第39話
「――お乗りなさい! さあ、早く!」
その声の主は、まさしくシャルロット・ド・ヴェルレーヌだった。
「わあ。8Cコンペティツィオーネだ」
「いいから早くッ!」
シャルロットの運転するアルファロメオの高級スポーツカーを前に、子供のように無邪気な歓声を挙げるが、彼女から鬼気迫る表情で催促され、アンリは飛び乗るようにして助手席に座った。
突然の乱入者の登場に混乱し、怯んだ男たちの隙を突き、重厚なエンジン音を呻るように響かせながら、赤いアルファロメオは急加速で飛び出していく。
「いやあ、でも助かったよ。ちょうどキミに会いに行こうとしてたとこだったからさ」
「安心するのはまだ早いのではないかしら?」
大通りをしばらく進んでから、彼女はそう言ってバックミラーをちらりと見やる。アンリが後方を振り返えると、黒塗りのメルセデスが二台、追いかけてきているのが分かった。
なんとも手際の良いことではあるが、それだけ彼らも本気だということだろう。
さらに彼らは、車の窓から拳銃を出すと、アンリたちへ向けて発砲し始めた。容赦なく浴びせられる銃弾が、次々に車体を掠めていく。
パリンッという音を立てて、サイドミラーがビスケットを叩き割ったように粉々になって弾け飛んだ。
「あれ、でもこのシチュエーションどっかで見たなぁ……ああ、映画の『TAXi』だ。まあ、これはプジョーじゃないし、マルセイユでもないけど」
「少し黙ってて下さらない!?」
そんな状況にありながら、アンリは尚も呑気に軽口を叩く。もっと言えば、あれは強盗団のメルセデスを追う側だったが、今現在の彼らはそれとは全く逆の立場に置かれていた。
シャルロットは右へ左へと見事なハンドルさばきで途中の車両をかわし、それこそアクション映画のカーチェイスさながらに猛スピードで駆け抜けていく。
「上手いもんだね。レーサー顔負けだ」
「……ッ!!」
相当イラついているのだろう、シャルロットは強引にギアを変え、歯を食いしばりながらアクセルを踏み込んだ。普段の優雅さとはまた違った荒々しい魅力がアンリの目には新鮮に映る。
こんな雰囲気もたまには良いものだと思いながら彼女の横でひそかに微笑むが、そんなアンリの胸の内など知る由もない彼女は、苛立ちも頂点に達しているようだった。
大通りから交通量の少ない脇道へと入り、追手の車両を誘い込む。さらに、道路の中程で目一杯にハンドルを切りながらブレーキを思い切り踏みつけ、車を半回転させ横に滑らせた。
続け様、ドアを乱暴に蹴り開けると、向かってくる追手を正面に迎え、まるで止まれと合図するかのように掌を突き出した。そして。
「いい加減にィ――――なさいッ!!」
シャルロットが空気も震えんばかりの大声で叫ぶ。と、同時に、彼女の掌から巨大な炎の渦が、さながら竜の吐く灼熱の息吹の如く燃え広がる。追手の車両は、突如として目の前に吹きあがった爆炎を避けようとハンドルを切るが、二台とも路肩に乗り上げ街灯に激突した。
「わあ、相変わらずのド迫力。《
燃え上がった炎の熱を肌に感じながら、アンリは楽しそうに声を弾ませた。それとは対照的に、シャルロットはいかにも不機嫌そうな様子で押し黙っている。
ふと気づけば、騒動を目にした野次馬が早くも集まってきていた。これ以上の騒ぎにならないうちにと、彼女は再び車を急発進させると、すぐさまその場から走り去った。
「そういえばさ。キミとこうしてゆっくり話すのって、どれくらいぶりだろうね」
まるで何事もなかったかのようにアンリが呑気に話しかけるが、シャルロットからの返事はない。
さすがに、この状況で冗談を言っても通じるわけはないか――アンリは一息吐き、声のトーンを変えながら、もう一度、尋ね直した。
「……どうして僕を助けた? 憎くて憎くてたまらない相手なんだろう?」
「ええ。今すぐにでも、バラバラに切り刻んで差し上げたいくらいにね?」
その問いにシャルロットは前を見つめたまま、アンリの顔をちらりとも見ずに淡々と返す。
彼女は視線を前方に向けたまま、さらに続けた。
「
「本当にそれだけかい?」
「それ以外に何があると仰るのですか?」
「僕らを襲ったやつらのこと、知ってるんだね?」
「知っているも何も。あの連中がわたくしのグループと因縁があるというのは、貴方もお耳に挟んでいらっしゃるのでは? まあ、縄張り争いなどというのは建前の話ですけれどね」
そこで彼女はようやく溜息混じりにアンリの顔を見やってから、心底呆れたような、諦めに近いような、ひどく憂い気な表情を浮かべながら、事の真相をおもむろに語り始めた。
「先ほどの男……仲間内からは《教授》などと呼ばれているそうですが……わたくしも気になってミシェルに探らせていたのですけれど、やはりというかなんというか。あの男こそ、イゴーリ・セルゲヴィチ・ザヴィアロフ。例のロシアンマフィアの首領ですわ」
シャルロットの話によると、その男は元KGBの諜報員で、八〇年代に英国に亡命したのちフランシス・モーティアムと名を変え、犯罪学教授として大学で教鞭を執っていたらしい。
その実、本国とのコネクションを維持していた彼は、九〇年代初頭のソ連崩壊に伴う混乱を利用し、兵器などの横流しや天然ガスの利権を強奪するなどして、私腹を肥やしていたという。
表では高潔な紳士を装い、裏では暴利を貪る。典型的な悪党タイプというわけだ。
「《教授》か……そういえば、アルヴァレスも死に際で口に出していたな……」
しかし、ジェームズやその教授たちとシャルロットには、どのような接点があったのだろう。もしかして、ジェームズがパーティーの会場として彼女のホテルを選んだのにも何か理由があるのではないか。
アンリがそのことを尋ねると、シャルロットは意外にもあっさりと打ち明けた。
「元々ジェームズ氏は、わたくしの父マクシミリアン・ド・ヴェルレーヌの古い友人でした」
「なるほど、マックスおじさんのね。それなら、なんとなく納得できるな」
彼女の父、マクシミリアンも実に優れた魔術師であった。名のある家柄の当主に恥じない聡明な人物で、アンリも色々と世話になったことをよく覚えている。
人柄もよく、当然ながら社交界でも顔が利いたため、様々な交友関係を持っていたとしても不思議ではない。
「あの男……教授は、表の顔ではジェームズ氏と、彼の兄であるアルフレッド氏、そして彼ら兄弟を通じて父とも知人となっていたようですが、その一方では、特にここ数年の間は、配下のゴロツキ共を使って何度もウチにちょっかいを出していました。それもどうやら、父の〝コレクション〟が目当てだったようですわね。ただ、ひとつ気になるのは……」
「なんだい?」
「……教授は、生まれつきの魔術師ではなかったらしいということです。彼が〝魔術師〟を気取り出したのは、ここ十年ほどの間だと……」
彼女の言葉の意味――実に奇妙だが、もしそれが事実だとすれば、可能性はひとつしかない。アンリはおぼろげな推測を浮かべたが、敢えて核心には触れずに、質問を変えた。
「その教授の正体が、まさかロシアンマフィアの首領だったってことは、ジェームズさんやマックスおじさんは最初から知っていたのかな?」
「さあ、どうでしょうね。父も、ジェームズ氏も、もはやこの世に居ない以上は、彼らがどう考えていたのかは今となってはわかりません。ですが、少なくとも教授は今回のように自ら姿を現したり、これほどまで露骨に武力行使してくるということは、以前にはありませんでした。……逆を言えば、彼はよほど本気で手に入れたいモノがあるようですわね?」
そう言って彼女は意味深に口元を歪める。同じようにアンリも悪戯っぽく笑って尋ねた。
「――キミも例のモノを狙ってるの?」
「そんなものに興味はありませんわ? わたくしの目的は、最初から貴方だけなのですから」
「〝赤き炎が道標〟か。なるほど……キミは、最初から全部知ってたんだね?」
その問いに答えることなく、シャルロットは通りの端に車を停車させると、座席の脇からなにやら豪華な装飾が施された紙製の箱を取り出した。
「ジェームズ氏から、貴方にこれを預かっておりましたの」
そうして彼女から手渡された箱に入っていたのは、長い時間をかけてじっくりと熟成されたであろうことを窺わせる、深い飴色が実に美しい高級ブランデーだった。
「昨晩、貴方をお呼びした理由がこれですわ。あの時は邪魔が入ってしまいましたけれどね」
「そっか……これが、ジェームズさんが僕に勧めたいって言ってた……」
アンリが感慨深げにブランデーボトルを眺めていると、彼女はふと意外な言葉を口にした。
「そのコニャックは随分とアンティークのようですわね」
「古酒? ……これが?」
いわゆる
ましてや、彼女は代々貴族階級の家柄の出身であり、彼女自身もそれ相応の知識や教養を身に付けている。高級酒の価値を知らないどころか年代を間違えることすらもないだろう。その皮肉とも取れる一言は、彼女からのヒントだったに違いない。
アンリがブランデーのラベルを指で触れた瞬間、その理由が分かったと同時に、なんとも言い難いほど、腹の底から馬鹿馬鹿しいくらいの笑いが込み上げてきた。
「ふ、ふふ……あははははははっ!!」
「ど、どうされましたの?」
怪訝そうに尋ねる彼女を尻目に、アンリはとうとう我慢出来ずに噴き出してしまった。
「なるほど、面白いね! いやもう、本当に面白い! そっかそっか、そうだよね……やっぱり、そうじゃないかって思ってたんだ! あはは、まったくもう!」
確かにヒントを与えたのは自分だが、彼の予想外の反応に思わず困惑してしまう。
「貴方という人はこんなときに、何がそんなに可笑しいのですか!」
「だってさ、考えてもみてよ。大のオトナが、たかだか一個のお菓子欲しさに、大真面目の殺し合いだよ? なんとも愉快な話じゃないか!」
そう言って、アンリは再び高らかに笑った。本当に心の底から楽しくて仕方ないという様子だ。久しぶりに見る彼の表情。彼がこんな顔をするのは、どれくらいぶりだろう。
そのあまりにも屈託のない無邪気な笑顔に、シャルロットは背中に何か冷たいものを感じた。
すると、唐突にアンリがシャルロットの鼻先まで顔を近づけ、にこりと微笑む。
「――ねえ、シャルロット。キミにひとつお願いしたいことがあるんだ」
思わずたじろいでしまった彼女は、目をぱちくりさせながら、訳も分からず聞き返した。
「……わ、わたくしに?」
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