第86話 未来を想う

 青空あおぞらあおいは、パンデミック初期からいつも一人で行動していた。異能力のおかげでゾンビから逃げる事は容易く、足手まといを増やすくらいならずっと単独行動の方が生き残りやすいと考えたからだ。

 運動神経もそこそこの大学生だったが、異能力の発現によって体力面の問題も些細な物となった。ゾンビ世界を一人で生き抜く事も、思っていたより難しいものではなくなったのだ。


 しかし、ただでさえ生きている人間と出会いにくい世界だ。蒼とて、一度も寂しさを感じなかった訳ではない。誰かと他愛のない話をしたり、協力して生き延びたり、そんな生活を求めなかったといえば噓になる。ただ、信頼して命を預ける事のできる人がいなかっただけ。


 思えば、昔からそうだった。

 有利不利や損得ばかり考える打算的な性格は昔からだったのか、友達と呼べるような人はいなかった。自分の考えを伝えたくても、それを共有する相手すらいなかった。


 なぜこの異能力が自分に宿ったのかと考え、蒼は自分なりの答えに辿り着いた。

 自分はきっと、人に自分の世界を見て欲しかったんだ、と。


 人間関係の不和は認識の齟齬によって広がる。相手に自分を理解してもらう為には、自分の見ている景色を相手にも見てもらえばいい。

 何より、そんな堅苦しい理屈はともかく、蒼は同じ景色を見てくれる仲間が欲しかった。それこそが、彼の理想だった。


 望む未来を見るために、理想の世界を映し出す。


 それが、蒼の異能力なのだ。



「……新たな変異種にも、ちゃんと効いてくれる事を祈ってるよ」


 広い食堂の中、六体のゾンビと対峙する蒼は呟く。全てのゾンビを視界に収め、彼は一度深く深呼吸をした。


「君達に、この景色が見えるかい?」


 心の宿らない目を向けられる中、返事の来ない言葉を投げかける。そして、異能力を使った。


 幻聴を聞かせて注意を逸らす異能力。勇人ゆうとたちにはそう説明してあるが、本当はそれだけじゃない。

 彼が生み出す事の出来る幻は聴覚だけじゃない。視覚や嗅覚を含めた、働きかける幻を発生させる事が出来る。


 見えないはずの物が見え、聞こえないはずの音が聞こえ、何も無い場所でも何かに触れたように感じてしまう。そんな、現実と遜色ないまでに正確で緻密な幻を操る異能力。


 人間としての知能が残っているのゾンビであればあるほど効果を発揮し、また動物としての本能が鋭くなっている状態のゾンビであっても、偽物の音や臭いに惑わされる。


 目の前のゾンビたちに与えたのは、『周囲に大量の人間がいる』という幻と、『自分たちの全身が燃えている』という幻。人間の姿、騒々しい話し声、体がぶつかる感触、炎に包まれる痛み、体が焼ける臭い……その他、実に十種類もの幻を重ね掛けしていた。

 ゾンビたちに人としての意識が残っていようがいまいが、彼の生み出す幻の世界からは逃れられない。


「……ひとまず、足止めは成功かな」


 実際には蒼以外の人間はこの場にいないし、火など放って無い。だが、あらゆる感覚に対し何重にもかけられた幻は、もはや現実と何も変わらない。

 たったひと睨みで、六体のゾンビは蒼へ迫るのを止めた。何も無い所へ噛みつくゾンビもいれば、身を包む幻の業火に叫ぶゾンビもいる。


 彼らを視界に収めながら、蒼は近くにあった椅子を掴み、ゾンビへ向かって放り投げた。直撃したゾンビは床に倒れたが、背を付けた床は薄氷を踏んだように表面が割れ、投げた椅子もゾンビに当たった部分が同様にボロボロと崩れていた。


「物理的な攻撃はあまり効果がなさそうだね。幻が途切れる前に有効な攻撃手段を探さないと」


 蒼の異能力では無限に幻を見せ続ける事は出来ない。今は六体へ同時に『全力』で使用しているのもあって、黒音くおんが食堂と武器庫を往復する時間を考えると、彼女が帰って来るまでに一度は幻覚が途切れるだろう。そして再使用まで十数秒ほどのインターバルが必要と考えると、何か戦える手段を見つける必要がある。


「まさか僕が、こんなギリギリの戦いをする事になるとはね……」


 自然と流れる冷や汗を拭う。一人でいた時は、ゾンビとの戦闘は極力避ける方針で歩き回っていた。あの頃の蒼は、誰かのために囮のような役を買って出るなど考えもしなかっただろう。


「これも勇人君の影響なのかな」


 こんな状況にも関わらず、思わず頬が緩む。

 始めて会った時から蒼の事を疑いもせず、一度大怪我をさせられた異能力者相手でさえ許してしまうような少年。彼に感化され、蒼も損得勘定を抜きにして仲間たちの為に共に戦っているのかもしれない。


 本当の異能力を隠していた理由も、始めは悪人かも分からない相手に手の内を晒すのは危ないと判断したからだ。だが、勇人たちが良くも悪くもただの善人だと分かった時、今度は別の理由で真実を隠し続けて来た。


 人を操る事さえできてしまえそうな、現実と遜色ないレベルの幻惑能力を持っていると知られたら、彼らは自分を恐れるんじゃないか。せっかく仲良くなれそうな人と出会ったのに、また一人になるんじゃないか。そんな悪い想像をしてしまったのだ。


 結局、『自分には囮が務まる実力がある』と黒音を安心させるために、あっさりと本当の異能力を話してしまった。だが、後悔はしてない。

 きっと皆は、本当の事を話しても変わらず接してくれるはずだ。

 らしくないと思いつつ、今は楽観的に考えていた。いや、彼らをと言った方がいいだろうか。


 文字通り、命を削る想いで戦った少年がいた。そして、世界を取り戻すための戦いはこれからも続いて行く。いつまでも蒼一人が個人的な理由で出し惜しみをしている段階は過ぎたのだ。それに、何より――


「理想に近づくためには、前に進まなきゃいけないんだ」


 己の身に刻む込むかのように、蒼は決意を口にする。

 改めて覚悟を固め、キッチンへと駆けだした。全自動で調理をするロボットアームが並ぶ調理場を行ったり来たりしながら、使える物はあるか視線を巡らせる。火元の傍に置かれていた消火器に目が留まった。


「技術が進歩してるスターゲートだけど、消火器は僕の知ってる物と同じだよね」


 両手で持ち上げてざっと観察し、学校の防災訓練などで使い方を学んだような普通の消火器とおおよそ同じである事が分かった。消火器内の薬剤は濃霧のように広がり、ゾンビに直接吹きかければ視界を覆い隠せるだろう。


「後は、音と臭いか」


 ゾンビは音によく反応する。蒼が五感全てを支配する幻を『幻聴』だけと偽ったのも、ゾンビを相手するうえで音が最も重要だという認識が一般的であると判断したからだ。

 それと、ゾンビは人間の臭いでも嗅ぎ分けられるのか、人の気配にも敏感だ。視覚だけじゃなく聴覚と嗅覚も潰す必要があるだろう。


「この部屋の警報装置は……よし、もう一度作動しそうだ」


 部屋中に警報を鳴らせば、ゾンビは蒼の足音にも気付かないはずだ。大音量で動きを鈍らせるやり方は、異能力の幻聴で何度も実戦している。

 ゾンビの嗅覚を乱す手段としては、ちょうどよく溜まっていた生ゴミを使う事にした。嗅覚を完全に潰すにはかなわないだろうが、無いよりはマシだろう。消火剤の臭いもプラスで働いてくれる事を祈ろう。


 食べ物を扱う場所を荒らす事への罪悪感は物凄く感じるが、今は手段を選べる場合じゃない。無事に生き延びたらきちんと掃除しようと心に決めた。


「……そろそろかな」


 異能力の効果が切れそうだという事を感覚で理解した。インターバルの十数秒を埋める対策は整っている。蒼は消火器のピンを引き抜き、ホースを構えてその時を待った。


 幻を見ているゾンビたちが動きを止めた。今まで見えていたものが見えなくなった事に戸惑うような数秒の間が空き、その視線が唯一の人間である蒼の方へ向いた。


「今だ!」


 レバーを強く握る。互いの近くに集まっていた六体全員に向けて消火剤を噴射した。想定通りピンクがかった白い霧のような消火剤は、独特の臭いと共にゾンビの体を包み込む勢いで広がった。間髪入れずに生ゴミを放り込む。半分はゾンビに直接ぶつけ、もう半分は蒼のいない所に誘導するために撒いておいた。


 だが、あまり効果は無かったようだ。霧のように広がった消火剤の向こうから、ゾンビがのっそりと顔を出した。その目は確かに蒼を捉えている。


「まあ、ゾンビの体も腐ってるから、生ゴミ程度じゃ鼻は潰せないよね」


 再び異能力が使えるまであと数秒。蒼は食堂の警報装置を作動させた。照明に警告灯の赤色が重なり、けたたましい警報が耳を貫く。これにはたまらず、ゾンビたちも注意が逸れたように首をあちこちに向けた。


 出来るだけゾンビと距離を取り、異能力の回復を待つ。偶然か、あるいは蒼に気付いたのか。警報に気を取られていたゾンビの一体と目が合った。同時に、力が回復したのを感じた。


「これで……!」


 ゾンビに近づかれるより速く、蒼は異能力を使った。先ほどと同じように五感全てに何重もの幻を発生させる。現実と錯覚するような情報量にあてられ、ゾンビたちはすぐに蒼を見失った。


「よし、上手くいった! 次に異能力が切れる頃には咲寝さきねさんが帰って来るはず――」


 安堵から零れた独り言が不自然に途切れる。

 薄まっていた消火剤の煙の中から出て来たゾンビのうち半分ほどが、蒼の方へと死んだ目を向けていたのだ。


「気のせい、だよね」


 異能力は確かに発動した。今まで本当の実力を秘密にしていた事で無意識にセーブしていたらしい力の使い方も思い出し、むしろ二度目はさっきよりも強力な幻となっているのだ。かかって一秒で抜け出せるはずがない。


「グ、ァァア……!」


 気のせいなどでは無かった。

 未だ幻の中にいるはずのゾンビが三体ほど、真っ直ぐ蒼のもとへ進んでいた。


「異能力が効いてない……いや、たった一度で順応したのか!?」


 未知の変異種といっても、触れた物を壊すだけのゾンビだと思っていた。だが、その読みは甘かったようだ。

 どうやら、人間よりも動物としての本能らしきものが強いゾンビには、幻覚いつわりと本物を見分けるだけの『第六感』のようなものが存在するらしい。


 生物として人間の先をいく存在、ハイエンド・ヒューマノイド。

 ゾンビはその変異に失敗した『異能力者の別の姿』であると灰仁かいじんや勇人たちは結論を出したが、全部が全部、ゾンビが異能力者に劣っている訳では無いのだろう。あるいは完成された異能力者とはまた別の方向で、異能力者に勝っている部分があるのかもしれない。

 現に今、個体差はあれど幻覚を振り払えるほどの本能を獲得した変異種が、目の前にいるのだから。


「どうやら僕は、すっかり忘れてたみたいだね……この目で初めてゾンビを見た時の衝撃を」


 予想外で規格外、想像の範疇を軽く超える異常なモノ。ゾンビに対するその認識は、異能力を手にして安全が整った今も、失ってはいけない感性だったのだ。


 今ここで、前提が崩れた。

 黒音が戻ってくるまで異能力で凌ぐはずだったのに、自力で時間稼ぎをしなければいけなくなった。インターバルの十数秒をやり過ごすための準備しかしていなかった以上、ここからは全てアドリブで耐えるしかない。


「出来なければ死ぬ。なら、やるしかないね」


 余裕の消えた顔で蒼は呟く。しかし諦めてはいなかった。人間の意地で、命がけの時間稼ぎを続けよう。

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