしれない。けれども、白雪はこの機会を逃す気はなかった。
なぜなら——彼女は『姿を変える魔法使い』として世間で知られていて、まさしく本人の言うとおり、白雪の望みを叶えられる力を有しているからだ。
白雪はこの瞬間を待ち望んでいた。ずっとずっと、愛するひとを羨んだ日から。
だから、素直に願いを告げてしまった。
「魔女さん。お願いがあります。わたしを美しい姿にしてください。お母様と同じように、世界で一番美しいひとに」
◎
「数日前のことです」
ポリッシュは非難とも取れるようなQの発言に対し、特に何ら気にする様子もなく話し始めた。
——とても穏やかな朝でした。
私とディムは例のごとく、お妃様とお嬢様を起こそうとお二人の寝室を訪れたのでございます。
扉を開けると、窓辺には外を眺めるお妃様が佇んでいました。
おや、と私は驚きましたよ。
ここ最近の中では日差しは暖かい方ではありましたが、それでも肌寒い朝なのにお妃様自らお目覚めだなんて。
これはもう、使用人を集めてその偉業を讃えるべきではなかろうか、などと私は考えつつも声をおかけしたわけです。
すると、妙な違和感がありました。
優雅に朝の挨拶をなさったのはお妃様ではなく、完全にそのお姿と瓜二つの別人だったのですよ。
彼女はお妃様とよく似た声でこう仰いました。
「ふふ、おはよう。ねえ、ポリッシュ。わたし、綺麗になったでしょう? ねえ、ディム。わたし、お母様と同じくらいに美しくなれているかしら?」
私はそこでようやく、彼女が白雪姫様だと気付いたのです。改めて視れば確かにその心の内はお嬢様のもので、変わったのはお姿だけだとすぐに分かりました。
問題はこの後、私の傍らに立っていたディムが告げた内容が今回の騒動の発端だと言えましょう。
「これはこれは、白雪姫様。あなたはとてもお綺麗ですよ。この国のどんな女性よりも、あぁ、もちろんお妃様よりも。世界で一番お美しいのはあなたに違いありません」
ディムはそう口にして、白雪姫様へ微笑みかけました。お妃様が手に入れることは叶わないものを、なんとまあこうもあっさりと。
そして間の悪いことに……いえ、ディムはきっと気付いた上で述べたのでしょうね。
すぐ近くの寝台にて眠っていたはずのお妃様はいつの間にか瞼を開けて、凍てつくような眼差しでじっとその光景を見つめていたのです——。
◎
「そこから先は予想がつくやもしれません。お妃様は真っ青なお顔で唇を震わせ、辺りに怒りをぶつけ叫びました。その様子に酷く傷ついたお嬢様は城を飛び出し、森へと駆けて行ってしまったのです」
そして現在に至ります、とポリッシュは締め括った。
「いやそれにしても素晴らしい洞察力でございますね! 私どもの失言が白雪姫様のご失踪の原因であると見抜くお力に、私は感服致しました。もしやQ様は探偵か何かをなさっていらっしゃるお方なのでしょうか!」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
なんと答えたものか。
物語の展開的にそういうものだから、というのでは答えにならないだろう。
Qは曖昧に言葉を濁し、
「……そんなことよりも」
と、妃の隣で身動きもせず無表情の男に視線を向けさせた。
「その、なんで彼はそんな発言を? そんなことを言えばこうなることは分かりきっていただろうに」
「ええ、ええ。ごもっともです。しかしながら、問われれば己の心のままに答えるしかないのが我々なのです。あぁ、なぜ私にのみ問いかけてくださらなかったのか! 私にだけお聞きになれば、万事が上手くいきましたものを!」
確かにディムに比べればポリッシュの方が幾分かうまく言葉を選んで場を収めただろう、と正直に思う。
しかし彼の言葉にはそれ以上に絶対の自信が垣間見えた。
「あんたが考えた台詞なら妃を怒らせなかった、ってことか」
「そうですね。厳密には私の言葉は考えて口にしているものではないのですが、結果としてはそうなったでしょう。それが私という鏡の有する機能であり、私の執事としての役割ですから」
「機能? 役割?」
「ええ」
ポリッシュはまるで舞台上の俳優のような身振りで深くお辞儀をすると、右手を胸に当てる。
「私は人々の、特に所有者である方のお心に宿る希望を映す鏡なのです。こうありたいという願い、こうしてほしいという望み。そういったものをただただ読み取り、可能な限りでそれに沿って行動しているだけ。何も考えてなどいないのですよ。
私に与えられた感情は自らの為でなく、主人の為にこそある。それこそが私です。そして——」
手首を返しディムを指差す。
ポリッシュが希望を映す鏡であるならば。その対である彼の機能も察しがつく。
「ディムは私とは逆に、心を縛る絶望を映すのです。胸の内に秘めた恐怖、心配、不安、嫌悪。そういったものを見つめ直して克服する為の足掛かりとしていただく、というのが本来果たすべき役割なのです。
けれども、我らがお妃様にはいささか酷であったようですね」
目を伏せ、悲しそうにポリッシュは告げる。彼の言葉どおりならその表情はきっと妃に同情、いや同調したものなのだろう。
「要するに、二人は彼女の気持ちを理解した上で最良と最悪の選択肢を実行し続けているんだね」
Qには突飛な事実に思えるが、Aは頷き、特に疑問も持たずにポリッシュの話す内容を受け入れている。
「ええ、そうでございますとも。もちろん他の方々の心も視えますが、最優先は所有者であるお妃様ですからね。現在の我々の行動や性格は彼女に合わせた仕様となっております」
なんとまあ面倒な設定になっているようだ。そうQは胸中で考え、はっとした。
他の人間の心も視える——それならば、もしや出会ってからこれまでに思ったことはすべて筒抜けだったのではないだろうか。
隠さねばならぬようなやましいことは考えていないが、口にするにはややばつが悪い所感や憶測があったことは否定できない。
気まずい思いでポリッシュを見る。どうやら相手はQが何を思ったかを察したようだ。おそらく、過去にも誰かと同じようなやり取りがあったのだろう。
取り繕おうとQが言葉を探していると、ポリッシュは穏やかに笑った。
「あぁ、お二方ともお気になさらず。実を言いますとね、お二人の心は我々にも視えないのです」
「え?」
「お二人のような特殊な方々がいらっしゃる、という噂はかつて耳にしたことがあります。実際にお会いするのは初めてですけれども」
天気の話でもするかのごとく自然に、さらりとポリッシュはQとAを特別扱いした。言い方から、ディムの方も二人に対して他の人間と違う何かを見出しているのだろう。
もちろんQには心当たりがある。ここにおいて、彼とAの出自はどう考えても普通ではないからだ。
しかし、それが彼らの機能が働かないことと何か関係するのだろうか。
「俺達のように特殊、と言ったよな。あんたらにとって、俺達は他の人間と何か違うのか? たとえば傍にいるだけで悪影響があるとか、そういったことなら申し訳ないんだが」
「そういうわけではございません。ただ、お二人のような方に遭遇した際には……気を付けるように、と。そのように伺っております」
「誰から?」
「我々の恩人、と言っていいのかはわかりませんが。率直に述べると魔法使いからですよ」
「……魔法使い、か」
これまでに得た情報、合わせて彼の発言から、魔術師と魔女という存在がいるらしいことは分かっている。そのどちらかが彼に忠告を与えたのだろう。
「それはどういう——」
意味か、と訊ねようとした時、やや離れた林の奥から唸り声が響いた。
遠吠えのような獣の咆哮。
耳を揺さぶるその音に、ロックと妃は跳ね起きる。
「今の鳴き声、狼っす! 急いでここから離れないと!」
「何を言うの! 逃げるわけないでしょう、白雪が危ないかもしれないわ!」
ロックの静止を聞かず、妃は立ち上がるやいなや音のした方へと駆け出した。執事達も躊躇なくその背を追う。
「ちょっ、お妃様! 危ないって!」
舌打ちをしつつもロックもその後に続く。
アンはまだ眠そうだが、隣にいたロックがいきなりいなくなったことで目を開けた。何度か瞬きをして、反射的に去っていくロックの姿が目に入る。
「どこ行くの! アンも連れてってよ!」
QとAは一瞬顔を見合わせたが、このままアンを含めた皆を放っておくわけにはいかず結局揃って彼らを追うしかないのだった。
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