西から来る嵐⑧


 子どもの頃は大きく感じていた母の身体はいつの間にかオリビアと変わらないくらいになっていた。


「わからなくてもいいから聞いて! お兄ちゃんはね、ずっとお母さんに存在を認められなくて悲しいって言ってた。でも、お母さんやお父さん、わたしの幸せを願っていてくれたの。だからどうか、今だけでいいからお兄ちゃんのことを思い出して欲しい」


「あ、あなたに、兄なんていないわ……」


 震える声で母は言う。


「…………生まれる前に死んでしまったの。ねえ、どうしてあなたがそんなことを知ってるの? ……なんて、私が聞いてもわからないわよね……」


「…………」


「あなたが生まれるよりもずっと前の事よ。私には恋人がいて、子どもを身籠ったの。でも、その直後に恋人は酔って喧嘩した相手を死なせてしまったの。恋人は捕まり、私の家族はその土地を離れたわ。そのときのごたごたでお腹の子は死んでしまったの」


 母は震える手で顔を覆った。


「私はショックよりもほっとしたの。新しい土地でやり直そうと思って――何食わぬ顔で結婚して、あなたを産んだのよ。だけどずっと気味の悪いことばかり起きるから、……あなたに、あの子の霊が乗り移っていて、私に恨みを晴らそうとしているのだと……」


 オリビアに辛く当たり続けた母。


 家族から離れた今なら、母は父に捨てられまいと必死だったのだろうと思った。


 おかしな事象はオリビアがいるからで――なのに、一向に収まらない怪奇現象に悩まされていたらしい。


「……お兄ちゃんは怒ってなかったよ」


 木の根元から四つ葉のクローバーがにょきりと顔を出した。


「ただ、ここにいるって見つけて欲しかったんだって。わたしと、お母さんに」


「……ごめんなさい……、ごめんなさい……!」


 泣き崩れる母に向かってくるくると伸びたクローバーは母の手首に絡まった。


 母は震える手でこわごわと四つ葉に触れる。


 四つ葉は笑うように揺れた。


 母の姿が薄れて消えていく。


 少年が作り出したと思われる不思議な空間が消えていく。


(そういえばルイスさんは⁉)


 オリビアと母だけがこの空間に招かれたのだろうか。オリビアは思わず走った。


「ルイスさん、いますか⁉」


「オリビア⁉」


 生垣の向こうから飛び出してきたルイスと正面衝突しそうになる。


 そういえばこの間もこんなことがあったな、と思ったオリビアは足の痛みで思わずしゃがんだ。足首を捻挫していたんだった。ルイスと二人、しゃがみこみ――


 ――気づけば、森の中でしゃがみこんでいた。



『ややっ、二人とも何をしておられるのか!』


「……え、エスメラルダ三世……?」


 きょろきょろと辺りを見渡すと精霊たちもどこかに消えてしまったいた。


 真っ暗闇の中でルイスとオリビアの気配が全く動かなかったため、心配になって引き返してくれたらしい。


『獣の類はこの先にはいなかったな。しかし、母君の姿は見つけられなかったぞ』


「え……」


 兄は母をどこへやってしまったのだろう。


 すると、『おーい!』と森の入り口からやってきた二人の霊がいた。


 ナンパ男ナサニエルと、しくしく泣いてばかりの令嬢だ。


『キミのお母さんが見つかったよ。クローバーの丘の辺りで倒れてる!』


「あの、男の子の霊は見なかった?」


 兄も一緒なのかと思ったが、


『ああ、ボクが駆けつけたら消えたよ。きみにありがとうって伝えてくれってサ』


 ……そっか、じゃあ、兄の心残りは晴れたのかな……。


 良かったな、と力が抜けたオリビアにルイスが手を貸して立たせてくれる。


 オリビアに背を向けて屈む。


「俺たちも帰ろう」


「ええ。……そうですね……」


 しかし、改めておんぶしてもらうのも気恥ずかしいのだが……。


『ヒュウ、見せつけてくれるじゃないか! レディ、きみの足が痛くなったら、この俺がどこへなりとも駆けつけるよ』


 ナサニエルはオリビア――にではなく令嬢に向けて跪いた。


 令嬢は戸惑ったようなそぶりを見せると逃げるように消えてしまう。


『ああっ、待ってくれたまえマイスイートハニー!』


「え、と……」


『ふははは、ボクはついにあの泣き虫レディの心を射止めたのだよ。こうしちゃいられない、後を追いかけさせてもらうよ!』


 ナサニエルも消えた。


「ほほう、あのレディの心を開かせたとは……。やるな、ナサニエル君」


「あの人、かなり前向きですよね。ちょっと前まではわたしのことを口説いてきたくせに」


「なんだ、ジェラシーか?」


「違います」


 切り替えの早さに感心しただけだ。


 明るい方へと向かいながら、オリビアはルイスの背中に身を預ける。重くないかな、と今さらなことが気になった。


「ルイスさん、今回もありがとうございました」


「……今回俺は何もしていないよ」


「そんなことないです。霊とちゃんと向き合わなきゃってことはルイスさんから教えてもらったことですし、……なんというか、これから先もあのホテルで頑張れそうな気がしてきました」


 心霊トラブルが起こっても多少なりとも落ち着いて対応できるような気がする。


 まあ、極力何事もなく平穏に生きたいという思いは変わらないが、従業員に見られていない場所ならば霊と話してもいいかな、とすら思う。


「俺がいなくても、きみはうまくやれたよ」


「え、そ、そうですか?」


「霊のことも仕事のことも、家族のことも。きみの周囲には力を貸してくれる人がいて、きみ自身も乗り越えられる子だと思う。きみの祖父に『頼まれる』ようなことはなかったな」


 ルイスは明るく笑ったが、その笑みはどこか影を孕んでいた。


「ルイスさ……」

「おーい! オリビア~!」


 日暮れの中、トニーやメアリ、顔見知りの従業員が手を振って駆けつけてきた。


「良かった~! 俺らもハワードさんから事情を聞いて探しに出ようかと思ってたところなんだ。さすがに日が落ちる前にと思ってさ」


「お母様は庭で倒れていたから、部屋に運んでもらって、今医者を呼んでもらっているところよ」


 ルイスはオリビアを下ろしてくれた。


 みんなの前でおんぶは恥ずかしかったし、ちょっとにやにやされているのもいたたまれなかったから良いのだが――


「良かったな、オリビア。では、俺はこれで部屋に戻ることにするよ」


「あ、え、ええ。ありがとうございました」


 急に一歩線を引かれたような感じになる。


 もちろん、ここまで付き合ってくれただけでじゅうぶんありがたいからいいのだけれど。


「オリビア、怪我してるのか? 俺がおんぶしてやろうか?」


「歩けるから平気よ」


「なんだよー。ラインフェルト様にはおんぶされてたくせにー」


 笑われながらルイスの背中を視線で追う。


 彼は、こちらを振り向きもせずに行ってしまった。





 十年ぶりに再会した父とは淡白なものだった。


 父は母ほどオリビアの事を邪険にはしなかったけれど、家から追い出してしまったという負い目があるのだろう。「元気か?」「ええ、なんとか」。「おじいさまのことは残念だったな」「うん、でももう一年も経つし」。


 ぎこちない会話を交わしながら笑ってしまった。


 笑えるほど自分も大人になったのだな、と思った。


「信じてもらえるかわからないけれど……、きっともう、お母さんの周りでポルターガイストみたいなことは起こらないと思うわ。とり憑いていた霊はちゃんと納得して消えてしまったから」


「……あ、ああ、うん。そ、そうか……」


「それから、お母さんに帰ってこないかって言われたけれど、今のわたしが居たいと思う場所はここなの。だから、家には帰らない」


「…………」


「時々手紙を出すわ。それから――良かったら、今度はちゃんとお客様として泊まりに来て欲しい。わたしの自慢の、職場なの」


 父はどこか寂しそうに「そうだな」と言った。


 目覚めた母は、あの不思議な場所での出来事はぼんやりとしか覚えていないようだったが、それでもオリビアを見る目に怯えの色はなくなっていた。


 ハワードが泊まっていくようにと勧めたが、これ以上迷惑はかけられないから、と二人は辞退して帰っていった。


 話すべきことは話した。


 オリビアは見送りに立たなかったし、今はこれが精一杯だ。


 いつかは親子三人で語り合える日がくるのかもしれないが――それはきっと何年後かの話だろう。


 ハワードは無事に解決したようでよかったですねと言ってくれたけれど、オリビアにはもうひとつ気がかりがある。


(ルイスさんと話がしたいな)


 彼はオリビアに似ていると思った。


 寂しくて、行き場のない彼を放っておけない。

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