1面、降版します【単行本発売中】

松井蒼馬

1版 プロローグ・大誤報

 〈おわび〉十九日付朝刊一面の記事と見出しで、「大日本キャリア次期社長に小和田充氏」と報じたのは誤りでした。おわびして訂正します。


 不死原桃果ふじわら・もかは、奥歯を噛み締めた。眉間に皺を寄せて、机上の記者端末の原稿を睨みつけていた。


「訂正原稿じゃダメだ。おわび原稿をお前が書いて俺に送れ」


 担当デスクは烈火の如く怒り、フロア全体に響き渡る怒声で桃果を面罵めんばした。それが桃果の大誤報がもたらした衝撃の凄まじさを物語っていた。


 桃果は、つい数時間前まで英雄だった。一面トップ記事の特ダネを抜いた一年目記者として、この毎朝まいあさ経済新聞社内でスターダムにのしあがった。なのに──。

 スターへの階段は脆くも崩れ去った。


 屈辱。怒り。悲哀。

 さまざまな感情が胸に湧き上がっては、ぶつけようのない感情に変質していく。


「ざけんなよ、マジで」


 そう言葉を吐いた桃果の脳裏には東前公弘ひがしまえ・きみひろのカエル顔が浮かんでいた。桃果が担当していた人材業界の雄、大日本キャリアの社長である。

 たるんだ頬の肉。ギョロリとした目。薄くなった頭皮。でっぷりと脂肪を蓄えた腹は、哺乳類というよりも両生類の方が近いように思えた。カエルそのものだ。


「明日の朝刊を楽しみにしているよ」


 桃果が当てた社長人事ネタに東前は笑みでそう返した。ネタが間違っていたら、キッパリ「違う」と言う男がコクリと頷いた。


 ──自分のネタは正しい。


 桃果はそう解釈した。


「書きますね!」


 だから仁義も切った。だが──。

 今朝六時。特ダネを報じた高揚感で一睡もできなかった桃果をけたたましい電子音が叩き起こした。

 大日本キャリアの広報部長からの着信だった。


「不死原さん、今朝の記事なんですけどね……あれ誤報ですよ」


 その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。

 体は硬直し、思考は空転した。心臓が何度か大きく跳ねて、ようやく桃果は息を吹き返す。


「そんなはずありません!東前社長がお認めになりました!」


 自分でも驚くほどに桃果の声は震えていた。


「いや、私もそう思ってですね、実は東前にも先ほど確認したのですが。その……本人は『そんなことは一切言っていない』と否定しておりまして」


「そんな……」


 それ以上、言葉が続かなかった。


 ──信頼関係を築けていると思っていた。それに絶対にあれはイエスだった。


「はっ……」


 その瞬間、息が漏れる。全身がわなないていた。その段になって初めて気付いた。


 ──自分はめられたのだ。きっと、あのことが原因で。


 翌日の毎朝経済新聞朝刊。前日の一面トップ記事の大誤報のおわび記事は、三面左下の片隅にひっそりと掲載された。まるで誤報という恥部を隠すかのように。


「不死原、お前を人材担当から外すことになったから」


 後日、桃果を自席に呼び出した堂本烈任どうもと・たけと企業部長はそう告げた。机上の青ファイルに視線を向けたまま、桃果よりも事務仕事を優先していた。感情のこもっていない声で淡々と続ける。


「あと、そうそう。お前、四月から整理部に行ってもらうから」


 自席のかたわらで直立させたままの桃果を一度も見ずに言った。


 パタン──。堂本が青ファイルを両手で勢い良く閉じた。

 その音は、自らの記者人生が閉じた音に、桃果には聞こえた。

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