第27話

 皆の前にはきれいに盛り付けられたケーキが並べられ、淹れたての紅茶から香り立つ白い湯気が、これから始まる楽しい時間の到来を告げていた。


 あの事件以来すっかり忘れてしまっていた〝心を躍らせる〟という感覚に、結羽は嬉しい気持ちでいっぱいだった。


「いっただっきまーす!」


 待ちに待った瞬間。痺れを切らしていた結羽が、元気よく先陣を切る。ナイフでケーキを割ると、その中からはまるで半熟卵のように溶けたチョコレートがとろりとあふれ出てきた。


「わっ、すご! とろっとろだよこれ!」


 フォンダン・オ・ショコラの一番の特徴は、なんといっても、このソース状になった濃厚なチョコレートだろう。味や香りはもちろん、視覚的な効果でも楽しめるのが、このケーキの強みでもある。


 これを柔らかなケーキの生地にたっぷり絡めて口に運ぶと、それはまるで舌までとろけてしまうかのような、まさに至福の瞬間が待っていた。


「ん~っ! これ、おいしいですっ!」


「ええ、とっても! ……けれど、これは、なんとも不思議な甘みですね」


 ソフィアも同意しながら満面の笑みを浮かべる。しかし、この口の中に広がる、今まで味わったことのない風味はどこから来るのだろうと、珍しそうに首を傾げた。


「そういえばそうだね……風味も、舌触りも、ただのチョコレートじゃないみたい。なんだか懐かしいような、やさしい味わいが……」


「それな、聞くと驚くと思うぜ」


 獅宇真はそう言って、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。見るからにからかってやろうという気が満々だ。まったく、このうえなく憎たらしいと思いつつも、結羽はちょっとだけ不安そうに、恐る恐る問いかける。


「……な、何を入れたの?」


 すると、アンリの口から突拍子もない答えが返ってきた。


だよ」


「あ、あんこ⁉」


 結羽が驚いたのも無理はない。まさかチョコレートケーキの中にあんこが混ぜられているなど、普通の日本人なら誰しもが驚くような組み合わせだろう。


「ええと、『ANKO』というのは、あの和菓子などに使われるビーンズペーストですか?」


「そ。大正解! つまりこれは、和菓子と洋菓子のコラボレーションってわけさ」


 続いてソフィアの言葉に、アンリは大きく頷いた。


「ええっ! すごい! チョコとあんこって、こんなに合うんですね!」


 結羽は確かめるように、もう一口ケーキを頬張り、感嘆の声を上げる。本当に不思議なことにまったく違和感がない。


 強いて言えば、少しだけあんこ特有の舌にざらつくような感覚はあるものの、言われてみなければ気付かないほどだろうし、風味も互いをまったく邪魔していない。というより、これでひとつの新しい素材であるようにさえ感じられた。


「あはは。意外と知られてないんだけどね。でも、きっと日本のパティシエなら、誰しも一度は通る道なんじゃないかな? 絶対試してみたくなるんだよ、こういうの」


「そのバランス配分が微妙だから大抵は試すだけなんだけどな。それに普通のガトー・オ・ショコラ(チョコレートケーキ)ならともかく、フォンダンで作る変態はあんただけだろ」


「そんなに褒めないでよ、照れるじゃない」


「俺いま確かに変態って言ったぞ」


 だが、獅宇真の指摘は案外冗談でもなく、その言葉が物語っているようにあんことチョコレートという一見、相容れない食材のバランスを保つというのはやはり難しいらしい。


 ましてフォンダン・オ・ショコラは、焼き加減やとろけ具合など、作り手の解釈によっても性格が異なる繊細な題材のため、その扱いには非常に気を遣うはずだった。にも拘わらず、この男は難なく作り上げてしまうのだ。獅宇真は流石だと思うと共に、心底呆れ果てていた。


「でも、なんだか……」


 すると、結羽はこのケーキを見つめながら、何か言いたげに神妙な顔をした。それを見てアンリは首を傾げるが、彼女は慌ててかぶりを振った。


「何か少しでも感じたことがあるなら、遠慮なく教えてくれないかな? そういう小さな感覚こそが、大きな発想を生むきっかけになることだってあるんだ」


 それならばと、結羽は感じたことを恐る恐るそのまま口にした。


「えと、このケーキ……このままでもすごく美味しいんですけど……でも何か、とても大事なものが足りないような気がして……」


「わあ、嬉しいなあ! キミもそう感じてくれたんだ!」


 そう言うとアンリは嬉々として結羽の手を取り、彼女の身体を抱き寄せた。


「え? え? ええっ!?」


「おい、変態」


 獅宇真に睨まれた彼はパッとその手を放し、何事もなかったかのように話を続ける。


「いや、僕もね。何かひとつ、どうしても決定的に欠けてるモノがあると思うんだけど、それが何なのか、ちっとも思いつかなくてさ」


「で、でも、どうしてチョコとあんこのお菓子を作ろうと思ったんですか?」


「キミたちを見ていて、なんとなく思いついたんだ。和と洋の折衷、異文化同士のコラボレーション……とかね。例の『甘露』も、伝説では〝陰陽の気が調和したときに降る〟って話だったでしょ? このお菓子も、キミたちの〝調和〟がなければ生まれなかったかもしれない」


 アンリはにこりと微笑みかけながら、二人へ感謝を述べた。結羽はソフィアと顔を見合わせる。彼女らは思わず照れ臭そうにはにかんだ。彼はさらに続ける。


「でも残念ながら、結羽ちゃんが指摘した通り、これはまだ完成じゃないんだ。このケーキに足りない〝何か〟を見つけられて、このケーキにとっての〝真の調和〟が得られたそのときに、また改めてキミたちに食べてもらいたいな」


 そう語るアンリの普段通りの柔らかな笑顔の奥に、彼の仄かな熱意のようなものが、結羽には感じ取れた。彼の言葉に感激したように、結羽は元気よく返事を返す。


 すると、今度はアンリの顔をじっと見つめていたソフィアが、おもむろに問いかけた。


「あの……私も、聞きたいことがあります。一体何故、貴方はショコラティエになろうと思ったんですか?」


「それはもちろん、チョコが好きだからさ。好きこそ物の上手なれってね?」


 アンリは即答する。確かにそれは理由としてはシンプルだが、とても大きな根拠であると言えるだろう。しかし、それはソフィアが期待していた答えではなかったようだ。


「それだけ……ですか?」


 どこか怪訝そうな表情を見せるソフィアに、今度はアンリが問い返す。


「人の行動理念とはなんだと思う?」


 ソフィアが返答に迷っていると、アンリは続けて自分の見解を述べた。


「――唯一ただひとつ。『欲』さ」


そして彼は、また彼なりの言い回しで語り出した。


「ぶっちゃけ、お菓子や嗜好品なんてのは〝無駄〟以外の何者でもないんだよ。人間が生きる上で絶対に必要かと言えば、そうじゃないでしょ? けれど、人間はどうしてもそれを求めてしまう。不必要だとわかっているのに、その欲求に負けてしまう。いや、多少くらいは欲求を叶えてあげないと、精神衛生上よくないんだよ。たとえば、ダイエットとかで無理に食事を我慢してると、栄養不足もそうだけど、ストレスによっても倒れちゃう……なんて話もよく聞くしさ。つまり、欲とは謂わば〝心の栄養〟なんだろうね」


 僕今いいこと言った、などと余計なことを挟みつつ、アンリはさらに続ける。


「そんな風に、人は常に欲を持って生きている。その欲が満たされたとき、人は生きていることに〝しあわせ〟を感じる。人が〝しあわせ〟に生きられるなら、僕はそれを止めようとは思わない。むしろその助けとなりたい。だからこそ、僕はこの仕事が好きなんだ」


 普段から飄々としている彼のことだし、どこまでが彼の本心かは知る由もないにしろ、結羽も獅宇真もそれなりに感心したように聞き入っていたのだが、何故だかソフィアだけは、アンリの顔を憂い気に見つめ、悲しげに目を潤ませながら、ぽつりと呟いた。


「貴方は……やはり魔術師なのですね……」


 アンリは、それに答えることはできなかった。ソフィアは自分に何を訴えようとしているのだろう。


 彼女の言葉に秘められた真の意味についてアンリが考えを巡らせようとしたとき、それは店の裏口のドアが開かれる音に遮られた。どうやら、ジルベールが帰宅したようだ。


「おや。おかえり、変人」


 アンリはリビングから顔を出し、相変わらずしかめっ面をしている友人を、いつもの調子で出迎える。だが、ジルベールはそれを無視して、すぐさま二階へと上がっていってしまった。


 普段から愛想のよくない男ではあるが、ああして何の返事もなく、自分の部屋へと籠りに直行するのは、決まって相当に機嫌が悪い時だ。


「ジルベールさん、なんだか怒ってました……?」


 うしろからその様子を見ていた結羽が、心配そうに声をかける。アンリはこれもいつものことだよと言ってにこりと笑って見せてから、思い出したように口を開いた。


「そうそう、キミが見たあのジルの絵ね……面白いことを教えてあげるよ」


 結羽が首を傾げていると、彼はまるで子供に昔話を聞かせるかのように、静かに語り始めた。


「あの絵はね、実は誰にでも見れるわけじゃないんだよ。というのも、彼が本当に見て欲しい絵だけは真っ黒な絵具で塗り潰すように描くんだ。これも彼の魔術でね。ある特定の波長を持つ者にしか見えない絵なんだって。彼が言うには、それを『運命』と呼ぶんだそうだ――」

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