第76話 いつか花畑を見に行こう

 重い瞼を持ち上げ、光に目を慣らすように瞬きを繰り返す。そして目に入ったのは、不気味なほどに真っ白な天井。病院のものと似ているけど、今の世界できちんと動いている病院なんてほとんど無いだろうし、ここが病院じゃない事ぐらいは分かる。となれば、スターゲート本部の治療室だろうか。


『起きた』


 そんな天井の景色に重なるのは、ゴツゴツしたガスマスクを顔に装着した人の顔。そんなものが至近距離からぬっと現れ、俺は思わず声を上げそうになった。


「んぐ、むむ!」


 けれど声は出なかった。マスクのような鉄製の道具で口を塞がれていたからだ。

 口だけじゃない。手足や胴体も太いベルトや見た事も無い機械で何重にも縛り付けられ、体の自由が効かない。囚人でもまだマシだろうというレベルでの拘束だった。


 でも、それもそうか。俺はゾンビに噛まれたんだ。

 目が覚めた時、それが人間の朱神あかがみ勇人ゆうとである保証はないんだから。


『意識はある? 生きてる?』


 ガスマスクの人物から、か細い少女の声が聞こえる。よく見ると彼女は、今やすっかり見慣れた超能力者こどもたちの手術衣みたいな簡易衣服を着ていた。それにガスマスク越しで声がくぐもっているが、聞き覚えのある声だ。


「むぐぐ……?」

『あ、しゃべれないんだった』


 彼女は何も無い所を指で弾くような仕草をする。俺の頬辺りでパキンッと金具が外れる音がして、口の自由を奪っていた器具が外れた。久しぶりに口で息を吸えた気がして何度か荒く呼吸した後、俺はガスマスクの少女に話しかける。


「もしかして、スミレか……?」

『うん、スミレ』


 彼女は短く答え、こくりと頷く。肩まで伸びた薄紫色の髪がさらりと揺れた。


『私が分かるってことは、まだゾンビじゃないってことかな』

「みたいだな。俺はまだ生きてるっぽい」


 少なくとも、自分ではまだ人間であると自覚している。人の肉よりも美味しい牛肉が食べたい。


『分かった。ちょっと待ってて』


 ガスマスクを付けたままのスミレは、左手に握っていたスマホのような端末を操作する。ほどなくして、上空に半透明のスクリーンが現れた。ホログラムというやつだろうか。


『無事か、勇人』

虹枝にじえださん!」


 スクリーンには虹枝さんの姿が映し出されていた。また随分と疲れが見える顔だが、もしかしてずっと働きづめなのだろうか。


『ひとまず生きて再開できた事に喜ぶべきだな。よく頑張った』

「ありがとうございます。生きて帰って来れたのはスミレのおかげでもありますけどね」

『そんなことない。私は最後に手を貸しただけ』


 スミレはふるふると首を振って謙遜する。そんな彼女を見て、スクリーンの向こうの虹枝さんはおかしなものを見る目をスミレへ向ける。


『何でそんなものを付けてるんだ……空気感染対策など今更な話だろ』

『面白そうだったから、つい』


 虹枝に指摘され、スミレはガスマスクを取った。面白そうってだけの理由で付けてたのかよ。


『あんな状態の後で大丈夫なはず無いだろうが、体調はどうだ? ひとまず危険な状態は脱したはずだが、痛みは残るだろう』

「それが、不思議なくらい何とも無いです。どこも痛くないですし、違和感という違和感もそんなに。この拘束が無ければ、多分普通に動けそうですよ」

『そうか。骨が折れたり筋線維が千切れたりしていたんだが……異能力者の自己治癒力は凄まじいな。それか無意識に治癒の異能力でも使ったのか?』

「さすがにそれは無いと思いますけど」


 どうやらスターゲート出身の虹枝さんですら驚くような回復のようだ。自分でもあまり理解していないけど、異能力に目覚めた副産物的な身体強化のおかげで一命を取り留めたらしい。ありがとう俺の体。


「それで虹枝さん。作戦はどうなったんですか。唯奈ゆいなたちは……!」

『落ち着け、全員無事だ。あれからグランドクリーン作戦は一時中断し、全員撤退させた。お前以外の負傷者はいない。今は全員寝ているはずだ』

「そうですか。よかった……」

『よくは無いだろ。自分の体を見てみろ』

「そ、そうっすね……」


 虹枝さんからのツッコミを受け、俺は苦笑いする。結果的にまだ無事だけど、作戦が成功したとは言えない状況だろう。けれど俺からすれば、全員が無事だっただけでも良かったと思える。


『勇人。お前自身も良く分かっているだろうが、お前はゾンビに噛まれた』

「……はい」


 スクリーン越しに聞こえる虹枝さんの声のトーンが落ちる。虹枝さんだって『お前はもうすぐ死ぬ』みたいな事を面と向かって口にするのは少し辛いだろう。だから俺も、その言葉をしっかりと受け止める。自分の体の事だし、俺自身が誤魔化してどうなるって話だしな。


『ゾンビ化の進行は大きな個人差があるようだし、今はまだ何の兆候も無い。だが、お前の体内にはゾンビウイルスが広がっているはずだ。それは間違いない』

「そう、ですよね……」

『知っての通り、ゾンビウイルスはスターゲートが開発した生物兵器「Zゼニス-ウイルス」が元となっている。Z-ウイルスの具体的な症状は高熱・衰弱・嘔吐から始まり、極度の興奮や不安感などの精神錯乱や幻覚症状、最終的には多臓器不全やショック症状などで死ぬ。今の所それに該当する体調不良は無いか?』

「いや怖いな生物兵器! なんてもん作ってんだスターゲート!」

『今更すぎる話だろ。私はこの組織がクソッタレだと何度も言ったはずだが』


 言葉にして症状を並べられると恐怖倍増である。その進化版であるゾンビウイルスが自分の体内を駆け巡っているのだと知ればなおさら。


「だ、大丈夫ですよ、今のところは。特に体調もおかしくありません」

『そうか、なら良い。スミレにはしばらくそこにいてもらうから、何かあれば彼女に私を呼ばせろ。それ以外はじっとしているんだ。間違っても鉛玉で自分の頭をふっ飛ばそうなどと思うなよ?」

「分かってますってば! あの時の俺は血迷ってただけです!」


 ゾンビになるくらいなら今すぐ楽になろうと自殺しようとした事、今思えばとても恥ずかしく感じる。これが黒歴史ってやつか……誰かにイジられる度に悶絶しそうだ。両手で顔を覆いたくなるが、拘束のせいでそれもままならない。


『冗談はさておき。いつ症状が現れるか分からない以上、お前は当面寝たきりだ』

「それじゃあ、グランドクリーン作戦には参加できないって事ですか?」

『あれだけの怪我をしておきながら、まだ戦うと言うのか……? 正気を疑うぞ』

「酷くないですか!?」


 自分で言うのもなんだが、異能力者である俺は戦力になる存在だ。参加できるのならするに越した事は無いだろう。


『出歩くなどあり得ない。戦闘行為などもってのほかだ。作戦については打ち合わせが必要だが、お前は間違いなく待機だ。自分が怪我人であり感染者である事を自覚しろ、いいな?』

「はぁい」

『少しは自分の体を労われ。どうせお前の事だから、今まで周りからも散々言われて来ただろ』

「うぐっ……」


 確かに身に覚えがある。反論できない。


『当然だが、ゾンビ化の危険が無くなるまでは隔離生活だ。精神的に応えるかもしれんが、まあインフルエンザにかかったと思って諦めろ』

「そんな軽いもんじゃないでしょ」

『面会は通信越しになら許可出来る。それと、栄養補給は点滴で我慢だ。水が欲しかったら持ってこさせるが。他には……何かあれば連絡をよこせ。今日は眠るつもりは無いから、手が空いていれば応答してやる』

「寝ないって……虹枝さんも無理しないでくださいよ?」

『休むべき時には休むさ。休めない時には休まないだけでな』


 すげぇ心配だ……うっすらとかかっている目元のくまが濃くならないといいが。


『……安心しろ、なんて気休めは言えない』


 虹枝さんはふと、真面目な声でそう言った。決意を持った大人の顔で、俺を真っ直ぐと見ていた。


『だが、死なせるつもりもない。私達は最善を尽くす。お前も体を休める事を頑張れ』

「はい、ありがとうございます」


 虹枝さんにしては珍しい、人を鼓舞するような言葉を最後に、通信は終わった。

 再び静かになった部屋で、俺は寝転がったままスミレへ顔を向ける。拘束のせいで首の可動域がとても狭いので、ほとんと視線だけを動かす形になるが。


「ごめんな。俺がヘマしたせいでお前にも迷惑かけちゃって」

「迷惑……?」

「こんな近未来ミイラ状態の人間を監視するだけの役目なんて退屈だろ」


 両手でガスマスクを抱えたまま突っ立っていた彼女は、小さく首を振った。


「そんな事ない。この仕事は私がやりたいって言った事だから」

「そうなのか?」

「あなたと、少し話がしたかったから」


 スミレは指を動かして、近くにあった椅子を超能力で引き寄せた。俺が固定されているベッドの傍らまで移動した彼女は座り、落ち着いた声で訊ねてきた。


「あなた、朱神あかがみ先生の子供なの?」

「ん、ああそうだよ。父さんのこと知ってるんだ」

「うん。いろいろお世話になった」


 そう言えば俺、外で助けてもらった時に名乗ったっけな。

 超常能力者ハイエンド・サイキックであるスミレはシオンたちサイト01組とは扱いが違うみたいな話を聞いたけど、そんな彼女でも父さんと面識があるのか。


「先生は、私たちに名前を付けてくれたの」


 淡々と語る彼女の顔は、僅かに微笑みを浮かべていた。


「素体名称『HP-A』。ハイエンドになる前は『SP-A-002』。それが私の本来の名前。でも『そんな型番みたいな名前だと悲しいから』って、先生と陽名ひなさんが私たちみんなに、名前を付けてくれたの」

「そうだったのか……」


 虹枝さんからは何度も聞いていたけど、父さんと母さんは本当にスターゲートの子供たちを大切にしていたんだな。


「スミレの名前は、何か由来とかあるのか?」


 興味本位で聞いてみると、スミレはこくりと頷いた。


「大人の人に教わるのは兵器や戦術の話ばかりで、花の名前なんてひとつも知らなかった。でもある日、陽名さんが花の写真を見せてくれたの。その時に一番気に入ったのが、菫の花」

「なるほど。だからスミレって名前になったのか」

「うん。良い響きだし、二人に付けてもらった名前は気に入ってる。けど……私には少し可愛すぎる名前だと思う。私は無愛想だし、花が好きっていうのも似合わない」


 俯きがちにガスマスクをいじるスミレは、消え入りそうな声でそう呟く。

 自信無さげに小さくなる彼女を見てると、物悲しい気分になる。きっと今まで、彼女たちは兵器としての性能を期待されるだけで、人間としての個性や人格には興味も持たれなかったのだろう。

 物凄い超能力で俺を助けてくれた時はとても頼もしく思えた彼女の姿も、今や年相応の儚さを覚える。何となく、引っ込み思案だった昔の唯奈と重なった。


「俺は似合ってると思うよ、その名前」


 今の俺には手を動かす事すらできないけれど、言葉を交わす事はできる。手元のガスマスクに落ちていた彼女の視線が、俺へと向いた。


「本当?」

「ああ。何と言うかこう、優しい感じがお前にピッタリだ」


 自分で言うのもなんだが、流石は我が両親だと言いたい。俺自身も勇人という名前は気に入ってるし。


「そうかな……ありがとう。はじめて言われた」


 思った事をそのまま口にしただけだが、彼女は喜んでくれたみたいで、ほんのりと笑みを浮かべた。


「それに、花が好きなのだってどこも可笑しくないぞ。好きな物は人それぞれだしな」


 むしろ、落ち着いた雰囲気のスミレらしいとも言える。花の世話をする姿も様になるだろう。


「あなたは、好きなものとかあるの?」

「俺かぁ……いや、特に無いな。だからこそ、何かに夢中になれるのは羨ましいよ」


 父さんと母さんがいなくなってからは家の事もしなくちゃいけなかったし、ゾンビが蔓延るようになってからはそれどころじゃなくなった。思えばここ最近はずっと忙しかったなぁ。

 虹枝さんと出会ってからは安全な地下施設で比較的ゆっくりしてた気もするけど、事情が事情なだけにそれほどのんびりもしていられなかった。


「そうだ。グランドクリーン作戦が終わって、民間人の避難もひと段落して余裕が出来たら、皆で花畑が綺麗な公園に行こうぜ」

「こうえん……?」

「他にも映画館や遊園地、水族館とか……どれも今は無理だろうけど、いつか世界が元通りになったら、いろんな所を周ろう。外の世界には本当にいろんな物があるんだ」


 俺が趣味を持たないのも、きっと外の世界に関心が薄いからだと思う。

 その点、普通の社会で生きて来た俺よりも、スターゲート以外の世界を知らないスミレの方が、よっぽど外の世界に興味を持っている。


 そして、そんな彼女と話しているからこそ。自由に歩けない世界になってしまった今だからこそ。俺もいろんな所へ行き、いろんな物を見てみたいと思うようになった。


「だから、さっさとゾンビから世界を取り戻してやろうぜ。先の楽しみがあれば、俺もゾンビウイルスなんて気合いでどうにか出来る気がする!」

「それは無理だと思う」


 冗談交じりに言うと、スミレは至極真っ当な意見で切り返した。それでも彼女は小さく笑っていた。


「外の世界の話、もっと聞かせてほしい」

「お、いいぜ。他にやる事も無いし、むしろ話し相手になってくれるのなら望むところだ」


 それほど面白い話に蓄えがある訳じゃないが、彼女にとっては何もかもが新鮮だろう。ベッドに固定されて強制植物状態な俺は、しばらくスミレといろんな話をする事にした。

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