第5話 ある男の夢
日々は過ぎ、とうとうエーデルが収監されてから七日が経った。
今夜、彼女は監獄を出て移送される。どこかの家で、平民として暮らす事になるのだ。
最後の一人との面接を終えたエーデルは、藁床に転がって天井を眺めていた。
「……」
時刻は十九時。迎えの馬車が来るまであと一時間足らずといったところだった。
その時、格子の向こうから声がかけられた。
「……あのさ」
上体を起こして声の方を振り向くと、牢の前に看守が立っていた。
「あんた、貴族の身分を失ったってのに、どうしてそんな平然としてられるんだ?」
囚人との雑談は禁じられていた。それでも看守の男は、この少女がいなくなる前に、聞いておきたかった。
エーデルは藁床から立ち上がると、鉄格子の側に寄って、答えた。
「それが、わたくしの望みだからですわ」
男には、言葉の意味が分からなかった。
「望み……? 平民になるのが望みだってのか?」
エーデルは無言のまま、こくりと頷く。その態度に、男は腹が立ってきた。
牢に向かって、男は大声を張り上げる。
「平民に何を期待しているか知らないが、大抵の人間は生きていくだけで精一杯なんだ! 貴族様みたいな贅沢な暮らしなんて出来やしない! 恵まれた貴族の身分を捨てて、何の得があるってんだ!」
その怒声に反発するでもなく、エーデルはただ、静かに言葉を返した。
「でも――自由がありますわ」
「自由だぁ? 平民の自由なんて、貴族様に比べりゃカスみたいな――」
「わたくしは、貴族として大きな屋敷に住み、贅沢な暮らしをしていた時よりも、この牢獄の方がずっと心地良いのです」
「何だって……?」
冷たい格子を撫でながら、エーデルは笑った。
「貴族の娘として生まれた時から、わたくしの人生は全て両親に決められていました。そのレールから外れた行いは、どんな些細なものでも許されなかった。貴方にはきっと、ご友人がおりますでしょう? わたくしにはこの年まで、友人と呼べる者は一人もおりませんでした。友を持つ事さえ、許されなかったのです」
男は、言葉を失った。何もかもを他人に決められた人生――その辛さは、彼には想像もつかなかった。だが、この少女にとって、耐え難い苦痛であった事だけは分かった。
「確かに、金銭や地位の面からすれば、平民に自由は無いと言えるでしょう。ですが、貴方は別に、先祖代々看守の家系という訳ではないでしょう? 貴方自身の選択で、この職に就く事を選んだ。わたくしはそれを、何よりも尊く思いますわ」
「そんな……大層な理由じゃない。ただ何となく始めただけの仕事で……」
そう呟いた時、男は思い出した。昔、一つだけあった。『何となく』やりたかった事を。
「……なあ。俺は昔、吟遊詩人になりたかったんだ」
気付くと、男の口は自然に言葉を紡いでいた。
「それも大した理由じゃなくてさ、小さい頃、ふらっと町に立ち寄った吟遊詩人の歌を聴いて、憧れたってだけ。リュートだって練習したんだぜ? まあ、結局、家を出る勇気なんて無くて、いつの間にか忘れちまった。笑っちまうだろ」
「いいえ、笑いません」
エーデルは、きっぱりと言った。
「とても、とても羨ましいですわ」
ああ、と男は思った。幼い頃に夢を持つ、そんな当たり前の事さえ、この少女は許されなかったのか。
そこに、靴音が聞こえてくる。既に、迎えが来る時間を回っていた。
「囚人の引き渡しを、お願い致します」
現れた別の看守に敬礼を返すと、男は鉄格子の鍵を開ける。
牢から出たエーデルは、スカートの裾を取って、こちらに頭を下げた。
「感謝致します。おかげで、とても有意義な時間を過ごせましたわ」
男は、何と返すべきか迷った。その間に、エーデルは行ってしまう。
去り行く少女の背を見つめながら、男はぼんやりと考えた。
あのリュート、確かまだ家に置いてあったよな――
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