第6章 涙

森を掻き分けて

「おい、待てって!」



 下草を掻き分けて進みながら、尚希は前を行く拓也に何度も呼びかけていた。

 拓也は固く口を引き結び、尚希の呼びかけを一切無視して黙々と森を掻き分けていく。



 さすがの実も、精霊相手に困っていると。

 そう拓也から聞いたのは、どのくらい前だっただろうか。



 今日になって突然拓也が〝もう我慢できない〟と言い出し、そこからはずっとこんな感じだ。



 反対されると思っているのか、何も言わずにこんな強行策に出ている。



 尚希はそれを追いかけるだけで精一杯だった。



「おい、拓也!!」

「………」



 拓也は相変わらず答えない。

 その頑なな態度に、尚希の中で何かがふつりと切れた。



「あのなぁ……少しは話を聞けって! ティル!!」



 引っかかる下草もどうでもよくなって、尚希はずんずんと拓也に向かって進む。



「オレに反対されると思ってるのは、よーく分かった。けどな、少しは考えろって。ここまで来たらオレも折れるしかないし、そもそも反対する気なら、とっくに力技に出てるだろ!?」



 怒鳴り口調で言うと、ようやく拓也が歩く速度を緩めた。

 そんな拓也に追いつき、尚希は思わず溜め息を漏らす。



「やっぱり、そういうことか。」

「………だって……」



 拓也がやっと口を開く。



「お前が反対しない方が変だろ? ここは、普通の場所じゃないんだから。」

「確かにな。」



 尚希は周囲を見回す。



 ここは普通じゃない。

 少なくとも、人間にとっては。



 聖域が人間にどんな作用を及ぼすのか、詳しくは知らない。



 〝知恵の園〟に来てから、脅し文句のように事実かも分からない噂を聞かされてきただけだ。



 実は何度も狂った人間を見たことがあると話していたが、自分にとってその真相は謎に包まれている。



 ここに迷い込んだ人間が、本当に聖域の力で狂ったのか。

 あるいは、いつまでも森から出られない不安と恐怖に、精神が限界を突き抜けたのか。



 それは、聖域に足を踏み入れた人間にしか分からないのだろう。



「まあ、ここまで来てしまったもんは仕方ないだろ。実が心配なのは、オレだって同じだからな。」



 尚希は肩をすくめた。



 そうは言ったものの、問題はいくつもある。

 尚希は、その問題の一つを問うた。



「拓也。お前、さっきからとにかく奥に進んでるけど、実がいる場所に見当でもついてるのか?」



「まさか。そんなわけないじゃん。」



 清々しいまでにキッパリと言い切る拓也。



「実のにおいを辿れたらよかったんだけど、それもほとんどなくてな…。だけど、ここに住んでた時の実は誰にも見つかってないって話だろ? なら、この森のかなり奥まった場所にいるんじゃないかと思う。あとはおれの勘で、とりあえず精霊の力が強い方に向かってる。」



「なるほど。」



 尚希は得心して頷いた。



 実と同じく精霊が見えて、なおかつ嗅覚も鋭い拓也には、森に満ちる土地ならではの魔力と精霊の魔力の区別がつくらしい。



 精霊が見えない自分には色々な魔力が混ざっているくらいにしか感じられないのだが、拓也には拓也なりの確信があるようだ。



「でもさ、拓也。」



 尚希は表情を曇らせると、静かに一番の問題を切り出した。



「別に、実を迎えに行くことに異論はない。だけどもし……実が自分の意志でここに残るって言ったら、お前はどうするんだ?」



 訊ねた瞬間、拓也が歩みを止めた。

 尚希は黙して答えを待つ。



 拓也から話を聞いた時から、ずっと疑問だったのだ。



 ―――もしかしたら実は、人間よりも精霊たちを選ぶかもしれないと。



 精霊たちと共に聖域にいれば、人間へのわずらわしさや恐怖を気にせずにいられるのだ。



 こう言っては拓也の反感を買いかねないが、ここで暮らすことは、人間の中で暮らすよりもずっと幸せなのではないかと思う。



 拓也はしばらく、無言で地面を睨んでいた。



「今は……分からない。」



 ぽつりと呟き、すぐさま拓也は顔を上げる。



「でも、実に会わないとそれも決められないから、やっぱり行かなきゃいけないよ。」



 どんな結論を出すにしろ、当の実がいないことには話が進まない。



 また歩みを進め始めた拓也を、尚希はもう止めなかった。

 しかし、その歩みはすぐに止まってしまう。



「拓也?」



 唐突に歩みを止めた拓也に、尚希は首を傾げる。

 次の瞬間―――



「………っ」



 なんの言葉もなく、拓也はその場にくずおれてしまった。



「ティル!?」



 尚希は慌てて、拓也の隣にしゃがみ込む。

 拓也は急激に浅くなった呼吸を噛み殺し、何かに耐えているようだった。



「大丈夫か!?」



 尚希は困惑と焦りを隠せなかった。

 目に見えて動揺する尚希に、拓也は喘ぐように返す。



「だい……じょうぶ…。急に、においがきつくなった、だけだから…っ」



 拓也は青い顔で口元を覆う。



 さっきまで何事もなかったはずなのに、急に森の力が変わった。

 これは明らかに、人に害を及ぼすものだ。



 身の周りに満ちる力の全てが、こちらに敵意を向けてくるような。

 ここから出ていけと、そんな声すら聞こえてきそうだ。



「大丈夫……だから……」



 そう言うそばから、視界がかすみかけてくる。



 狂ってたまるかと歯を食い縛る拓也の耳に、ふと尚希のものとは違う声が聞こえてきた。



「ねえ、人間がいるよ。」



 その声は小さくひそめられていたが、確実に拓也の耳朶じだを打った。


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