第2話 檻の中の自由

 男は、看守を務めて十年になる。


 看守になった理由は、特に大したものではない。平民の次男に生まれた男には金も、権力も、継ぐべき職務もなかった。だからたまたま募集がかけられていた職に就き、辞める理由もないから続けている。それだけだった。


 デネビア監獄。王都にほど近い、深い森の中にそびえる監獄。王都で罪を犯した者が収容されるここでの職務に、おおよそ明るいものはなかった。日々、罪人達の嘆きや憤怒や悲哀と共に過ごすだけだった。


 そんな状況の中、彼にとって唯一の愉しみと言えるのは、貴族が収監される事だった。


 ひとたび罪人として収監されれば、平民も貴族もない。地位と名誉を何よりも重んじる貴族にとって、その事実は耐え難いらしい。威張り腐っている貴族が泣きわめく姿は、彼の心に暗い快感をもたらした。


 だから今日の彼は、いつもより少しだけ上機嫌だった。貴族、それもうら若い女性が収監されるという知らせがあったのだ。


 もっとも、懲役刑を受けた訳ではなく、貴族から平民へと落とされたということらしい。過去に行われた事例の無い刑罰である為、手続きやら何やらが大変なのだそうだ。だから、その間の逃走防止策として、一週間のみ収監されるとの話だった。


「一週間、ねえ……」


 一介の看守である男には、その女がいかなる罪を犯したかは知らされていない。だが、平民に落とされるというのは、プライドの高い貴族様にとってある意味、断頭台よりも重い刑罰だろうというのは想像出来た。


 おそらく三日ともたず、頭がおかしくなるだろう――男の胸中では、その姿を早く見たいという昂揚と、おかしくなられたらまた仕事が増えるなという暗澹たる思いが、ない交ぜになっていた。


 その時、二組の靴音が監獄に響いた。


「……来たか」


 思った通り、その靴音は件の少女と、彼女を護送してきた看守仲間のものだった。


「囚人の護送、完了致しました」


 敬礼と共にかけられた言葉に、男も敬礼で返した。


「ご苦労様です」


 それから隣の少女に向け、


「――入れ」


 鉄格子を開き、その中に入るよう告げた。


 少女は嫌がる素振りも見せず、黙って男の言葉に従った。


 格子の鍵を閉めると、同僚は「では、私はこれで」と再び敬礼の姿勢を取る。男もまた敬礼し、去って行くその姿が扉の向こうへ消えるのを確認すると、牢獄の見張りを再開した。


 そして、たった今収監された少女の姿をまじまじと見つめる。


 かつては長く綺麗に整えられていたであろう金髪は乱雑に短く切られ、囚人用の簡素な衣服を着せられているものの、その美貌と優美な所作は、彼女が貴族の中でも上位の身分であった事を示していた。


 今は落ち着いた様子を見せているが、どうせ瘦せ我慢だろう。そのうち耐えられなくなるはずだ――そう思いながら格子の向こうを眺めていると、おもむろに少女はうつむき、その肩が小刻みに震え始めた。


 あーあ、こりゃ泣くな――懐に携帯している耳栓を取り出そうとしたその時、聞こえてきた声は、男の想像からはかけ離れたものだった。


「いよっしゃぁぁぁあぁ!! ですわぁっ!!」




 エーデルワイス・サンドライト――いや、その名は既に、彼女のものではなくなった。理由は単純、「エーデルワイス」という名が平民には認められない語数だったからである。「エーデル」――それが今の彼女の名前だった。


 平民に落とされ、自らの名さえ削られるという屈辱を受けながら、何故彼女は今、牢獄の中で拳を振りかざし、歓喜の叫びを上げているのか。


「あら。わたくしとしたら、とんだ失礼を。余りに嬉しかったので、つい大声を上げてしまいましたわ」


 呆然とこちらを見つめる看守の男に、エーデルはぺこりと頭を下げる。


 そして、ふう、と息を吐くと、未だ興奮冷めやらぬ面持ちで年季の入った木製の椅子に腰を下ろした。


 そう。何故、彼女はこんなにも喜んでいるのか。


 それは――『平民の身分を得る事』こそ、彼女の悲願だったからである。


 エーデルワイス・サンドライトは上級貴族であるサンドライトの一人娘として生を受けた。両親の熱心な根回しが結実し、幼少の頃より既に、王子の許嫁という身分が彼女には与えられていた。


 自分達の家が王族の仲間入りを果たす――貴族にとって、これは何よりの名誉だった。だから彼女の父母は、エーデルワイスが王子の気に入るよう、徹底的に彼女を『教育』した。


 王子が音楽に興味を持ったと聞けば、彼女にもバイオリンの練習を強制した。王族に相応しい教養とマナーを身に付けさせる為、分野別に五人の家庭教師を雇い、早朝から夜中まで学ばせた。そして、エーデルワイスが少しでも失敗しようものなら、激しく彼女を叱責し、厳格な罰を与えた。


 その結果、エーデルワイスは貴族という身分を激しく嫌悪するようになった。


 豪勢な暮らしも、大勢の使用人に跪かれる立場も、いずれ王妃となる未来さえも、彼女にとっては『枷』でしかなかった。エーデルワイスはただ、自由を渇望していた。


 だから、彼女は考え抜いた。この『枷』を捨て去れる方法を。そして辿り着いたのが、『王子と他の女性を結ばせる』選択だった。


 サーシャ・イスールとオルフェリオス王子が互いに惹かれ合っていたのは、一目見て明らかだった。だから、エーデルワイスはサーシャを苛め抜いた。虐げられたサーシャは王子を頼り、二人の距離は近くなる。そして王子の心はエーデルワイスから離れていく。全て、エーデルワイスの思惑通りに事は運んだ。


 ふと、鉄格子の隙間から乱雑に盆が差し込まれる。


「飯だ」


 盆の上に載っていたのは、いかにも硬そうなパンと、おそらくは肉と野菜であろう何らかの欠片が浮いたスープ、そして水だけだった。


 牢の中にはテーブルさえない。つまり、地べたに座って食べろという事だった。


 不満を口にするでもなく、エーデルは冷たい石造りの床に座り込み、パンをちぎって口に運んだ。


「なるほど――まあ、食べられなくはないですわね」


 黙々と食事を続けるエーデルを横目に見て、看守の男は首をかしげつつ、その場を離れた。


 男はこれまで、この牢獄に収監された貴族を何人も見てきた。


 暗く、汚く、狭い牢屋。味も香りもろくに無い、ただ栄養を補給する為だけの食事。初日からこれらを受け入れる貴族など、ただの一人もいなかった。大抵は飢えと疲労と諦めの果てに、ここでの暮らしを受け入れるものだった。


 まあ、強がっているだけだろう。平然と振舞っているのも今のうちだけだ――そんな事を考えながら守衛室に戻ると、見慣れぬ長身の中年女性が立っていた。服装からすると、貴族に仕えるメイドのようだ。


 看守である自分に目を留めると、女性はうやうやしい所作で礼を向けた。そして落ち着いた口調で言う。


「面会を希望致します。本日収監された、エーデルという少女に」

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