幕間 支配人室にて
「支配人、今お時間よろしいですか?」
部下に呼び止められた支配人こと、ハワード・オルセンは柔和な顔で頷いた。
「ええ、構いませんよ」
支配人と呼ばれるのはまだ慣れない。ほんの一年前までは「支配人」という呼び名はハワードの上司、ジョージ・クライスラーのものだった。
二十代の頃、銀行に勤めていたハワードは、ひょんなことから古城ホテルの経理に携わることになってジョージと出会った。あれよあれよという間に金勘定以外の相談を受けてしまい、気が付いたら銀行を退職してジョージの元で働きだしていた。
「計画通りだな」と笑うジョージの勧誘が巧みだったせいもあるが、ハワード自身もジョージの人柄とこの美しい古城に惹かれるものがあったからだ。
そんな自分がまさか「支配人」の席に座る日が来るだなんて。
部下の相談に乗った後、支配人室に戻ったハワードは、肘掛椅子に腰かけるとデスクの引き出しを開けた。
中にしまってあるのは銀に輝くジッポライター。
ジョージが生前に使っていたものだ。ハワードは煙草を吸わないが、このライターだけは手入れを欠かさない。フリントホイールを回して点火すると、炎の代わりに人影がゆらりと立ち上った。
『おお、ハワードか。ごくろうさん』
グレイヘアを撫でつけた好々爺がにんまりと笑う。
――ハワードは物心ついた時から霊が見えていた。
だが、自分が霊を見ることができるということは誰にも話さなかった。
話したところで変人扱いされるのがオチだし、自分は理性的でまともな人間だと自負していたし、周りからの評価も高かった。非科学的な訳の分からないものが見えるなんて認めたくなかったというのもある。
ハワードは鉄の心で霊を無視して生きてきた。
誰かがポルターガイストが起きただの、幽霊を見ただのと言っても「へえそうなんですか」と無関心を貫いた。無論、「霊が見えるせいで両親で疎まれて古城ホテルにやってきた」オリビアに対しても同じスタンスを取り続けた。
慣れとは恐ろしい。今や、至近距離で霊に迫られてもまったく動じない。
霊が何を喚いたって他のお客様には見えないし聞こえないのだから放っておけばいい。そんなハワードが唯一無視できなかったのは、ジョージの死後、彼の持ち物であるジッポライターに宿ったジョージの霊である。
故人を偲んでライターを点火したらジョージが現れたのだ。
しはいにん、と震える声を出したハワードに、ジョージは散歩から帰ってきたあとみたいに「よ」と気軽に手を上げた。
『頼みがある。もしも精霊の間の鍵を持って訪ねてくるやつがいたら、俺の友人としてこのホテルに置いてやってくれないか』
そんな依頼ならお安い御用だった。
名前と外見の特徴などを教えてくれと言うと、ジョージは笑って首を振った。
『精霊の間の鍵を持っている人間だ』
「……わかりました」
名前を出すのに差し障るような著名人なのかと思ってハワードはあっさり引き下がった。
受付に通達を出そうと思っていたが、ミーハーな従業員やおしゃべりな従業員に詮索されたくない人物なのかもしれない。
そうしてある日現れた美貌の青年が鍵を持っていたため、ハワードは言われていた通りに部屋に通した。ルイス・ラインフェルトと名乗った男はジョージからの手紙を所有していたし、「オリビアを頼む」との一文――ああ、孫娘の縁談でも勝手にまとめていたのかもしれないなぁと納得したのだ。しかし……。
「あなたは最初から、ルイス氏が自分が手紙を託した相手ではないと気づいていたのでしょう?」
生きていた頃のように窓辺に立ったジョージにハワードは問う。
黙って出て行ったルイスを追いかけると言ってオリビアは古城ホテルを飛び出して行ってしまった。ろくにこの近郊から出たことのない娘が、僻地まで行くと言うなんて。
心配してのらりくらりと精霊師の住処の住所を隠そうとしたハワードとは違い、ジョージが鏡の光を使って教えてやっていた。
霊が見えるもの同士、惹かれ合うものもあるのだろうと勝手に思っていたハワードは、ジョージが手紙を出した相手はルイスの師匠で――おまけにルイスとの面識は一度もない、風の噂で子どもを養子にとったと聞いたがその子のことだろう、という程度の認識の相手をあっさり信じてしまっていたことに愕然とした。
「まったく人が悪い。どうして教えてくれなかったんですか」
『最初から言っておいただろう。精霊の間の鍵を持って訪ねてくる奴がいたら、と。手ぶらでゴドウィンの縁者を名乗る奴の方が信用できねえよ』
「オリビアも騙されていますよ。あなたが『オリビアを頼む』なんて書いたせいで、すっかり絆されてしまっているじゃありませんか。欲のなさそうな青年だから良かったものの……」
オリビアの事もハワードの事も騙して、ホテルを乗っ取ろうと考えていてもおかしくはなかったはずだ。
『ははは! さすがにそれはないだろうよ。お前の目が黒いうちは、このホテルを荒そうとするやつを許さないだろ。それにオリビアは大丈夫だ。俺はな、あの子の事は実はあまり心配していないんだ』
オリビアが聞いたら泣くか憤慨するセリフだ。
あの子はあんなにもジョージを慕っているのに。
「孫娘を心配してこの世に残っているくせに、どの口がおっしゃいますか。こそこそ隠れて様子を伺っていないで姿を現してやったらどうですか」
『俺はあの子には会わん。あの子はもう自分の足で歩き始めとるんだ。お前という後継人と古城ホテルで得た居場所、それから、あの青年の孤独に寄り添うことであの子自身も自分の未来と向き合える。――俺がこの世に留まったのは、お前が気がかりだったからだよ』
ハワードは絶句した。
「私、ですか?」
四十も半ばのオッサンに対して心配事など。
『すまなかった。ばたばたと俺が死に、古城ホテルの事もオリビアの事も、すべてをお前に丸投げにする形となってしまったな』
「そんなこと……、別に気にしていませんよ。二十年近くも共に働いてきたのですから、あなたの仕事を継ぐのは私が最も適任です。オリビアのことも、あなたの死に関わらず長い目で見守っていくつもりでしたし……、それに」
陽光に透けるジョージの身体を見つめる。
生まれてこの方、霊が見えることをありがたいと思ったことは一度もなかった。
しかし、ジョージと語らい合えるなら話は別だ。
「あなたが側にいてくださるなら、負担なんて感じませんよ。迷ったときに相談できる相手がいてくださるのですから」
『何を寝ぼけたことを言っとる。俺はもう逝くぞ』
ぴしゃりとジョージは言った。
幽霊支配人と二人三脚で経営していくつもりだったハワードは再び言葉を失う。
だってここは、ジョージのホテルだ。
彼が心血を注ぎあげて築いた城だ。
「待ってください。あなたがいなくなったら、このホテルの指揮は誰がとるんですか」
『このホテルの総支配人はお前だろうが』
違う。ハワードは中継ぎの支配人にすぎやしない。
ジョージから受け継ぎ、いずれはオリビアか別の誰かに譲り渡すための、仮の支配人のつもりでいたのに。
『大の大人が情けない顔をするんじゃない』
「そんな――私では――」
『お前を慕う連中は大勢いる。俺がやっていた通りの経営じゃなくたっていいんだ。お前も他の連中もみんないいやつだ。俺はなんの後悔もない』
「支配人」
霊など信じないそぶりを見せてきた自分が、霊であるジョージに縋る。
孫娘のオリビアに霊感があるらしいと聞いても、ハワードは自分もそうだとは明かさなかった。ジョージは薄情なやつだと思っただろうか。これまで「見えていなかった」くせに、今さら「見える」枠に入ろうとするなと。
手を伸ばしても触れられない。当たり前だ。彼は一年も前にとっくに死んでいるのだ。ハワードだけはこの一年間一歩もその事実を受け止めずにいた。失ったことをいつまでも認めず、支配人室の霊に縋り続けた。
『達者で生きろよ、ハワード。いつかまた、あの世で会おう』
ジョージは溶けるように消えた。
なんの後悔も心残りもない微笑みだった。
「支配人」
カチッ、カチッとハワードがホイールを回す音が部屋に虚しく響く。
何度明かりを灯しても、ジョージが現れることは二度となかった。
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