06.サラダ
ガートルードは、朝食後、テラスに面したガラス戸越しの陽光を受けつつ、ゆったりと一人用のソファーに腰かけていた。いや、そうさせられていた。念のため、ショールを腹部にかけられている。
侯爵夫人付きの侍女としてきたターラに、洗濯や清掃の作業を奪われてしまったのだ。確かに昨日は身体を動かすのが
そのため、ターラがきてくれたことはとても助かる。しかし、回復してからも洗濯や掃除ができなくなるのは、少しばかり残念だ。身体を動かすことが好きだし、綺麗になる様を見るのは気分が爽快になる。ガートルードは、洗濯や掃除の作業を気に入っていたのだ。
残念がるガートルードを、面白いお嬢さんだとターラは笑った。ガートルードのしたがることを否定して叱ることはなく、自分の役割だからと説き伏せられた。彼女の対応に、ガートルードは嬉しくなる。
アマースト侯爵家の者は、みな良い人ばかりだ。アシュリーをはじめとして、使用人たちもガートルードの話を聞いたうえで判断してくれる。これまで令嬢たれと暗黙の空気のなかで過ごしてきたガートルードには、とても息がしやすい。
ガートルードの性質を理解してくれる友人も数人いる。しかし、これまでは環境が変わる訳ではなかった。現在の恵まれた環境に、自身で行動してよかったと思う。
アシュリー様に感謝しないと。
ガートルードが行動できたのは、アシュリーに出会ったからだ。彼本人が覚えていないであろう出会った頃に想いを馳せようとしかけて、彼女は昼食を準備する時間が近付いていることに気付く。
ターラにも許可をもらって厨房に向かうと、料理長に任されたのはサラダ作りだった。どうやら体調に配慮してくれたらしい。
「サラダは簡単だからこそ、盛り付ける者のセンスがでます。見栄えを意識するのも料理のうちですぞ」
「はいっ」
作業自体が単純だからといって軽視してはいけないと料理長に釘を刺され、ガートルードは心得た旨を伝え首肯する。
食べるときに崩れるとはいえ、美味しそうに見えるようにと願いながらガートルードは盛り付けてゆく。一品だけとはいえ、アシュリーが食べるものを用意できるのは嬉しい。
そんな彼女を料理長は微笑ましく眺める。ガートルードはいつも真面目に料理に取り組む。どんな料理でも、食べてもらう人のことを想い取り組む彼女は、料理に必要な姿勢をきちんと持っていた。
ドレッシングを混ぜる段階となったとき、ターラがガートルードの様子を見に、執事のカルヴィンが食材の在庫状況を確認に厨房に訪れた。
「ふふふ、花嫁修行をする奥様を持てて坊っちゃんは幸せ者ですね」
「私がしたくてしてるだけなので、花嫁修行という訳では……」
調理場に立つ自分を見て嬉しそうにするターラに、ガートルードは苦笑する。平民のターラには、家事を学ぼうとするのは花嫁修行に
「あら、好きな人の手料理を食べられるなんて殿方なら喜ぶに決まっていますわ」
「アシュリー様にそう思ってもらえたら、嬉しいですね」
ガートルードがそう言って微笑むので、勘づいたターラがカルヴィンに耳打ちで密やかに侯爵夫婦の状況を訊いた。訊かれたカルヴィンは、まだ書面上の関係であることを密やかに伝える。
ターラは、朝の様子から親しい間柄かと思っていたが、発展途上の関係と知る。女性嫌いだった主人がそう簡単に変わるものではないか、と妙に納得してしまった。
こんなに可愛らしいのに、とターラはもったいなく感じる。聞けば、アシュリーはいまだ妻の手料理を食べていると知らないらしい。
オムレツを練習していた当初は、腕前の問題からガートルードから上手くなるまで言わないでほしいと頼まれた。それ以降は、本人から聞いた方がいいだろうとカルヴィンは配慮し、ガートルード本人は一度いい忘れてからは、いわずともアシュリーが食べている様子を見られるだけで満足してしまっている。
「やっぱり坊っちゃんに教えてあげた方がいいんじゃないの?」
「いや、しかし……」
ひそひそとターラにせっつかれるが、カルヴィンは勝手に知らせてよいものか迷う。そんな彼の心境を知らず、ガートルードは楽しそうにボウルの中の調味料を混ぜてドレッシング作りに勤しんでいた。
「ルード様は、どうしてアシュリー様を慕われているんですか?」
彼女を見ていて不思議になった。なぜ主人を想ってくれているのかを。
ガートルードは利害の一致は二の次で、婚姻を申し出た。だから、カルヴィンも、彼女のアシュリーへの好意自体は疑っていない。ただあまりにもまっすぐで。その想いが芽生えた原因が解らない。なんせ自分の主人は女性、特に貴族令嬢が苦手だ。社交場でのあの態度の悪さは女性受けしない。
カルヴィンがその疑問を呈したとき、ちょうどアシュリーが厨房を通りかかるところだった。自身の話題に、アシュリーは足を止める。このまま通りすぎて、話を中断させてよいものか。
「前もいった通り、一目惚れですよ」
にこり、とガートルードは微笑み、アシュリーの知らない初対面をカルヴィンたちに教えた。
ガートルードが初めてアシュリーに出会ったのは、彼女のデビュタントのときだ。
娘のデビュタントとあって、両親は新しいオーダーメイドのドレスを用意してくれた。年頃に合わせ可憐に見えるようにとサーモンピンクのドレスと同じ色のヒールは、ガートルードに似合っていたが、本人にはいつもよりヒールが高く歩きづらいという感想だけだった。
姉のお下がりでもなく、妹に譲ることが前提でもない、自分のためのドレス。本来は喜ぶべきなのだろう。両親の思いやりは嬉しい。しかし、ドレスに胸を躍らせることができず、それが両親に申し訳なかった。
他のデビュタントしたての令嬢より落ち着いた心持ちで、ガートルードはその日のパーティーに参加していた。
ヒールが高く歩きづらかったので、最低限の挨拶を済ませたガートルードは壁の花になろうと、慎重にホールの端へと足を運ぶ。そのとき、談笑していた貴族たちの一人が飲み終わったグラスを給仕へ渡そうとし、その腕がガートルードの背中に軽く当たった。
普段ならばそんな軽い衝撃でガートルードはよろつかない。だが、このときは運悪くヒールが高かったためにガートルードは転けてしまい、床に伏してしまった。
誰が悪いでもない突然のことに、彼女の周囲は一瞬沈黙する。
衝撃こそあったが特に怪我もしていないガートルードは、床に手をついて、半身を起こす。
顔をあげた正面に、硬質な黒髪の男性がいた。思わず見上げた彼が、アシュリーだった。
煩わしそうに目の前の男性の眉間に皺がよるのをガートルードは見つめる。
『足でも
すぐに立ち上がらないガートルードに状況確認の問いが投げかけられる。
『いえ……』
ヒールの高さにバランスを崩しただけで、ヒールも折れておらず、足首も
『なら、自分の足で立ち上がるんだな』
大丈夫かと屈んで手を貸すでもなく、立って見下ろしたまま告げられる。令嬢に対してあまりにも紳士的ではないアシュリーの態度に、周囲は唖然とした。そのパーティーの一件は、アシュリーの女性嫌いを裏付ける出来事のひとつだ。
そこまで話を聞いたカルヴィンも、主人のやらかしに同様の反応を見せる。そして、主人ならば言いそうだとも思ってしまった。通りすがることができず、立ち聞きしてしまっている状態のアシュリー自身も、言った気がするとぼんやり感じた。
アシュリーは国一番の剣の使い手と謳われており、男性に守ってもらいたいという願望のある令嬢に言い寄られることがある。ガートルードが十五歳となりデビュタントを迎えた頃は、そういった令嬢にやれ足を挫いただ、酒を飲みすぎただ、と介抱をねだるアプローチに遭っていた。そのため、彼女もその類いだと見なされてしまったのだ。
「そう言われて、とても嬉しかったんです」
「どこがどうしてそうなったんです!?」
一体そのやり取りのどこに惚れる要素があったのか、カルヴィンには皆目見当がつかない。しかし、ガートルードは言葉通り、嬉しさに頬を染めている。
否と答えてすぐ、ガートルードは立ち上がった。それを確認して、アシュリーは
カルヴィンには、どう聞いても最悪の出会いであり、彼女が感激する箇所はなかった。ターラも、坊ちゃんは駄目ねぇ、と頬に手を当てて嘆息している。料理長のジェフだけは、好々爺とした笑みを崩さず話を聞いていた。
「自分でしていい、と言われたのは初めてでしたから」
幼い頃、令嬢の枠から外れることはしてはいけないと周囲に言われて育った。自分でできることでも、使用人に手伝ってもらい、男性に頼る。ガートルードにとって令嬢とは、そんな型枠だった。
アシュリーの言葉を受け、自分の足で立ってよいのだ、とガートルードは気付き、感激した。彼女には、
「それに、アシュリー様は、怪我をしていないか聞いて、私が立ち上がるまで待ってくださいました。優しい方です」
当時のアシュリーの対応が非情ではなく、優しさのあるものだったとガートルードは微笑む。不器用なところはあるが主人が良い人間だと自分も解っている。しかし、それに気付ける者がその場にどれだけいただろう、とカルヴィンは感じた。
「
だからアシュリーの状況を調べ、人となりを知り、一年後に見合いの対象に含まれたのは幸運だったと、ガートルードはいう。それで、この機を逃してはならないと、単身でアマースト邸に乗り込んだのだ。
いつか主人の良いところに気付いてくれる女性が現れたらいいと祈っていたカルヴィンだが、ガートルードの
「ルード様はいい女ですな」
「本当に。坊ちゃんにはもったいないぐらいねぇ」
料理長はガートルードへ最上級の称賛を贈り、ターラはアシュリーにダメ出しをした。だが、二人ともとても嬉しげに目を細めている。二人は、長年見守ってきた主人によい伴侶ができたことを、しみじみと喜んだ。
褒められたガートルードは、照れてはにかむ。
「ありがとうございます。アシュリー様にも、そう思ってもらえるよう、頑張ります」
まずは目の前のことを、とガートルードは出来上がったドレッシングの味見を、料理長に乞う。そうして、塩加減などに問題がないと、料理長のお墨付きをもらった。
そんな場に割って入ることができなくなったアシュリーは、仕事の順序を変更し、執務室へ戻るべく踵を返した。その顔は耳まで赤かった。
彼女の本気がそこまでとは思っていなかった。
それに尽きる。これまでも好意があけすけであったが、犬などの従順な動物に懐かれているようなものだと思っていた。ガートルードの本心は、女性から本当の恋愛感情を向けられたことのなかったアシュリーを動揺させるには充分だった。
次に会ったときにどんな顔をすればいいのか、アシュリーは解らなかった。
しかし、無情にもガートルードと顔を合わせる昼食の時間はすぐそこまで迫っていた。
自分がくるまで待つと解っているので、遅れることもできず、アシュリーは食堂へやってきた。
しかし、いつもと違い、ガートルードは食卓の席ではなく、入口で彼を待っていた。
「あの、アシュリー様」
「なっなんだ……!?」
思わず動揺して、アシュリーは半歩後ずさる。声をかけた用件を問われ、ガートルードは躊躇いがちに申し出た。
「その……、もう元気なので、これはできればのことで、嫌であれば断っていただいて構わないのですが」
「だから、なんだ」
「食事の席を近くしたいのですが、よろしいですか?」
歯切れが悪いので、アシュリーが問いを重ねると、ガートルードは恥ずかしそうにささやかなお願いをした。
朝食のとき、長い食卓机の向こう岸にいるアシュリーを見て、昨日はあんなに近くで顔が見れたのに、とガートルードは寂しく感じた。昨日甘えを許されて、少しばかり欲がでた。彼の表情が判る距離で食事をしたい、と。
乞われたアシュリーの方は、大したことのないことと理解していながら即座に許可をだせずにいた。どんな顔をしていいか解らない状況で、表情が見える位置にガートルードがいるのは困る。あと、いつもははっきり申告するのに、ささいなおねだりするだけで恥じらうのは止めてほしい。愛らしく感じて断りづらい。いや、本来は断るほどのことではないのだ。
口を真一文字に引き結んで、アシュリーが返答できずにいると、ガートルードは嫌なのだと判断した。
「失礼しました。じゃあ、いつも通りで」
ガートルードは笑った。一見すると残念さを感じさせない明るいものだ。だからこそ、アシュリーは違和感を感じた。
席に着こうと食卓机に向かうガートルードの腕を掴んで、アシュリーは引き留めた。
「アシュリー様?」
「別に、いい」
眼を
「カルヴィン」
「はい」
名前を呼ばれただけで、心得たカルヴィンはアシュリーの席の左斜めの位置にガートルードの分の食事を並べる。
カルヴィンに促され席に着いたガートルードは、近くなったアシュリーの顔をじっと見つめる。
「いいんですか……?」
「……大したことじゃないだろ」
自分に言い聞かせるようにアシュリーは言った。その眉間の皺は深い。彼の了承を得て、ガートルードは嬉しさに表情を輝かせる。自分のささいな一挙一動で、とても喜ぶ彼女を見ていると、それだけ想いが深いのだと判り、自然と耳に熱が集中する。
その日からしばらく、表情の固いアシュリーと嬉しさいっぱいに笑みを浮かべるガートルードを微笑ましく眺めるのが、食卓に控える使用人の日課となった。
ガートルード相手だからこそできている譲歩だと、カルヴィンをはじめとする使用人たちは気付いていたが、主人に教えることは控えた。
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