第15話 彼女の話②

「優香、悪いけど別れてほしい」



隼くんと車で話した日から数ヶ月経ったとき。

普段通り仕事を終えて帰ってきた途端、春馬にそう切り出された。



「なにそれ。今更そんな冗談言わないでよ」



私は春馬の言葉を信じておらず、軽く受け流しながらシャワーを浴びようと寝室に向かった。



「本気だよ優香。もうお前と過ごすことはできない」



背後からそう声をかけてくる春馬。


私は寝室を見て、春馬の言葉はどうやら嘘じゃなかったらしいことを悟った。



「……何これ。なんで私の物が何もないの?」



私の洋服や化粧品などは全てキャリーケースや大きな鞄に詰め込まれていた。



「出ていけよ。俺はもう、お前と生活ができないから」


「ちょっ……なんなの?急に。私にいきなり出て行けっていうの!?」


「ここの家賃は俺が払ってただろ。それにお前は近くに実家があるじゃん。まだ25歳だし、親だって迎え入れてくれるでしょ」


「いきなりは流石に無理でしょ。……ていうか、何で急にこんなことになってんの?意味分かんないんだけど」


「俺はもう、優香と結婚する未来が見えないんだよ。あとお前に対する気持ちも、もうない」


「なんなのよそれ………」



私はショックとか悲しみよりも、何が起こっているのかが分からなくて頭の中が混乱していた。


春馬の悪質な冗談であって欲しいと思いつつも、目の前の私の私物や春馬の表情を見るに、春馬の言葉は本気だということが伝わってくる。


だけどそれを、受け入れる準備なんてできてるはずもなく………



「お願いだから春馬、何があったのかちゃんと話して。何で私と結婚したくなくなったのか、理由はあるはずでしょ?ちゃんと聞きたいから、ちゃんと話してよ」



とりあえず、春馬から話を聞きたい。


私はその一心で春馬をテーブルの椅子に座らせて、向かい合って話すことにした。







「お前さ、俺の学校に行っただろ?」



座るなり、春馬が開口一番にそう尋ねてきた。



「うん。………行ったよ」



「なんでそんなことすんの?まずそれがあり得ないし」


「だってそれは……春馬が困ってるのに、毎日春馬に連絡する生徒がいたからだよ。その子に分かってもらおうと思って直接話に行っただけじゃない」


「それはお前がやることじゃないだろ!?勝手にしゃしゃり出てくんなよ」


「だって私が行かなきゃ、春馬は絶対に本人には言えないじゃない。」


「そもそも俺は困ってないんだよ。相談してくれって俺の方からそいつに話したって言ったよな?勝手なことすんなよな…」




春馬は大きくため息をついて頭を抱える。


私の行動が100%間違いで、春馬は被害者のような口振りだ。



私だって、春馬のことを心配してやったことなのに…………



「なんで分かってくれないの……?」



春馬との喧嘩は何度もあった。


私も春馬も、お互いに自分の意見をぶつけるタイプだから。


だけど今回のことは、私からは謝りたくない。


相手のことを思ってやった行動を否定されるのが、こんなに悔しくて苦しいことだとは思わなかった。


その上私に出ていけとか言うオチ。



あり得ない…




「もう俺はお前のことがわからないし、分かろうとも思えない。とにかくここの家にはもうお前の居場所はないから」



私が泣いてるのに春馬はそれを心配する様子もなく冷たくそう言い放つ。



「居場所って何よ……新しい女でも連れ込む予定なの?」


私はショックと悔しさで、春馬に限ってそんなことはありえないとは思いながらもつい聞いてしまう。


否定して欲しかった。


それなのに……



「まあ、そんな感じ。そいつが来たときにお前がいたら困るだろ?」



春馬は一つも表情を動かさずに私を見下して言う。




「なんなのほんとに……私が何をしたって言うのよ…」



すすり泣く私と、それを無表情で見つめる春馬。


昨日まで普通に話してたのに、どうしてたった1日でこうなってしまったの………




「ちょっと電話してくるわ。お前はその間にさっさと出ていけよな」



春馬は聞いたこともないくらい冷たい声で泣き続ける私にそう言い残し、スマホを持って廊下に出た。




……新しくこの家にくるという女かな…



そもそも、春馬が浮気なんて信じられない…



確かに春馬はモテるし女子生徒からも人気だってことは知ってたよ。


だけど、常に正義感が強くて他人を傷つけることだけは絶対にしたがらない誠実な人だったのに……



一体、誰が私と春馬の間に割って入ったと言うの……




私はもう、この際春馬に嫌われてもいいと思った。


その代わり、本当の事だけが知りたかった。



春馬を誰が変えてしまったのか。


私への気持ちも、誰が奪っていったのか。



私は今まで、春馬が電話のために廊下に出た時は絶対に出てくるなと言われていた。


それをちゃんと守ってたけど、今はもうそんなことはどうでもいい。



本当の事が、知りたいだけ………





私はゆっくりとドアを開け、廊下に立つ春馬の後ろ姿を見た。




「………クソッ!なんで出ないんだよ…っ!」



春馬はそう言いながら何度も何度も同じ相手に電話をかけていた。



その度に春馬の耳元から響く電子音は、相手が春馬の電話に出ないことを示していた。





「くそっ………今日あれだけ話したのに…!くそ!出ろよっ!!」



なかなか出ない相手にイライラしてスマホを強く握りしめ、何度もかけ直す春馬は、私が近づいていたことに気づいていない。



「誰にそんなに電話してるの」



私は春馬の真後ろから耳元でそう声かけた。



「うわっ!!お前……廊下には来んなって言っただろ!!」



春馬は驚きながら私を睨みつけた。



だけどその一瞬で、私は春馬のスマホに表示されている相手の名前を見た……。




「出て行けって言われたから出ていこうとしただけよ。春馬、そんな趣味があったんだね。」



私の言葉に驚いた春馬は一瞬目を大きく見開いて、咄嗟にスマホの画面を隠していた。


だけど私は春馬の持つスマホに写る事実に、色んなものがサーッと引いていく感覚がしていた。



「もういいよ今更。……あの子にそんなに肩入れしてたのは、やっぱりそういう感情があったからなんだね」



私は何故か驚くくらい冷静だった。



「そういう感情ってなんだよ……俺はただ、あいつが心配だから……」


「心配だからって出ない相手に何回も電話かけるの?それこそ迷惑でしょ」


「……うるさいっ!お前なんかに俺と隼の何がわかるんだよ!」


「なーんにも分からないね。ただの先生と生徒でしょ。」


「違うっ!!!」



そう叫んだ春馬は今までにないくらい鋭い目で私を睨みつけてきた。



こんなに叫んだのは、見たことがない。


ここまで必死なのも怒ってるのも初めて見る。



だけどやっぱり私は冷静で、そんな春馬をただ不思議に思うだけだった。



「………まあ、どうでもいいけど。私、あんたがそんな人だとは思わなかった」


「うるさい……何も知らないくせに適当なこと言うな」


「適当なことじゃないよ。私の気持ちを言ってるだけだもの。……春馬はもっと、現実が見えている人だと思ってた。私との結婚を引き延ばしたのも、現実的な考えがあってのことだと思ってた。……だけど、違ったんだね」


「俺が現実を見てないとでも言いたいのか?」


「そうだよ。だってそうじゃない。あなたは先生で隼くんは生徒。……それ以外に……何があるって言うの?」



私の冷静な声と冷めた眼差しに、春馬は言葉を詰まらせた。



春馬が持つスマホの画面には、隼くんとのLI○Nのトーク画面が写っていた。


そこに写るのはスクロールしても足りないくらいの春馬からの着信履歴。


相手からの既読すらついていない。




春馬の顔に目線を戻すと、春馬は目を真っ赤にして泣きながら肩で息をしてフーフー言っていた。



「………可哀想。あなたにとって隼くんが唯一無二の存在でも、彼にとってはそうじゃなかったみたいね。」



私はそれだけ言い残して、春馬を押しのけて寝室に私物を取りに行った。




春馬は何も言わずに、ただ自分のスマホを睨みつけて泣いているだけ。




私は再び廊下に立つ春馬を押しのけて玄関へと向かう。




「さようなら春馬。元気でね」




振り向くこともなくそう告げて、私は玄関のドアを開けようとドアノブに手をかける。



するとその瞬間、後ろから何か呟く春馬の声が聞こえた気がした。




「なに……?」



振り向いた途端、春馬はキッチンから包丁を取り出しているのが目に入った。



(……やばい!!殺される!)



私は急いでドアを開け、すぐに逃げようとした。



だけど手が震えていて、うまく鍵を回せない。


やっと鍵を開けた思ったら今度はキャリーケースのタイヤが私のロングスカートに引っかかり、すぐに外には出られない。



「……やめてっ!!!」



私に向かって包丁を振り上げる春馬に声を上げ、目を瞑った。


もう、逃げられないと思った。








だけど………




「……隼?………」






ほんの数cm開いたドアの向こうに、春馬が手を止め声を出す。





私は春馬の狂気的な気配が消えたのを察知し、目を開けて春馬の視線の先を見る。




そこには、玄関先に立っている隼くんの姿があった。




「隼……?なんでお前……」



春馬は私を押しのけてドアの外にいる隼くんのところに行こうとした。



だけどその右手には、まだ包丁が握られているのを見た。



「隼くん逃げて!!」



私は叫んで咄嗟に春馬を背中から抱きしめた。



「何すんだよお前っ!」


「隼くん早く逃げて!危ないよ!」



後ろから邪魔をする私に苛ついたように抵抗する春馬。


包丁を持つ右手が、私の腕に当たる。



「……っ!!!」



シュッ!という音がした途端、私の腕から血がバッと溢れ出した。



突然の痛みに顔をしかめたが、それでも私は春馬から体を話さなかった。


そのいざこざの間に、扉は閉まっていた。



「あ……っ…っ……助けて!助けてください!」



ドアの外にいる隼くんが隣の部屋のドアをドンドン叩いて叫ぶ声が聞こえる。



「なんだ!どうした!?」



「中で!人に包丁が……!」



すぐに出てきた隣人の男性が、混乱している隼くんの言葉を聞いてうちのドアを開けた。



「おい!何してる!!」



春馬は私に馬乗りになり、私の首元に包丁を突き付けていた。


それを見た男性が、一瞬のうちに春馬を力ずくで私から引き剥がした。



「何してるんだお前!」



その男性が春馬を抑えつけ、春馬の手から包丁を奪おうとする。



それでも春馬は何も言わずに包丁を握りしめ続ける。



私は咄嗟に春馬の手を踏みつけ、一瞬力が緩んだ隙に春馬の手から包丁を奪った。



「警察を呼べ!早く!!」


春馬を押さえつけてる男性が私に向かってそう叫んだ。


春馬は何も言わずに抵抗してるが、その男性はかなり大柄で、春馬の抵抗にもビクともしない。



私は包丁を持ったままそこに落ちてた春馬のスマホで警察に連絡した。



玄関の外には既に複数の人が集まってる声がした。



隼くんは、その大人たちと一緒にいるから大丈夫かな……






そうしているうちに、すぐに警察が来た。



玄関の前の野次馬の中に隼くんがいた。



彼や隣人は警察から話を聞かれていた。


警察が到着した瞬間も暴れていた春馬は、

別の警察官に取り押さえられて連れて行かれた。



そして私は、腕の手当てをするために病院へ運ばれた。










こうして私と春馬の、長い長い1日が過ぎた。

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