命名の意味

 絶句する実に、イルシュエーレは悲しそうに目を伏せた。



「動物たちからすると、こういう魂を持った子はとても魅力的に見えるの。食べてしまいたいくらいにね。あなたが助けなかったら、この子は今頃生きてはいなかったでしょう。あなたに出会えたことは、シャールルにとって本当に幸運なことだったのよ。」



「そんな……」



 実はシャールルのつぶらな瞳を見つめる。



 その魂のせいで、同族の中では生きていけない存在。

 シャールルも、自分と似た境遇だということか。



「そんな顔しないでいいよ。もう気にしてない。僕は幸せだもん。」



 そう語るシャールルの周りに、強力な魔力が集まった。

 彼の足元から水が噴き出し、その水はその背中に向かう。



 突然の変化に目をみはる実の前で、シャールルの背に水で象られた翼ができあがる。

 水の翼が羽ばたくと、シャールルの小さな体がふわりと宙に浮き上がった。



「すごいでしょ? 実のおかげで、こんなこともできるようになったんだ!」

「俺のおかげって……俺、何もしてないけど……」



「名前のことよ。」



 イルシュエーレが微笑む。



「あなたたち人間には普通だけど、私たちにとっての名前はものすごく大きな意味を持つの。ここにいる精霊たちの中でも、名前を持つのは私だけ。名前を持ってることは、それだけで特別な存在となりえるの。」



「え…? そ、そうなの…?」



 それは知らなかった。

 戸惑う実に、イルシュエーレは一つ頷く。



「ここの力をたくさん取り込んで、この子の魂は私たちに属するものに変容していってた。そこにあなたが、水に由来する名を与えた。それでこの子は、私と同等の力を扱う権利を得たの。それに加えて私がシャールルを認めたことで、シャールルの魂は私たち精霊と完全に同属になった。だからこんな力が使えるようになったの。あなたたちは、こういう子のことを聖獣と呼んでなかったかしら。」



「ああ……」



 実は蓄えてきた知識を手繰たぐる。



 この世界で並外れた威力で魔法を扱うための手段は二つ。



 一つは両親のように四大芯柱となって、精霊たちを従えること。

 そしてもう一つは、精霊と同等の力を持ちうる聖獣を自分の配下に置くことだ。



 しかし、四大芯柱がいつの時代も確実にいるのに対し、聖獣はその姿を確認されたことがほとんどないと聞く。



 それ故に、聖獣を従える聖獣使いもほとんどいないのだ。



「……ん?」



 そこではたと思い至る。



「ってことは……俺が名前をつけたから、シャールルは聖獣になったってこと?」



 名前を与えられたことで、シャールルは聖獣となりえる資格を得たのだと。

 イルシュエーレはそう言ったはず。



「そうだよ!!」



 元気よく答えたシャールルが、くるりと空中で一回転。



 そうか。

 やっぱり、そういうことか。

 そういう……



「えええぇぇ!?」



 ようやく、事の重大さに気付いた。



「ごっ、ごめん、シャールル!! シャールルの意思も何も考えずに、名前つけちゃった…っ」



 まさか、精霊たちにとって名前がそんなに重要だったなんて。

 自分は何も考えずに、シャールルの運命を変えてしまったことになるじゃないか。



「イルシュも、なんで俺にそれを話す前にシャールルの名前を認めちゃったの!? 俺、なんかすごいことしちゃったじゃん!」



 突然のことに混乱してしまい、実はイルシュエーレに向かって慌てて言い募った。

 しかし、イルシュエーレは不思議そうに首をひねるだけ。



「どうして? 私はあなたがつけた名前を綺麗だと思ったし、その名前を尊重しただけよ。」



「だけど……」



「それにシャールル自身が、この名前を自分の名前として認めているもの。今さら、命名を取り消すことはできないわ。」



 イルシュエーレは指を滑らせて、実の視線をシャールルへと導いた。



「見て。シャールルはあなたに名づけてもらったことを、こんなに喜んでいるわ。聖獣になることを望んだのも、彼自身よ。」



「え…?」



 イルシュエーレの言葉に、実は固まる。

 そしてそれを肯定したのは、他でもないシャールル自身だった。



「いいんだよ、実。僕は、自分で望んでこうなったんだ。」

「でも、それじゃあシャールルは……」

「うん、分かってる。」



 実が言わんとすることを、シャールルはすでに察していたようだ。

 シャールルは実の肩に降りて、翼を震わせた。



「こうなっちゃったら、僕はもう、元いた場所にはいられない。聖獣として、この場を治める手伝いもしなきゃいけない。でも、それでいいんだ。無力なまま外に戻っても、僕は生き残れない。それなら自分が持って生まれたものを受け入れて、こうなった方がいいと思う。それに、嫌なことなんて一つもないんだよ。」



 シャールルの声は明るかった。



「ここは、とってもいい場所。みんな優しいし、居心地がいい。実が名前をくれて、イルシュエーレ様が認めてくれて、ここが本当の僕の居場所になった。それが、僕にとってどれだけ幸せなことか。ありがとう、実。実は、二つの意味で僕の恩人だね!」



 シャールルからの言葉に、何も言えなくなった。



 助けたのは、本当に気まぐれだった。



 たまたま目の前に小さなうさぎが飛び出してきたという偶然と、ふと湧いた幼い同情。

 助けた後の兎の運命なんて、考えたこともなかった。



 今シャールルを目の前にして、あの時の自分の行動の意味の大きさを思い知る。



 自分はあの小さな行為で、確かにシャールルの運命を変えた。

 そして今もまた、彼の運命を変えるきっかけを与えた。



 それで、シャールルは幸せだと言っている。



 一度は普通の輪から弾かれた存在が、新たな輪を見つけた。

 そして名前を授かることでその輪に入って、自分の居場所を得ることができたのだ。



「………っ」



 そう思うと、胸が温かくなってちょっと苦しくなる。



 シャールルは全てを受け入れて、幸せだと言えるようになった。

 自分の運命を呪わずに済んだ。



 それが―――無性に嬉しい。



 シャールルの境遇が自分と被って見えたからかもしれない。

 シャールルが幸せだと言えることが、まるで自分のことのように嬉しかったのだ。



「そっか……なら、よかったよ。」



 微笑んだ実は、シャールルの頭を優しくなでた。


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