友情か、恋か。
吾妻栄子
友情か、恋か。
「
また、こいつか。
前から飛んできたガラガラした声にウンザリしつつ、目を上げる。
すると、赤茶けた天然パーマを二つ分けに結んでドングリ
トクン、と胸が高鳴る。
高二で同じクラスになったこの二人の女生徒は、まるで掃き溜めのゴミと鶴だ。
自分は二年生に入ってから同じ組になったが、この二人は一年生の頃から同じ組で校内でよく連れ立って歩く姿を見掛けた。
“モデルみたいな美人と引き立て役のデブス”
そういう陰での評判を本人たちがどれだけ知っているかは疑問だが、まるで本体と影のようにいつも一緒にいる。
「
すぐ手前の直より少し離れた場所の実希に聞かせる風に答える。
「難しいの読んでるねえ」
正面の直は大きなドングリ眼をもっと丸くする。
驚くともっと間の抜けた
このドン臭い子が自分を好きなことは知っているが、むしろそれ故に何となくいつも蔑んだ目で見てしまう。
「別にそんなに難しくないよ」
澄んだ声で答えたのは実希だった。
「今度、貸すよ」
直のセーラー服の厚ぼったい肩に優しく置かれた白い手のしなやかに長い指と生のままで滑らかな桜色の爪にゾクリとする。
「どんな話?」
ニキビ面のドングリ眼は上目遣いにこちらを見詰めている。
それ、可愛いつもりなのかよ、気色悪い。
いっそ無視したいが、直のすぐ後ろに控える実希の銀縁眼鏡の奥の涼しげに切れ長い瞳もどこか切なげにこちらを眺めているので飽くまで穏やかに笑って答える。
「主人公がまあ痛い奴でさ、知り合いの美人に身の程知らずな片思いして、一人で盛り上がった挙げ句、協力していたはずの親友に取られちゃうんだよ」
自分も特別イケメンとか美形とか騒がれるレベルではないが、クラスの男子の中では見目良いくらいな自覚はあるし、成績もギリギリ上位層だから、お前みたいな成績も中の下の痛いデブスとは端から不釣り合いだ。
「そうなんだ」
赤茶けた二つ分けの縮れ毛を揺らして直は笑った。
このおめでたいバカは自分が皮肉られたことも気付かないんだな。
苦笑いしつつ実希に目を移すと、目線を合わせた銀縁眼鏡の瞳にはいっそう切なげな光が宿っている。
この子も俺を好きだけど、親友の直を慮っているんだろうな。
それがいっそう奥床しく思えた。
「もう暗くなるからそろそろ帰ろうよ」
実希のしなやかに白い手が直の背中を押して続ける。
「うちにある『友情』の本、貸すから」
何と柔らかな優しい声だろう。
同時に、以前目にした実希の家がお城のように立派な邸宅だったことを思い出し、そうした家で育った成績もトップのお嬢様に好かれている自分が誇らしくなる。
「昨日もDVD貸してくれたけど、私、まだあれ観てないし、本まで借りちゃっていいの?」
直のガラガラした声には喜びつつどこか戸惑った色があった。
こいつはまあ俺と同じでごく普通の家の育ちだ。
だが、それすら実希や彼女に好かれている自分と比べると
「直も読みたいんでしょ?」
俺はこのニキビ面のバカとなんか一時間どころか一分も一緒にいたくないけど、実希は本当に優しいんだな。
二人の遠ざかる声を聞きながら、自分も帰る用意をする。
*****
「私も『友情』読んだけど、何だか主人公の野島がかわいそうだったね」
依然として太り気味ではあるものの、頬の肉がひとへら削げて脂が少し抜けた直は語る。
「そう?」
そりゃ、お前ものぼせ上がってキモがられる側だからな、と腹の中で付け加えつつ、外見はちょっとマシになったかなとも感じる。
女の子は恋をすると綺麗になるとよく言うが、それは自分に纏い付くこの子にも多少は当てはまるようだ。
しかし、頑張ってる君には残酷なようですが、こちらの基準点には到底達していません。
そう思いつつ直の肩越しにその後ろに立つ実希と目線を合わせると、相手は痛みを堪える風に微笑んであえかな白い指で直の赤茶けた後れ毛を撫ぜていた。
「杉子って取り合うような人じゃないしね」
どこか言い聞かせる風な調子だ。
「見てくれはちょっと美人なのかもしれないけど、見下しや優越感の垂れ流しみたいで読んでて不愉快だった」
“ちょっと美人”という所で眼鏡を掛けた日本人形めいた面に冷ややかな笑いが浮かぶ。
俺のことを言っているのかな?
何故かそんな気がした。
「それは俺も思わなくはないけど」
確かに“ちょっと美人”どころか“凄く美人”のこの子からすれば、自分の容姿は大したことはないだろうとは思う。
だが、同時に「友情」で大宮が敢えて杉子への想いを隠すために野島に向かっては“普通よりは美しい人”とわざと低く評価し聞かせる行動を思い出した。
実希だって俺と直が話す時には必ず混ざって絡もうとするのだから、やはり俺のことは好きなのだろう。
こんな引き立て役のブスになんか気兼ねせずに自分に気持ちに素直になれ。
精一杯眼差しに気持ちを込めて見詰めるが、実希は直のトリートメントが効いていないらしくパサついた赤茶けたツインテールを愁いを含んだ眼差しで見下ろしたまま続ける。
「武者小路実篤なら『若き日の思い出』の方がいいよ。基本的に良い人しか出てこないし」
俺は今、武者小路実篤の青春三部作の「愛と死」を読んでいてそちらは最後に読む予定だ。
こちらがそう告げる前に実希は直の背を促すように押して立たせる。
「そっちも今日貸すからうちに来なよ」
その言葉を受けた直は幾分痩せてニキビが減ったとはいえ、隣の実希と比べるといかにも脂ぎった大きな顔に苦笑いを浮かべた。
「まだこの前借りた『愛と死』が途中だし、『お目出たき人』は読み始めてもいないけど」
このガラガラ声のバカになりたいとは一ミリも思わないが、実希から何くれと優しくされて家にもしょっちゅう招かれている立場だけは代わりたいと思う。
「私も最近読んで一番面白かったから一緒に読みたいと思って」
澄んだ声がヒントを与えるように耳に響いてくる。
自分も読むことにしよう。
*****
「この前、言っていた『若き日の思い出』、読んだよ」
放課後の下駄箱前で珍しく一人でいた実希にさりげなく声を掛ける。
「そう」
七夕近い夏の午後の陽射しが
「いい話だね」
不遇で不細工な主人公がお金持ちの美少女からも最初から当たり前に好かれるとか、予定調和で甘々だけど。
露骨にそう語るのは手厳し過ぎる気がするので余裕ある風に笑って言葉を続ける。
「でも、現実はそんなに甘くないんじゃないかな?」
こちらの問い掛けの途中で、相手の銀縁眼鏡の切れ長い瞳がふと脇に逸れた。
「直」
少し離れた場所にずんぐりした太り気味のセーラー服姿が立っていた。
思わず舌打ちしたくなるが、表情の消えた直の面持ちとそこに駆け寄る実希の鶴じみたしなやかな後ろ姿に何となくこちらも顔に浮かべた笑いが張り付いたまま固まるのを感じる。
「探してたの。一緒に帰ろう」
二人で外に向かって歩きながら実希は狼狽えたのを必死に押し隠す声で直に語り掛ける。
「今日は用事があるから無理」
直の表情は見えないが、短く答えた言葉そのものよりも不機嫌なざらついた声がこちらの耳に障る。
これだからブスは嫉妬深くて性格も悪い。俺らの邪魔だからお前なんかさっさと消えちまえ。
*****
今日は何だか空っぽな日だった。
直が纏い付いて来ない代わりに、実希も近付いてこず目を合わせない。
プラマイゼロにならず、マイナス百くらいの感じだ。
本を読んでも目が活字の上を滑るというか、内容が頭に入ってこない。
七月の夕方の陽射しがジリジリと照り付けるのを感じた。
早くうちに帰ろう。
ふと、自分の影に細く長い影が重なった。
「志賀君、ちょっといいかな」
実希が立っていた。
「この後、特に用事がなければ、一緒に
学校のすぐ近くの、公園とはいえ、あまり人目につかない場所だ。
「いいよ」
いよいよだ。
この子もあのバカ女との友達ごっこに見切りをつけて、自分との恋を選んだのだ。
直は鈍いから気付かなかっただろうけど、もともと実希が優しいから友達になってあげていただけで、それももう見限って自分の本当に付き合うに相応しい相手を選ぶ時が来たとやっと分かったんだろう。
そう思うと、暮れかけた夏の陽射しが急にきららかで空は深々と澄んで見えた。
隣を歩く実希は透けるように白い中高な横顔を見せている。
どこか思い詰めた、張り詰めた空気が滑らかな蒼白い
*****
あれ……?
薄暗い公園の真ん中に見慣れた赤茶の縮れた二つ分けの頭にずんぐりしたセーラー服の姿が立っているのが目に飛び込んできた。
もしかして……?
掌に汗が湧いて、急に嫌な予感がしてくる。
「呼び出しちゃってごめんね」
色付きリップを塗り過ぎたために唇がタラコそのものに見える直は上目遣いに微笑む。
「どうしたの?」
悪いと思ってるなら最初から呼ぶな。
そう言いたいが、実希が傍にいるので堪える。
「志賀君は付き合っている人、いるの?」
ドングリ眼には纏い付くような光が宿っている。
ぞわっと嫌な寒気が背筋を走る。
「いないけど」
お前とは死んでも付き合いたくない。
「じゃ」
言い掛けた直の声に被せるように自分でも驚くほど冷たい声が耳の中に響く。
「悪いけど、俺は有島さんは好きじゃない」
ワーッと胸に血が迫り上がるのを覚えながら続ける。
「俺が好きなのは武宮さんだから」
一瞬、夏の公園に凍り付くような沈黙が走った。
「そう」
直のドングリ眼から妙な光が消え、浅黒い顔全体が色付きリップの塗った唇だけが虚しく浮き上がるように生気を失った。
「何か、そうなる気はしてたよ」
相手は乾いた声で目の前に立つ自分よりも棒立ちの親友に告げる。
「
絞り出すような実希の呼び掛けを浅黒く厚ぼったい手を振って制した。
「いいから」
大きなドングリ眼には親友に片想いの相手を奪われて失恋した傷心よりも白けた鬱陶しげな気分が滲んでいる。
「お似合いだし、そこで付き合っちゃえば?」
“そこで”の所でニキビ面の顎で煩わしげに自分の立つ方角を示した。
あれ、こいつ、こんな奴だったか?
その酷くぞんざいで投げやりな挙動にも、そんな風に指し示されたのが自分であることにも面食らう。
バカでうざいけれど、好きになった自分に対しては失恋しても敬意を払ってくれるだろうという信頼はどこかにあった。
というより、こいつが俺を粗末に扱って返す事態が起きるとは想像だにしていなかった。
「今まで貸してくれた本とかDVDとか全部送って返すから、もう話し掛けないで」
こちらの思いをよそに、小柄でずんぐりした直は自分より頭半分背の高いすらりとした実希に向かってどこか見下ろす風な顔つきで続けた。
「あれこれ優しくしてくれたけど何だかネットリして、いかにも裏がありそうで、正直うざかったんだよね、あんた」
“あんた”と蔑んだ調子で呼ばれた実希の華奢な肩にピシリと凍り付くような震えが走る。
それは傍で目にするこちらにも痛ましい光景であった。
直はもう早足で歩き出している。
――お前らの茶番に突き合わせんな。
ずんぐりしたセーラー服の背中にはそんな百パーセントの好意が一気にゼロに冷え切った気配が漂っているようだった。
何かさっきまで自分を好きで、纏い付いて、笑顔でいたのが嘘みたいだ。
――あんたなんかそこまでじゃないよ。
振り向く気配すらない二つ分けの赤茶けた縮れ毛の垂れた背中はそう突き放している風に見えた。
こいつはのぼせやすい分、冷えて見向きもしなくなるのも早いんだろう。
ガサツで頭の悪い奴だから、それを隠しもしない。
たった今、そういう彼女を拒絶したのは自分なのに、何故かこちらが侮辱された気がした。
ふと、目を移すと、青ざめた実希の姿が目に入った。
すっくり長い
そうだ、自分が最初から選んだのはこの繊細優美なお嬢さんだ。
「武宮さん」
やっと本当に二人になれた。
艷やかな漆黒のポニーテールが垂れたセーラー服の華奢な肩に手を伸ばす。
その瞬間、棘を含んだ声が響き渡った。
「触んな」
相手は男のような口調で言い放つと、雪白の手でこちらの手を振り払う。
え……?
さっと空の掌に薄ら寒い空気が通り過ぎた。
「私はあなたには何の興味もありません。はっきり言って、嫌いなくらい」
銀縁眼鏡の奥の端正な瞳は汚いものでも目にしたように底に冷たい蔑みを含んでいる。
思わず背筋が凍り付いた。
「いっつもジロジロ値踏みするみたいに私らを見てきて本当に気持ち悪かった」
見透かしたような、ゾッとするような笑いが人形めいた顔に浮かんだ。
「直の好きな人だから何とか付き合って欲しかっただけ」
吐き捨てる風に語ると、蒼白い顔にひび割れるような痛みが走った。
そう思う内にも相手は真っ直ぐな黒髪のポニーテールを揺らして駆け出した。
「直! 待って!」
何と必死な声だろう。
「置いてかないで!」
走り去った直を追う実希の声には涙が滲んでいる。
その叫びに既に傷を受けた胸をいっそう深く刺された。
実希は最初から直しか眼中になかった。
たまたま直が追い回したのが俺だったから、おまけでこちらも視野に入ったに過ぎない。追い払いたい邪魔者として。
俺が実希を好きな気持ちより、そして、直が俺を好きだった気持ちより、実希が直を好きな気持ちの方が恐らくはずっと深いのだ。
呼び出されたのに一人取り残されてしまった公園でひやりとアスファルトの匂いを含んだ風に吹かれて苦笑いする。
「俺も結局、勘違い野郎の
(了)
友情か、恋か。 吾妻栄子 @gaoqiao412
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます