パレット荘の面々

葉島航

第1話 大家の赤坂さん

 必死に自転車をこぎ、小高い丘を越えると、パレット荘が見えた。元はクリーム色だったらしい壁は、最早灰色と言っても差し支えない。聞いていた通り、古びた小アパートである。トタン屋根が風で揺れていて、心もとない。

 白壁竜一は自転車を降り、ため息を一つついた。

 彼は今日からこの地区の担当となった、非常勤の郵便配達員である。慣れない道を、地図とにらめっこしながら走り回り、やっとのことで最後の配達場所へとたどり着いたのだ。昨日までに一通り場所を回っては見たが、元より方向感覚が優れている方ではない。田畑が多く見晴らしのよい地区とはいえ、初日の業務は骨が折れた。

 自転車の後部にあるボックスから封書を取り出し、パレット荘の正面に向かう。古びたアパートの中心がエントランスである。壁を四角くくりぬいたような入口に入ると、左手に郵便ポストが六つ並んでいる。

 部屋は五つある。入口の左手が一〇一号室、右手が一〇二号室、二階には二〇一号室から二〇三号室が並んでいる。一〇一号室は空き部屋らしく、「空」と書いた布テープが張り付けてあり、達筆な字で「チラシ入れないでください」と書き添えてある。

 ポストの一つは大家さんのものだ。大家さんはアパートに文字通り「併設」された家に住んでいる。どういうことかというと、大家さん宅はアパートの一〇二号室側にぴったりとくっついていて、要は壁を共用している状態なのだ。大家さん自身もきっと変わった人間に違いない。

 それぞれのポストに封書を入れ込み、さてさて仕事が終わったと白壁は伸びをする。この後は局へ顔を出して業務終了の報告をし、さっさと帰るだけでいい。

 エントランスの奥には、小さな裏庭が見える。その辺の公園にあるような、木のベンチが二つほど並べてあり、花壇には朝日に照らされたチューリップが揺れている。裏庭全体が白いフェンスで囲われていて、その周囲は田んぼになっている。

 この裏庭やエントランスの様子を見る限り、当初の印象とは打って変わって、ごみや汚れもなく住みやすそうな様子である。

 しばしその裏庭を眺めてから、白壁は局へ戻ろうと引き返す。

 その時、入口から一人の男性がぬっと顔を出した。

「おはようございます」

 男性は人懐っこい笑みを浮かべた。六十歳前後だろうか、白髪交じりの髪は七三の形に整えられ、セーターとスラックスという小ぎれいな身なりをしている。

「ど、どうも、今日から配達の担当になりました白壁です」

 しどろもどろになりながら、早口で言う。この男性はいつからいたのだろうか。しばらく裏庭を眺めていたので、不審に思われていないかと心配になる。

「それは。どうぞよろしくお願いします。大家の赤坂です」

 男性改め赤坂は、深々と礼をした。慌てて白壁も頭を下げる。よく見ると、赤坂はスコップを握っている。花壇の手入れにでも来たのだろう。

「素敵な庭ですね。見とれてしまいました」

「ありがとうございます。住人の憩いの場になればと思いまして、下手ながらこういう場所を作ってみたんですわ」

 赤坂は裏庭へ歩き出ていく。白壁もなんとなくそれに従った。

「園芸も初心者なのですが、チューリップは球根だからやりやすいと聞いて、試してみました。最近咲いてくれて、ちょっとばかりうれしい思いです」

 そう言う赤坂は、なんとも純朴な瞳で花壇を眺めている。悪い人ではなさそうだ。

「いやいや、お引止めしてすみません。まだ配達がありますでしょうに」

「いえ、実をいうと、今日はこれで上がりなんです。ですから、お気になさらず」

 恐縮しきっていた赤坂は、ほっとした様子だった。いや、すみませんな、などと言いながら、白壁の肩をポンポンと叩く。

「では、またお時間のある時にはお茶でも飲みにいらしてください。ここのみんなは、個性的というか、面白いやつらがそろっておりますので」

 一時代前のような柔らかい物腰に、白壁は好感を抱いた。知り合いのいない土地で、自分は一人だ。ここはぜひとも距離を縮めておきたい。

「ぜひお願いします。また今後ともお世話になります」

「若いのにしっかりしてますな」

 白壁は自転車に乗り、パレット荘を後にした。エントランスでは、笑みを浮かべた赤坂が手を振っている。

 久々に清々しい気分だった。自転車は快調に坂を下る。

 財布をなくしたことに気づいたのは、自宅についてからだった。


 財布には運転免許証も、クレジットカードも、銀行のカードもすべて入っている。

 白壁は冷や汗をかきながら、今朝通った道を自転車でたどった。

 最寄りの交番に問い合わせてみたが、今のところ遺失物としての届けはないそうだ。カードのことは電話一本でどうにかなるが、免許証の類は最悪の場合、役所へ出向いて再発行の手続きをしなければならない。

 役所へ行くのはもうこりごりだった。転入の手続きをしたときも、長時間待たされた上に書類の行き違いが発覚し、挙句の果てに翌日来てくれと言われた。土地柄なのか、流れている時間がゆっくりで、こちらをやきもきさせる。

 太陽が少しずつ西に傾き始めた。白壁は昼飯も食べず、財布がどこかに落ちていないかと目を皿にして探す。しかし成果は得られず、残すはパレット荘への道のりのみとなった。

 立ちこぎをしながら丘を登っていくと、赤坂がアパート周りを竹ぼうきで掃除していた。自転車を脇に止め、近づいて声をかける。

「こんにちは。今朝はお世話になりました」

「これはどうも。白壁さんだったかな。どうなさいましたか」

 白壁は苦笑いしながら、財布をなくしてしまったことと、よければ周辺を探させてほしい旨を伝えた。すると赤坂は手を打った。

「いやいや実は、昼頃にその辺で財布を拾いましてね。そうかそうか、白壁さんの財布だったか」

 待っていてくれと言い、自宅へ駆け込んだかと思うと、すぐに戻ってくる。その手には黒革の財布が握られていた。白壁のものだ。

「今日はいくつか来客やら人の行き来があったものですから、どの人のものか分からず、手元に置いておいたんですよ。すぐに交番に届ければよいものを、すみませんね」

「いやいや、こうして見つけてくださって、ありがたいです」

 白壁は恐縮しきりで、財布を受け取る。カード類がそろっているか確認したいが、それでは赤坂を疑っているようで申し訳ない。そのままズボンの後ろポケットへしまおうとする。

「どうぞ中身もご覧になってください。気にしませんから」

 赤坂は察したように言う。年の功だろうか、相手の思考を読み取ることに慣れているようだ。白壁はその言葉に甘え、財布の中をあらためる。カード類、証明書類、現金も、落とす前と全く変わりはなかった。

「大丈夫なようです。本当にありがとうございます」

 赤坂は、それはよかったと破顔した。

 そのまま誘われるままに、赤坂の家でお茶をいただくことになる。通されたリビングには昔ながらのちゃぶ台があり、そこにポットと急須が並べてあった。座布団がいくつか出され、その脇には新聞がきれいにたたまれている。少し古めかしい雰囲気ではあるが、全体的に小ざっぱりとした部屋だ。

 赤坂は一度奥の部屋に引っ込んだかと思うと、湯飲みを二つ出してきた。ちゃぶ台に並んで胡坐をかき、茶をすする。お茶の葉は、市販のものを赤坂が自らブレンドしているそうで、緑茶らしい苦みの中に、ほうじ茶のようなコクがあった。

 赤坂はどうやら白壁の経歴に興味があるようで、あれやこれやと質問をしてきた。別段面白みのある人生を歩んできたわけではないが、自分のこれまでを語ることに悪い気はしない。

 農家に生まれて家の手伝いをしながら育ったが、一念発起して東京の大学で経済学を学んだこと。その後東京の大手企業に就職したが、シビアな勤務形態と人間関係に疲れ退職したこと。親や兄弟と仲が悪いわけではないが、実家に戻るのではなくこの新たな場所で生活を立て直そうとしていること。問われるがままに、いささか話し過ぎてしまった。

 どうやら、赤坂は並外れた聞き上手らしい。おっとりした口調やうなずき、話のもっていき方、それらの加減が絶妙で、こちらをどんどん語らせてしまう。

「ご実家を継ごうとは思わなかったのですね」

「今は兄夫婦が実家におりますし、両親もまだ元気なものですから、僕はまあ自由にさせてもらっています」

「なるほどなるほど。でも、昔は畑を手伝ってみえた」

「ええ。父に言われるままやっていたわけですから、自分で畑をやるような力量はありません。でも、朝は4時起きで手伝っていましたね。自分はこれだけのことをやっているという自負もあったのですが、周りの同級生もみな同じようなものでしたから、誰にも自慢はできませんでした」

 赤坂は子どものように目を輝かせた。

「そうしたら、たとえば園芸にもお詳しいのでは」

「いや、どうでしょう。土いじりには慣れていますが、鑑賞用の花なんかは経験がないもので」

 赤坂は、裏庭の小さな花壇を手伝ってほしいのだと手を合わせた。たしかに、朝も、自分は初心者だと言っていた。大きな花壇ではないし、どうせ毎日のように配達に通うのだ。白壁は、やってもよいという気分になっていた。

 どこまで力になれるか分かりませんが、と白壁が口にすると、赤坂は手を取って喜んだ。これほど直接的に感謝されると、ついつい頬も緩んでしまう。

 この日から、白壁は花壇の面倒を見るようになった。

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