一方通行の恋にご用心②
「あ、オリビアさん。妻を見かけなかったでしょうか?」
「奥様なら美術館に行かれるとおっしゃっていましたよ」
ロジエールは「そうですか」と肩を落としたものの、気を取り直したように話を続けた。
「実は、オリビアさんにお願いしたいことがあるんです。明日は妻の誕生日でして……、ぜひサプライズでお祝いがしたいと思っているのですが」
「まあ。素敵ですね!」
「ありがとうございます。それで、少しご相談と……、手伝っていただきたいことがあるんですが、部屋に来ていただいても構いませんか?」
「かしこまりました」
了承したオリビアはロジエールと共に『貝殻の間』へと向かった。
ふわりと現れた光の玉もオリビアについてくる。
よくルイスがくっつけている光だ。精霊だと言っていたっけ。
害はなさそうなので放っておく。
部屋に入ると、キャスリンの香水の匂いが強く香った。
う、と思わず息を詰めてしまう。
眩暈を起こしそうな匂いに、光の玉も一瞬で消えた。強烈な匂いはお気に召さなかったらしい。
「すみません。今朝がた妻が香水をこぼしてしまったみたいで……、臭いですよね」
「大丈夫ですよ。しばらく換気をしておきましょう」
オリビアはカーテンを束ね、窓を大きく開けた。
三階に位置するこの部屋のコンセプトは海だ。メインの家具となるベッドやクローゼットは他の部屋と同じアンティーク調のものだが、カーテンやソファなどのファブリックは青や白を使ってさわやかに、ランプシェードは螺鈿細工、ペーパーウェイトは貝殻の金型で作ったもの、……と上品なコーディネイトがされている。
なぜこの部屋が海をモチーフにしているかというと、部屋の真下は『古い井戸のあるおばあちゃんの家の庭の一角』といった地味な……、いや、落ち着いた庭園なのだが、その奥に広がるアネモネの花畑が一番よく見える部屋なのだ。
薄青や白の品種を中心に植えているため、海のような色合いの花畑を楽しめる。
オリビアのおすすめは大きな張り出し窓の側でお茶を楽しむことなのだが……、残念ながらキャスリンがこの部屋でお茶を楽しんでいるとは思えなかった。
だいぶ鼻も慣れたオリビアは話を続ける。
「それで、サプライズというのはどんなものなのでしょう?」
「はい。明日、部屋を暗くして妻を驚かそうかと思っていて。それで、こういうものも持ってきているのですが……」
ロジエールが取り出したのはいくつものアロマキャンドルだった。
部屋でつけてもいいかという申し出に、オリビアは頭を下げた。
「申し訳ありません。お部屋での火の使用はご遠慮いただいております。なにぶん古い建物でして、他のお客様の安全のためにもご理解いただけると助かります」
「ですよね。では、花束を手配していただくことは可能でしょうか? ちょうどこの丸テーブルに置けるくらいの大きなものが欲しいのですが」
「構いませんよ。どんな花束にいたしましょう」
「ええと……僕は花には詳しくないので……、白っぽい花、とかそういうイメージでも構いませんか? 大ぶりな花よりも清楚な花がいいな。可憐な感じにしてほしいです」
ロジエールの注文を聞き取り、オリビアはメモに書きつけた。
大きさや予算などの相談もして、明日の夕刻六時ごろに部屋に届けることに決まる。
「奥様がお部屋にいらしたらどうしましょう? 夕食の間に、私がこっそりお部屋に配置しておくこともできますよ」
「いえ。大丈夫です。……妻は、眠るときくらいしか部屋に戻ってこないので……、問題ないかと」
ロジエールの言う通り、キャスリンは驚くほど部屋に寄り付かない。
庭園に出たり、街に出かけたり、夫を避けるように常にどこかに出歩いていた。
(うーん……。キャスリンさんはロジエールさんの何が気に入らないんだろう……)
ワガママ放題に振る舞っているように見えるのに、ロジエールはキャスリンを責めもしない。清潔感もあって、優しい人だ。ふと、完璧に磨かれた彼の革靴が目に入る。
『大人しそうに見えてプライドが高そう』
『ああいう男の方が外に女を作っていそう』
メアリの推察が頭をよぎる。
……どちらかというと、キャスリンがロジエールの求める女性像に息苦しさを感じているのかもしれない。気の強そうなキャスリンに似合いそうなのは清楚な白い花ではなく、もっと華やかで明るい花のように思える。それとも、ロジエールにしか見せない顔があったりするのだろうか……。
(いけない。メアリの詮索癖がうつってしまってるわね)
コンシェルジュの仕事はお客様のご要望に寄り添うこと。
変な感情移入やおせっかいは控えなくては。
◇
休憩時間。
支配人室にいるハワードに珈琲の差し入れを持っていったオリビアは、そのついでに、ルイスへの対応について相談した。
「いくらおじいさまのご友人といえども、期限も決めずにいつまでも居座られるのはどうかと思います。従業員たちの負担にもなりますし、やはりある程度の期限を決めて追い出した方がよくありませんか?」
「追い出すって……」
ハワードは困ったように笑う。
「そのことですが、ラインフェルト様より申し出がありました。『滞在中、頻繁に世話をしてもらうのは申し訳ない。ある程度の部屋の片づけは自分でできるし、毎日のベッドメイキングや部屋の清掃も必要ない。宿泊客用の豪華な食事ではなく、従業員たちと同じまかないを食べに行っても構わないだろうか』と」
「居座る気満々の申し出じゃない!」
遠慮しているように見えてだいぶ図々しい。
「ハワードはなんて答えたのっ」
「かしこまりました、と」
「了承しちゃったの⁉」
信じられない、とばかりにオリビアは叫ぶ。
もちろんハワードの言い分としては「先代から頼まれていますし」の一言だ。
「あの方が大きな問題を起こすとか、ホテルに甚大な被害を与えるだとか、損害が発生するだとかでない限りはこちらから出て行ってくれというつもりはありませんよ」
「で、でも、独り言がうるさいだとか苦情は来ているし……」
「酔っぱらって帰ってきて、エントランスで派手に嘔吐されたお客さまよりはましでしょう。オリビアは彼が苦手なのですか?」
「…………」
ハワードは意外だとでも言いたげだった。
霊が見えるせいで親に拒絶され、古城ホテルに引き取られたオリビアにとって、ルイスは救いになるかもしれないと――祖父も、ハワードも思っていたのだろう。
「苦手、……ってわけじゃ、ないけど……」
同族嫌悪のようなものだろうか。
霊が見える人間という意味では、オリビアもルイスも「同じ側」にいる。
けれども、霊を見たくないと拒絶するオリビアに対し、ルイスのスタンスは逆だ。彼は霊を受け入れ、自分が人に見えないものを見ていることも肯定的に捉えて振る舞っているように見える。
誰の目も気にすることなく振る舞う自由なルイスがうらやましくもあり、だけどやっぱり周りの目には奇異として映っていることを思い知らされる。
「……まあ、どうしても嫌だというのならあなたがご自分で説得してください」
「わたしが?」
「ええ。だって先代からの手紙には『オリビアの事を頼む』と書かれていたのですから、あなたのことを助けてくれる可能性がある相手を私が追い出すなんてできませんよ」
嫌な相手を追い払いたければ自分で追い払えというのはルイスにも言われたな、と思い出した。
オリビアは人から嫌われるのが怖い。
人を嫌うのなら、自分が嫌われ役になる覚悟を持てと言われたような気がして、結局ハワードに言い返せないまま引き下がることになってしまった。
夕刻に花屋を呼んだオリビアは、持ち込んでもらった花と、庭園の花を合わせて立派なブーケを作ってもらった。指定の時間にロジエールの元に届け、コンシェルジュデスクに戻ろうとした矢先、階段の踊り場でキャスリンに会った。
「良い夜を、モンド様」
会釈と共ににっこり笑ってすれ違おうとしたオリビアの腕をキャスリンが掴む。
眦を釣り上げたキャスリンはオリビアを睨んだ。
「あなたっ。人の夫と、何をこそこそしてるの⁉」
「えっ」
「今、あの人のいる部屋に行ったんでしょ! わたしの香水の匂いがするもの!」
貝殻の間はかなり香水臭く、一晩換気をしてもあまり匂いがとれなかったのだ。
モンド夫妻が帰ったら香水をこぼしたという絨毯はクリーニングしなくてはと思っていた。わずかな時間滞在しただけのオリビアにも匂いが移ってしまうなんて。
「お部屋には伺いました。ですが、モンド様――旦那様に頼まれていた御用があったからで」
「用って何よ」
「それは……」
「言えないことなのっ⁉」
きつい口調で責められる。
(もしかして、わたしとロジエールさんの浮気を疑っているの?)
ありえないし、そもそも自分こそ旦那を放っておいてルイスにべったりではないか……と言いたい気持ちを飲み込み、オリビアは弁明しようと決めた。
「キャスリン様のお誕生日をお祝いしたいとのことで、そのご相談を受けていたんですよ」
「わたしの?」
「ええ」
部屋で待っているロジエールのためにも黙っておきたかったが、勘違いさせたままで二人が仲違いしてしまっては元も子もない。
「お部屋で旦那様がお待ちですわ」
そう言ってキャスリンの腕をそっと解き、部屋に行くように誘導しようとする。
しかし、キャスリンは何を思ったのか「あなたも一緒に来て」と命じた。
「え、ですが……」
「あなたが一緒じゃないと部屋に帰らない」
キャスリンは頑固な口調で言う。
てこでも動かなさそうだったので、オリビアは了承することになった。
先に行けと言わんばかりにキャスリンがオリビアを促す。
「モンド様、あの……」
「部屋についたら、ノックなしで、あなたが先に入って」
それではせっかくのサプライズが台無しではないだろうか。
「それから、髪を解いて」
「え?」
「いいから。言うとおりにしてちょうだい」
「……かしこまりました」
仕事中は邪魔にならないように結っている髪を下ろす。
一日中縛っていた胡桃色の髪には少し癖がついてしまっていたが、キャスリンと同じくらいのロングヘアだ。
部屋につき、オリビアは渋ったが……。キャスリンが入室する気配はない。行け、と視線で合図される。
(仕方ないか……)
部屋の扉を開ける。
途端にキャスリンに背中を突き飛ばされ、つんのめるように部屋の中に入ることになってしまう。無情にも外からばたんと扉を閉められた。
(えっ、キャスリンさん⁉)
そのオリビアを背後から誰かが抱きしめた。
誰かって。そんなの、ロジエールに決まっている。
もしやキャスリンは、「妻である自分とオリビアを間違って抱きしめるなんて最低! この浮気者!」なーんてことをしたいのだろうか。
むせかえるような香水の匂い。
カーテンの引かれた部屋の中は真っ暗だ。
「キャスリン……」
「あ、違、」
違います、すみません! と弁明する前に、しゅっと首に巻き付いた何かがオリビアの呼吸を止めた。
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