第9話 平民としての暮らし

 オルガの言葉通り、やるべき仕事はいくらでもあった。


 バルカスとオルガの店は、昼から営業を始める。それまでに料理の仕込みと店の掃除、衣服の洗濯、そして市場への買い出しも行う必要があった。


 買い出し担当のバルカスは、エーデルが起きた頃にはもう身支度を終えていた。


「市場は早く行かないと、いいものが全部取られちまうからね」


 朝食の塩漬け肉を焼きながら、オルガが説明してくれる。


「じゃあ、行ってくる」


 そう言って扉を開けるバルカスの背に、エーデルは声をかけた。


「行ってらっしゃいませ」


 バルカスは一瞬だけこちらを振り向くと、何も言わずに店を出ていった。


「……まったく、挨拶ぐらいちゃんとしろっての。強情なんだから」


「いいえ、お気になさらないで下さいませ。わたくしの事を信用できないという、バルカスさんのお気持ちも分かりますから」


「ごめんね、あたしからも良く言っとくからさ」


 焼き上がった塩漬け肉とチーズ、それに大きなパンの載った皿をエーデルと自分の前に置いて、オルガも席に着く。


「それと、オルガさん、ってのはやめとくれよ。何だか気恥ずかしくってさ」


「では、何とお呼びすれば?」


「おかみでいいよ、そっちの方が呼ばれ慣れてるから」


「分かりましたわ、おかみさん」


「ちなみにあんた、料理は出来るかい?」


 問われたエーデルは、顔を強張らせてかぶりを振った。


「申し訳ございません、料理は全然……」


「いいんだよ、そりゃ貴族様だったんだもんね。料理なんてした事ないだろうさ」


 予想以上に縮こまってしまったエーデルに、オルガは慌てて手を振ってみせる。


「それじゃ、掃除を任せてもいいかい?」


「ええ。掃除でしたら、メイドがやっているのをいつも見ていましたから。やり方は存じておりますわ」


 心底安堵したように微笑むエーデルを見たオルガは、この少女の内に潜む暗い何かを感じたが、敢えて踏み込む事でもないと流した。


「ははは。じゃあ、よろしく頼むよ」


「ええ、朝食が終わりましたら、早速取りかかりますわ」


「頼むよ。あ、あたしはもう少し食べるけど、あんたもおかわりいるかい?」


「もう食べ終わりましたの? こ――いえ、わたくしはこの量で十分ですわ。ありがとうございます」


 こんなに食べてまだ入るんですの――そんな驚きを慌てて飲み込み、エーデルはオルガの背をまじまじと見つめた。


 朝食としてはかなりのボリュームで、エーデルはまだ半分も食べられていない。オルガは瘦身というほどではないが、食事量と体型が見合っていないのは明らかだった。


 彼女の視線に気付いたらしく、


「店が忙しくってさ、食べなきゃぶっ倒れちまうんだよ。あんたもその内もっと食うようになるかもね!」


 オルガは言って、あははと笑った。


「あ、す、済みません、少し驚いてしまいまして」


 エーデルの周りで健啖な人間は、概ね肥っていた。無論、貴族が平民より動かないのが一因であろう。


「そうそう、あともう一つ、やってもらいたい事があるんだよ」


 パンの載った皿をを持ってきたオルガは、テーブルの端に立ててあったメニュー表を開いて、エーデルに見せた。


「店が開いてる間、あんたには接客をお願いしたい。メニューと値段、出来る限りでいいから覚えてくれないかね。あ、昼は酒を出さないから、酒のメニューは夜だけだよ、気を付けておくれ。たまに平気で真っ昼間から吞みたがる馬鹿がいるからね」


 ぱらぱらとメニューをめくるエーデル。その顔は、文字を追うごとに緩んでいった。


「鱒の香草焼き、塩漬け肉の胡椒炒め、七面鳥の赤ワイン煮――どれも美味しそうですわ……!」


「お、そうかい? まかないで好きなもの作ってやるから、何がいいか選んどきなよ」


「本当ですか!?」


「ああ。ま、客の入りが落ち着いてからになるから、正午ちょうどって訳にはいかないけどね。それよりどうだい? メニュー、覚えられそうかい?」


 すると、エーデルはメニューをぱたりと閉じ、頷いた。


「心配ご無用ですわ。もう全て暗記致しました」


 エーデルの言葉に、オルガは目を見開く。


「この数分で全部覚えたってのかい! こりゃ、大したお嬢さんだよ」


 食事を再開しながら、エーデルは高鳴る鼓動を抑えられなかった。


 望み続けた平民としての暮らし、何者にも縛らないない自由な日々が、今日から始まるのだから。


 エーデルは期待に胸を膨らませながら、チーズを載せたパンにかぶりついた。




 昼時。食堂イスールは、客が店に入り切らない程の繁盛ぶりだった。


 最初はバルカスが調理、オルガとエーデルが接客を行っていたが、それでは客をさばけない為、オルガも調理に回る。必然、エーデルが一人で接客を担う事となった。


「はあ、はあ……この店、いつもこんなにお客様が入るんですの……?」


 荒く息を吐くエーデルに、オルガも汗を拭いながら答えた。


「いや、普段の三倍は来てるよ。きっと皆、あんた目当てだろうね」


 確かに、客からやけに視線を感じるとは思っていた。見た事の無い女が給仕をしているから、物珍しいのだろうと考えていたが、そうではないらしい。


「ここらじゃ噂はすぐに広まるからね。貴族から平民になった女の子がうちに来るって聞きつけて、どんな娘か見に来たんだろうさ。すまないね、初日からこんなに働かせちまって……はい、子羊の骨付き、上がったよ!」


「いえ、この程度、どうともありませんわ……!」


 まだまだ客は途絶えそうにない。ここでへばってはいられなかった。


「はい、お待たせ致しました。こちら、子羊骨付き肉のソテーですわ!」


 目が回る忙しさにもへこたれず働くエーデルを調理場から眺め、オルガは隣のバルカスに言った。


「とってもいい娘じゃないか。サーシャを苛めてたってのも、あたしゃ何かの勘違いだと思うけどねえ」


「……ふん」


 バルカスは何も答えず、ただ鼻を鳴らすだけだった。

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