第26話 アンドリアナ・ルーエンハイム
エーデルやセレンの心配をよそに、意外にも学院での生活は穏やかに過ぎていった。無論、多くの生徒達がサーシャとエーデルを厭っている事実は変わらなかったが、ダゴネットの後、面と向かって二人に突っかかってくる者は現れなかった。
そんな、ある日の事。
エーデルは、普段あまり足を運ばない図書館にやって来ていた。と言っても、本を借りに来た訳ではない。
彼女の目当ては、奥の席で本に目を落としている少女――アンドリアナ・ルーエンハイムだった。
ダゴネットとの勝負の際、心に沸いた疑念を、晴らしておかねばと思ったのだ。それが微かな疑惑であっても、確かめておかねばならない、と。
「ごきげんよう、アンドリアナ様」
声を掛けられて、アンドリアナは本から顔を上げる。どちらかと言えば線の細い面差しに、少し気弱そうな表情。自尊心の高い貴族には珍しいタイプだと、エーデルは以前からの印象を改めて感じた。
「あ、エーデルさん。今日はお一人ですか?」
「ええ。サーシャ様はご用事がありまして、お待ちしている間、折角ですから本でも読もうかと思ったのです」
エーデルの言葉に、アンドリアナは顔を綻ばせた。
「嬉しいです。あまり他の方は、図書館を利用されないので」
魔術学院の図書館は、王国内の書庫施設としてもかなりの蔵書量を誇る。が、そこを利用する生徒は極めて少数だった。
その理由は一つ。裕福な家庭に生まれた貴族達は、そもそも本を借りるという感覚が存在しないのだ。欲しい本があれば、買えば良いのだから。だから、図書館を利用する生徒は、もっぱら研究で必要な書物がある者か、本の虫か。そのどちらかだった。
「アンドリアナ様は、よく図書館にいらっしゃるのですか?」
「ええ。ここには、今では手に入らない本も沢山ありますので」
アンドリアナは、平民に落ちたエーデルを見下すでもなく、礼節を持って接してくる。その態度を見て、エーデルは彼女に好感を抱いた。
「今は何を読んでいらっしゃるのです? 魔術書ですか?」
エーデルが訊ねると、アンドリアナは少し慌てた様子で本を閉じる。
「あ、これは……」
本には『紅き薔薇の騎士シルヴィア』という題が印字されていた。
「……小説ですか?」
アンドリアナは頬を染め、こくりと頷いた。
「わたくし、小説を読んだ事がないのですが……」
幼い頃から本と言えば魔導書に専門書、辞典など勉学の為に読むものと認識していたエーデルは、架空の物語を描いた小説に、正直興味が持てなかった。
ただ話の種にと、何気なく口にしたエーデルの呟きに、アンドリアナは信じられないといった表情で叫んだ。
「それは人生を損しています!」
普段の大人しい彼女からは想像もつかないような剣幕に、エーデルはたじろいだ。
「で、では……この機会に読んでみますわ。アンドリアナ様、何かおすすめはございますか?」
すると今度は、ぱあっと瞳を輝かせ、
「少しお待ち下さい!」
アンドリアナは、本棚の奥に消えた。
数分後、アンドリアナは、自らの顔が見えない程に積まれた本を抱えながら戻って来た。
どさりと机に本の山を置くと、
「私の一押しはこの『カザン辺境騎士団』ですね。王道展開ですがそこが心に響きます。あ、王道とは言っても、緻密に伏線が張られていたりスリリングな展開で読者を飽きさせない工夫も多くて、一気に読めてしまうんですよ。でも初心者なら『剣に命を賭けて』の方が良いかもしれません。平易な文章で書かれているのですらすら読めますし。ストーリーも他には無い情緒が感じられて、特に主人公の父親が……と、これ以上はネタバレですねすみません。もしじっくり腰を据えて読みたいのであれば『グランツィア戦記』はいかがでしょう。これは既に刊行数20巻を超えるシリーズで――」
一冊ずつ本を取り上げながら、早口で淀みなく解説を繰り広げていく。
エーデルは口元を引きつらせ、とりあえず話の腰を折る為に思い付いた言葉を口に出した。
「アンドリアナ様は、騎士がお好きなのですね」
すると、息つく間もなく喋り続けていた少女が、ぴたりと声を止める。
「ええ、まあ……そう、ですね……」
途端に歯切れの悪くなった彼女のぎこちなさに、ぴんと来たエーデルは、うっすらと笑みを浮かべてアンドリアナに訊ねた。
「もしやアンドリアナ様、騎士のどなたかに想い人がいらっしゃるのでは?」
「ひうっ!!」
エーデルの問いに、アンドリアナは珍妙な悲鳴を上げた。
当てずっぽうで言っただけだが、どうやら図星だったらしい。
「まあ! どんな方なのです?」
ずい、と顔を近付けて迫るエーデルに、アンドリアナは顔を真っ赤にしながら答える。
「い、いえ別にその、ただ憧れているだけで恋愛感情とかそういう事は全然……! そ、そもそも、あちらも同じ女性ですし――――あ」
アンドリアナの顔が、赤から蒼白に変わる。
アストニア王国において騎士とは、ほぼ男性の志す職業である。女性でありながら騎士であり、しかもこの少女が憧れるような者など、一人しかいない。
つい口から漏れたアンドリアナの言葉は、意中の人の名前を言うに等しかった。
「まさか、セレン……様、ですか?」
エーデルの問いに、弁明を諦めたアンドリアナは消え入りそうな声で「はい……」と返答した。
エーデルは、心の中で深く頷いた。
セレンとは幼馴染であるが故、エーデルは全く気にしていないのだが、確かに彼女はすこぶる顔が良かった。おまけに誰にでも礼儀正しい態度を取るし、剣の腕も恐ろしく立つ。剛勇で実直な性格は、男性に受けが良いとは言えないが、反面、女性の人気を得る要素は十二分に備わっていた。
貴族の女性の間で、セレンが『王子様』なんて言われているという噂も耳にしていたし、学院で行動を共にする機会が増えてから、セレンに熱い視線を送る女性が少なくないとも感じていた。
気の利かない大食らいという実像を知っているエーデルは、世間の認識との誤差に眩暈を覚えてしまうが――アンドリアナも、そうしたセレンに憧れる一人という事か。
と同時に、安心もした。
ダゴネットと自分が魔術での勝負をしていた時、どうしてアンドリアナがあの場にいたのか――あれはきっと、セレンを見ていたのだ。
魔術学院では、いくつかの行事を除けば、基本的に他学年の生徒と接触する機会は無かった。個人的に親しい、或いは付き合いのある人間ならば話は別だが、アンドリアナの態度からして、その可能性も無さそうだ。
滅多に目にする事のない憧れの人を、せめて遠巻きにでも――そんな想いが、あの日校庭へと足を運ばせたのだろう。
自らの懸念が杞憂であったと知ったエーデルは、上機嫌でアンドリアナに囁く。
「アンドリアナ様、ご安心ください。この事は誰にも話しません」
「そ、そうですか。良かった……」
宮廷魔術師第一席の孫娘が、同じ上級貴族とはいえ女騎士に恋慕の情を抱いているなど、他者に知られてはまずいのだろう。
エーデルの言葉に、アンドリアナは胸を撫で下ろす。
「それにしても……アンドリアナ様は、セレン様のどこがそんなにお好きなのです?」
ふと湧いて出た疑問に、アンドリアナの瞳がまた輝いた。
しまった、つい――エーデルがそう思った時には、もう手遅れだった。
「それは何と言ってもまずあのお顔立ちです。まるで名匠の手による彫像のごとき端正で凛とされたあのお顔……強さと儚さを兼ね備えた奇跡のような容貌は一目見るだけで意識を失ってしまいそうです……その上王国でも並ぶ者のいない剣技の達人なんて、あのような方が現実に存在される事がいまだに信じられません――」
本の解説と同様、アンドリアナは早口でセレンへの称賛を並べ立てる。
どうやら彼女は、自分の好きな話題になるととめどなく喋り出す癖があるようだ。
「あ、アンドリアナ様! そのくらいで、もう……」
放っておいたら日が暮れるまで話し続けそうな勢いに、エーデルは制止の言葉を挟んだ。
はっと気付くと、アンドリアナは照れ笑いを浮かべ、
「で、では話を戻しましょうか。えっと、この『銀色の翼』はですね――」
そして、再びおすすめ本の解説を再開する。
どちらにせよ、全部聞くまで帰れないのか――肩を落とすエーデルをよそに、アンドリアナは楽しそうに本の解説を続けていた。
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