第12話 〜コラム〜麻那姫湖の龍伝説

努力しないと幸せになれない。自分には価値が無い。

世間の風は冷たい。

どうしても、『何かしないと』

今を否定するところから始めてしまいます。

極端に傾くと、リセットされて地震や津波や戦争につながる事も。


『今のままでいい』と肯定から始まる時代。

他者を否定するという事は、自分自身を否定する事。

龍が創った鏡の世界は、自分自身の内面を映すために、優しく、時には厳しく導いてくれます。


今回は、コラムという事で、麻那姫湖の龍伝説についてお話していきたいと思います。


【福井県大野市の麻那姫湖の龍伝説】


この地に大干ばつが起こり、人々が飢えで苦しんでいた時、十文字という長者が女神から、


『怒り狂う龍を鎮めて雨を降らせたければ娘を差し出しなさい』


とお告げを受けた。


十文字は娘を差し出す事はできなかったが、娘である麻那姫自らが身投げをして、干ばつをおさめたという伝説がある。


現代では考えられない『生け贄』という儀式


しかしこの儀式は、地震や自然災害との関係は切り離せず、現代においては、凶悪犯罪という形で表面化する事もある。


『ただいま』『いってきます』『おかえりなさい』

普段、当たり前にあると思っている日常。

突然、その家族が失踪して、人間の食卓に並んでいたとしたら。


『いただきます』の言葉だけで感謝というのも、人間の勝手な都合だよね...

食肉となる動物たちの会話からは、こんな会話が聞こえてくる。


人間は、生きているだけで罪を重ね続ける。


生け贄の儀式に自ら身を捧げる人がいるのも、贖罪の意識が根底にあるからなのだろう。


重ねた罪の分だけ反対に、自分より小さき存在に、赦ゆるされているとも言える。


ヴィーガンならいいというものでもなく、

車で移動すれば、排気を出し、森林伐採して建物を建てて、遺伝子を組み替えて

命を操作している。

病院で出る薬も動物実験の上に成り立っている。

合成洗剤なども川に流して、大量虐殺もしている。


すべてはバランス調整。

地震も津波も、自然からかけ離れた文明社会のリセットの一面がある。


人間が一番だという思い込みは、頭部さえあればあとはどうなってもいいと言っているのと一緒。


~過越の祭り~


自分の家のこどもが亡くなる事から助けたければ、羊を殺めて食べなさいという

『過越の祭り』という儀式がある。

そして、その最後にはキリスト自らが生け贄の子羊となり、その身を差し出す事になる。


誰かが亡くなるから、自分が生きている。


そして、自分も死ぬことで、その循環、輪、〇に入る。


すべてはそのように、密接に関連している。

食べるものがいるという事は、食べられるものがいる。


自己否定から来る不足感。

まだ足りない、何かを得ないと、何かされるという不安感。


『自分が満たされている』『そのままでいい』


ただただ、それだけでいいものを、不足感から、自分よりも弱いものを犠牲にし、そこから何かを得ようとする。


人と比較して優越感を得ようとする。

そして、自分も誰かの犠牲になる事を厭わない。


悪魔支配の根本とは、

『自己否定から来る不足感』

不足感が募り、自分への信頼ではなく、他への渇望、お金や地位、物欲や他者批判にエネルギーを注ぐコトなのかもしれない。


そろそろ、自分を認め、他人を認め、すべてを認めてもいいのではないでしょうか。

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