世界で一番残酷な夢(3)

 明くる朝。日が昇ってややしてからQが階下に降りてくると、すでにアンの母は起きていた。朝食の支度をしているのか、パンの焼ける香りがする。

「おはようございます」

「あら、早いのね。よく眠れたかしら」

「ええ」


 気を遣って返すが、本当のところほとんど眠れてはいない。寝付けなかったというのではなく、そもそも身体が睡眠を必要としている感覚がなかった。

 Aに尋ねるとに来てからあちらも同様とのことで、きっとそういうものなのだろう。


「待っていてね、まだ朝ご飯は準備中なの」

「いえ、むしろすみません。何の手伝いもせず」

「気になさらないで、お料理するのが好きなの。特にお客さんに振る舞えるなんて滅多にないことだから、張り切って作るわ」

 にこやかに微笑みながら、彼女は手際良く野菜を刻んでゆく。包丁のリズムがとんとんと響き、少し懐かしい気持ちになった。


「お暇なら家の周りでもお散歩なさる? それとも、新聞でもお読みになるかしら」

「新聞ですか」

「ええ。ついさっきまでお父さんが読んでいたから、食卓の上にあると思うわ。あなたの故郷のお話は載っていないかもしれないけれど、よろしければどうぞ」

 指差す先を見れば、机上には畳まれた新聞が置かれている。


 言葉は通じたが、果たして文字は読めるものだろうか。

 好奇心に従い手に取ると、そこには初めて見る記号の羅列——と思いきや、紙面にはQの見知った文字が並んでいる。


 だが、それが何よりも奇妙だった。


 文字は彼の解する英語と日本語、そのどちらにも読める。動かすと角度によって見え方の変わる絵のように、意識次第でどちらとも認識できる状態なのだ。

 どういう理屈かは知らないが、おそらくでの言語や文字は読み手の感覚に合わせて自動翻訳されるに違いない。Qは母国語と日常生活とで使用言語が違うため、このようなことになるのだろう。

 得をしているのか、それとも損をしているのか。


 せっかくなので新聞を広げてみる。話題からしてこの地域だけに発行されている地方紙らしい。

 隣町の靴屋が改装開店しただの、森に獣が出て賞金がかけられているだの、王宮で使用人を募集しているだの、ざっとそんな内容が記されている。

「面白いな……」

 よくある見出しに混じりQにとって非日常な要素が散らばっている様はなんとも興味深い。


「まあ。田舎町ですもの、そんなに面白いことなんてないでしょう。それとも何かお読みになるのがお好きなのかしら」

「それはそのとおりかな」

「読書はいいわよね。私も暇さえあれば本を読んでるわ。朝食まではまだもう少しかかるから、書斎でもご覧になる?」

「是非ともお願いします」


 アンの母はいったん鍋の火を止め、台所を出るとQを廊下の先の一室へと案内した。

 重い木の扉を開けると、奥にはずらりと書籍の詰まった立派な本棚が幾つも設えてある。

「これはなかなかの蔵書だな」

「ふふ、何もないところですもの。ついつい気になると手に取って、そのまま揃えてしまって」


 並んだ本の背表紙を見れば、専門書や実用書、歴史書、啓発本、料理のレシピやエッセイなど多岐に渡っているようだ。装丁から子供向けと思われるものもある。


「退屈でしょうし、滞在なさっている間は好きに読んでいいわよ」

「ありがとうございます」


 適当な一冊を開く。例のごとく、背表紙はもちろん肝心の中身もきちんと理解できる。から帰るにあたり助けになるような情報が得られるかは分からないが、調べてみる価値はあるだろう。


 またその目的とは別に、Qには純粋な興味としても気になることがあった。異世界かもしれない地域の本なんて滅多に読めるものではない。


 さて、まず読むべきは——。


   ◎


「それでね、Qさんったら。結局朝食ができるまでずっと書斎で本を読んでいらしたのよ。呼んでも全然気付かないくらい、熱心に」

「……お恥ずかしい限りです」

「いやいや、いいんだよ。うちの妻が揃えた本、なかなかのものだろう? あれを読むのが我々夫婦だけとなると寂しい、と常に思っていたからね」


 朝食の席ではアンの母が饒舌に、集められた本についてを語った。昨日の印象では控えめな性格だと感じていたが、実際はそうでもないようだ。


 Qは、彼女の勧める特に気に入りの本について聞きながら思考を巡らせていた。引っかかることがあるのだ。


 後でAに相談してみよう、と思いつつスープを口に運ぶ。

 やはり食欲は起きず、味覚も心なしかやや鈍い。しかし食物を身体が受け付けていないというわけではないようで、食べること自体は問題なくできる。

 この家族には心配をかけたくない。Qは目の前に出されたものはすべて食べることにした。


「僕はこのあたりでごちそうさま」

「アンもお腹いっぱい! ねぇA、森へ遊びに行こうよ」

「うん、いいよ。でも後片付けを手伝わないと」


 あまり食べる方ではないようで、Aは早々にカトラリーを置き、ミルクをたっぷりと注いだ紅茶を飲んでいる。


「片付けは任せていいわよ。遊んでいらっしゃい」

「やったぁ! ありがとうお母さん。ほら行こう、A」

「分かったよ、アン。それじゃあ、お昼の準備はお手伝いさせてね」


 Aはアンの両親に会釈し、自身の食器を片付けた。そのまま幼い少女に手を引かれて部屋を出て行く。

 窓から差し込んだ柔らかい陽光が、アンの赤毛をきらきらと輝かせた。


「いいかい? ちゃんと帽子と、マフラーも忘れずにね。外はとっても寒いよ」

「はぁい、A」

 玄関の辺りから聞こえる声にアンの両親は笑みをこぼす。娘に人形以外の友人ができたことが嬉しいのだろう。


 Qは追いかけて話を聞くべきかとも思ったが、あの和やかな空気を壊してまでのことではない、と今は食事を続けることにした。

 パンとスープにミートグラタン。サラダとおまけにデザートのパイ。色も鮮やかなアンの母の手作り料理はかなりのボリュームだ。


 たくさん食べてくれるのが嬉しいのだろう。アンの母は自分が食べ終えても席を立たずに、Qの食事姿を微笑みながら眺めている。アンの父も同様に上機嫌だ。

 二人の視線に、Qは残さぬよう食べ進めていく。とりわけゆっくりしたつもりはなかったが、話しながら気付けばそれなりの時間が経っていた。


「そんなにお腹が空いていたのね。まだおかわりがあるわよ」

「いえ、もう充分です。ありがとう」

 このまま食べ続けると一日が過ぎ、そのまま次の食事の時間になってしまう。


 せっかくの厚意に申し訳ないとは感じつつも、アンの母が皿に追加の料理を載せるのを阻止することに成功したQは食器を手に席を立つ。

 そのまま片付けを手伝うと、その後しばらくの間は散歩に繰り出すことにした。


 本も読みたいところではあったが、これからアンの父が書斎で仕事をするらしく、邪魔にならぬよう退散したわけだ。


 玄関の扉を開けて、外へ。

 空を見上げると雲は厚く、その切れ間からは光が差している。案の定、これといって寒さは感じないのだが冬を感じる景色だ。見れば、足元の所々に雪の塊も残っている。


 Qは昨夜の自身の格好を思い出す。それは心配されて当然だろう。彼の暮らしていた街では、もう半袖で過ごす季節なのだから。


 体感的なものはさほど変わらないが、アンの父から譲り受けたコートを着てきて良かったように思う。彼の衣類はQには小さすぎたが、かつてこの辺りを訪れたヒトの旅人が置いていったものがあったのだ。

 次に訪れる地では不要だろうから捨てておいてほしい、とその客人も言っていたとのことで、遠慮しつつも受け取ることにした。断るとあの家族をまた不安にさせてしまう。


「さて、どうするか」

 もちろん、行くあてなどはない。


 振り返って確認すると家の屋根は緑色をしており、森の樹々に溶け込んでいる。遠く離れすぎると戻ってこられなくなるだろう。


 何か目印になるものは、と辺りを見回す。すると視界の端に赤いリボンが見えた。大きな木の枝に結ばれ、風ではためいている。

 近付いて周りを確認したところ、同じ色のリボンがまた少し先の枝にも揺れていた。


 見ればその根元には小さな足跡が二組並んでいる。この跡もリボンも、きっとAとアンが付けたものに違いない。


 このまま進めば二人に追いつけるかもしれない。

 Qは足跡とリボンをたどってみることにた。幸い、昨夜と違って今は道らしきものがあるのが分かる。


 急ぐわけではないけれど、早足で。聞いた話だとここ最近の天気は変わりやすいというから、雪が降らぬうちに。


 そうして進んだ先で、一人の少女の後ろ姿が目に入った。


   ◎


 あぁ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 繰り返すのは同じ言葉。わたしは、また独りになってしまった。


 おぼつかぬ足取りで少女はふらふらと歩く。目的地はない。ただひたすら、遠くに逃げることだけを考えていた。

 ずっとずっと、あの人の手が届かないくらいに遥か遠くへ。


「……ごめんなさい」


 昨日の夜、小さな家を見つけて。そこでお世話になって。料理はいつも食べているものとは違う味で。知らないお話を聞いて。暖かい暖炉があって。

 住んでいたのは、優しい人達で。


「何も言わずに家を出てごめんなさい。でも……わたしがいたらきっと、また迷惑をかけてしまうから」


 口にする懺悔を聞く者はない。

 しかしある意味で、それは少女にとっては良いことなのかもしれなかった。

 独りになるのはつらいが、誰かに頼ると義母とのいざこざにその人を巻き込んでしまう。それはもっと嫌だ。


 このまま、疲れて眠ってしまって。そのまま目覚めない方が幸せなのだろうか。

 そんな考えが浮かび、消えてゆく。


 わたしは幸せになりたい。でも、わたしを追う義母や、周りの人々にも同じように幸せになってもらいたい。

 そう望むのは、わがままなんだろうか。


 その時、離れた茂みからがさり、と葉の擦れ合う音が聞こえた。

 振り返るとコートを着た男が立っている。前髪が長く表情はよく分からないが、こちらに気付いているようだ。

 義母の追手か、森の住人か。どちらにしても取るべき行動は同じだ。


 少女は駆け出した。

 どうしてこんなことになったのかはよく分からないけれど、誰にも頼れない、というのは確かなのだから。

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