03
船が動き出したのが解って、身体を強ばらせていた全ての鎖が解けていく。
つ、と涙が伝う。
故郷を捨てねばならなかった悲しみ?
誰からも引き留めてもらえないと知っていた、自分への憐れみ?
いいえ、多分、安堵だわ。
これからも生きていけるかもしれないと、わたくしの心が初めて感じた……希望、喜びの涙だわ。
だって、こんなにも胸が温かいのだもの。
死んでもいいと思っていた。
死んだ方が楽だとも考えていた。
でも、生きることを選べた。
その道を見つけることができた……それが、とても嬉しい。
しばらくして、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
外が、見たいわ。
船員に甲板に出てもいいかと尋ねると、風が強いから気をつけろよ、と言われた。
……笑顔で。
吃驚してしまった。
初めてだわ。男から気遣われた上に、笑顔を向けられたなんて。
甲板は心地よかった。
確かに海風が強いけれど、この船がびくともせずに進んでいるのが頼もしく感じられる。
被っていた外套を脱ぐと、風が頬を撫でていく。
この船、イスグロリエスト皇国の船籍だわ。
皇国旗が掲げられている。
あの船員はディルムトリエンの民ではなくて、皇国の臣民なのだわ。
だから、女に笑いかけたりするのね。
皇国では女も男も同じ所で一緒に働いていて、誰もが当たり前のように一緒の卓で食事をするのだと聞いたことがあるわ。
身分の差はあるのだろうけれど、女だから、男だから、ということが理由にはならない……と。
後宮の侍女達はそんな馬鹿なことがあるはずはない、ただの噂にすぎない……なんて言ってたけど。
ディルムトリエンでは、殆どの女には『教育』はされない。
だけど、わたくしにはマイウリアに嫁ぐという役目があったので、教師は……ついたけど、三日もせずに来なくなった。
けれど、図書の部屋に入ることが許されていた。
唯一、わたくしが自由になれる場所で、侍従達にとっても都合のいい部屋だった。
彼女達はわたくしをその部屋に閉じ込めてさえおけば、面倒な世話をしなくても済んだので。
まぁ……どこにいても『世話』などされた記憶は、全然ないのだけれど。
侍女達が『何もしていなくても咎められないため』に、わたくしは図書の部屋に放置された。
当然、食事なんて運ばれないし、誰ひとり様子見にも来ない日が数日続く。
図書の部屋の窓から抜け出して、厨房の食べ物をわたくしがくすねていたことを知っている者などいなかったから、自分の部屋より居心地がよかったのよね。
たまに部屋に戻った時に出て来る食事には……口にしてはいけないような物が混ぜられていることが多かったし。
文字もそこで覚えた。
神話や伝承を乳母が生きていた頃には聞かせてもらったことがあったけど、文字で読めるようになってこの国は絶対に神々に見捨てられているって確信した。
だから、あんなにも必死で祈っていた母上の願いさえ届かなかったのだ、と。
海と流れる雲を見ながら、深く呼吸をする。
なんて気持ちいいのかしら。
まるで、生まれて初めて呼吸をしたみたいな気分。
図書の部屋で感じていたより、ずっとずっと『自由』だわ。
……そして、とてもお腹が空いているのよね……
今朝から何も食べてないのですもの。
移動の途中、わたくしのためのはずの食べ物は、ほぼ侍従達が食べていた。
わたくしには、一日一度しか食事が出なかった。
それも、死なない程度の量だけ。
同行していた全員がそのことを知っていたし……文句を言ったところでどうにもならないって解っていたわ。
だから、隙を見て夜中に、彼等がしまい込んでいる食べ物を手に入れていたのよ。
わたくしに【収納魔法】があることなんて、だーれも知らなかったから簡単だったわ。
……こんなことに慣れている『姫』っていうのも……どうかとは思うのだけれど。
ちょっと気分が良いから、甲板で食べてもいいかしら。
「お客さん、甲板では飲食はやめておくれ」
殴られる……と思って、少し身体が強ばったけれど、その船員は笑顔のまま。
「ここは
「そう、ですわね、失礼致しました」
「いいや。この船の飯も旨いから、食堂にも行ってみてくれよ」
食堂?
船の中に、食事ができる場所があるのですか?
「わたくしが行っても……いいのですか?」
「勿論だよ。この船のお客さん達のための食堂だからね」
「……あの、オルツまでは、どれくらいかかりますの?」
「四日だね」
四日間分の食事なんてなかったわ……
よかった!
食堂があるなんて、素晴らしいわ!
「早速、食堂に行ってみますわ!」
「今日は羊肉だったはずだから、沢山食べてくれよ! セラフィラントの羊肉はとても旨いから」
「はい! ありがとうございます!」
羊……?
ディルムトリエンではいなかったと思うわ。
きっと、食用の獣なのね。
初めてですけど、楽しみ!
いそいそと食堂に向かうわたくしに、ディルムトリエンからの乗客と思われる男が睨み付けてきた。
女のひとり歩きを、不快に思っているのだわ。
でも、関係ない。
この船はイスグロリエスト皇国の船だから、ディルムトリエンの法律も慣習も通用しない。
その証拠に、廊下に立っている皇国の船員達は、女達に不当な暴力が加えられないかを見張っている。
ディルムトリエンの男達は、それを知っているから手出しはしてこない。
……って、同じ船室の女達が、嬉々として話しているのが聞こえたの。
彼女達も、身分証を取り上げられてしまっているのかしら……
ああ、どうかこの先でこの船の女達が、酷い目に合うことがありませんように。
食堂はとても明るくて、乗客達は皆とても美味しそうに食事をしていたわ。
「あの、お食事はできますの?」
「勿論ですよ! お好きな席に座ってください」
え?
どこに座ってもいいの?
明るい、窓際の席におそるおそる腰掛けた。
誰にも咎められなかったし、私が座るとすぐに水まで持ってきてくれた。
給仕が男性だったのは……ドキドキした。
女だからってちゃんとした食事を運んでもらえないんじゃないかって……でも、そんなこと全然なかったわ。
水が無料というだけでも驚きなのに、食事まで……!
感激していたら、給仕の方に笑われてしまった。
乗船の料金に含まれているのですって。
それにしても美味しいわ、羊って。
しゃきしゃきした食感の野菜も、少し甘みのある掛けダレも今まで全く食べたことのないものだわ。
皇国って本当に豊かなのね!
それとも……あの後宮には、女達には与えられなかった……というだけなのかしら。
ああっ!
だめよ、もう過去のことはすっぱり忘れましょう!
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