私の地震体験談

成瀬昭彦

阪神淡路大震災

1995年1月17日火曜日、成人の日と振替休日の2連休の休み明けの朝方、まだ日が明けず薄暗い時、突風が吹いたかのような轟音で目が覚めた・・・と思った次の瞬間、かなり大きな揺れを感じた。揺れは約10秒近く続いた、幸い箪笥や本棚等倒れることはなかった。揺れがおさまった後、テレビを付けたのだが、画面は真っ黒で、音声だけが流れていた。それだけでもかなり慌ただしい様子がわかった。・・・祖母が、

「水道から水が出ない」と・・・。

確かに、断水していたようだった。電気はついていたのだが。水道局に電話した・・・電話も繋がっていた。まだこの時はそれほど大事になっているとは思わなかった。とにかく、出勤しようと地下鉄駅へ・・・すると、かなりの混雑ぶりが・・・やはりいつもと違っていた。よく見ると、地下鉄全線が不通状態で復旧のめどは無いようだった・・・やはり大事になっていた。しばらく駅で様子を見ていたのだが、全く動く気配が無かった。

「今日は出勤できない」

そう思い、帰宅して会社に電話を入れた。

「あの!すみません!地下鉄が止まっていてとても出勤できそうに無いんで・・・」

専務が応対していた。

「あぁ!かなり大きな混乱が起きているみたいだよ!」

専務からそう言われたのだが!その後、工場長に替わったみたいだった。

「すまないが、時間かかってもいいから、是非出てきてくれないか!人手が足りないんだ!まだ近いから行けるだろう!」

そう言われたので、歩いて出勤する事に、歩いて行くと、45分はかかってしまった。

「おう!おはよう!よく来てくれた、悪かったな!」

工場長に言われて現場に行くと数人しか居なかった。当時、6台有った輪転機は、1台しか稼働出来なかった状態だった。そんな中、昼過ぎにも余震と思われる揺れが何回か有った。

夜7時頃には仕事を終えて、帰宅する時には。

「もう、地下鉄、動いているみたいだから」

工場長からそう言われて退社した。確かに、帰る時には、地下鉄は、何事も無かったかのように運行していた。帰宅後、テレビを見ると、特集として、どの番組も、ニュースばかりだった。神戸市内はかなり酷い状態がテレビを通じて、手に取るように感じた。今回の地震で家を失った人達は、どうしているんだろうかと、気になっていたら、かなり寒い中、焚き火を囲むように暖をとっていた光景がテレビ画面に流れていた。・・・それから2ヵ月後の日曜日に、神戸市内に行ってみた。.JRはもちろん、阪急や阪神等は、不通状態だった為、循環バスで神戸市内を回る事となった。バスから市街を見てみると、ゴーストタウンのようだった。かなりひどい状況が見てとれた・・・

1995年、この年の最大の出来事は、阪神淡路大震災だと思ったのだが、3月20日に、東京で、オウム心理教による地下鉄サリン事件が発生、いわゆるテロ事件がおきてしまった。そんな中でも神戸市内では、1日でも早い復興を目指していた。この年の年末には、神戸ルミナリエが初めて行われた。復興を願っての開催だったと思うのだが。

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