05.朝
アシュリーの朝は早い。
空が白む頃には起き出し、軽装に着替えたあと木剣で素振りをするのが日課だ。日の短い冬だと、陽が昇りはじめ、うっすらと明るい時分である。
普段なら朝食の時間までに、訓練とシャワーを終えるところだ。
だが、木剣を振っていたアシュリーの腕が止まる。あり得ないものを見たからだ。
彼のいる庭から見える敷地の外周を、銀糸の髪の少女がぽてぽてとゆっくり歩いている。その髪は短い。
「何をしている!?」
「あ。アシュリー様、おはようございます」
驚いたアシュリーが駆け寄ると、彼の書類上の妻、ガートルードはにこりと朝の挨拶をした。彼女は、昨日ベッドで
「昨日の今日で、一体何を……!」
「はい。だから、昨日は走り込みができなかったので、今日はせめて歩こうかと」
焦った様子のアシュリーに対して、ガートルードはのほほんと無理はしていない旨を主張した。
「お前は馬鹿か!?」
いきなり叱咤され、ガートルードは目を丸くする。
「負傷した兵士も完治するまでは訓練を禁じられる。この顔色でよく動こうと思うな」
頬に手を当てて、ガートルードの顔色を確認するアシュリー。昨日は少量の食事しかとっていないため、彼女の血色はまだ万全とはいえない。
「けど、いつものことですし……」
ガートルードとしては動けるようになった時点で、もう大丈夫という認識だ。毎度のことなので、どれぐらい無茶ができないかは心得ている。彼女としては、邸の外周を歩いて一周するくらいは無理ではない。むしろ、昨日の分の訓練を怠ったことを挽回する方が重要だ。
しかし、アシュリーにそうではないと叱られ、ガートルードは困惑する。頬に触れる手は、ガートルードより温度が高く、熱い。素振りで運動したばかりだからだろう。
「まだ痛むんだろう?」
「え……、といっても、ちょっと、たまに鈍いくらいので、動くのに支障は」
「食事の準備ができるまで、休んでいろ」
「わっ」
アシュリーに状態を確認され、ガートルードが問題ない旨を伝えきるまえに、彼女は持ち上げられた。重心が不安定になったため、彼女は思わずアシュリーの首に腕を回し、しがみつく。
鍛えているアシュリーには少女一人は軽いのか、ガートルードが安定したことを確認すると邸へ向かって歩きだす。
「痛みが治まるまで、過度の運動は控えろ」
「でも」
「いつものことなら、毎月、怪我か病気をしているのと同じだろう。そんなときまで、いつも通りでいる必要はない」
平常と変わらないと主張しようとしたガートルードを、アシュリーはそう言い伏せる。彼には、よく怪我をする訓練兵より周期的に不調になるガートルードの方が面倒がない。不調になることが判っているため、事前に対処がとれる。
不調である以上、怪我や病気と変わらないと言われ、ガートルードは反論できなかった。休むように言われたことに、頷くしかない。
「……はい」
現在の状態を、男性であるアシュリーにここまで心配されるとは思わず、ガートルードはむず痒さを覚える。
女性同士ですら、気遣いこそするがお互い大変だといいながら、日常として流す。姉妹をもつガートルードは、自分が一番重めの症状であったが、周囲同様大したことではないと思っていた。
アシュリーに大人しく運ばれていたガートルードは、気になっていたことをぽつりと零す。
「嫌いに、なりましたか……?」
「は?」
すぐ近くの顔が不可解そうに振り向き、ガートルードは思わず俯く。
「昨日、めんどくさかったでしょう、私。アシュリー様、ああいうの嫌いだろうなって」
それに今も彼に余計な心配をかけてしまっているのが、ガートルードには居たたまれない。彼の好みになれると宣言しておいて、面倒をかけてしまった。
昨日の出来事が何を指すか、アシュリーは解ってしまい、ぼっと顔を熱くした。彼女の面倒とは、彼女の甘えのことだろう。薄い布一枚挟んで女性の肌に長時間触れ続けていた事実を思いだし、羞恥だけではないもので火がでる思いだった。
触れた場所が場所だ。熱を測るため
運ぶためとはいえ、華奢で柔らかなガートルードの身体を抱えている現状にも躊躇いを覚えてしまう。彼女が俯いていても、表情を読み取れるほどに顔も近い。
アシュリーの躊躇いを、是の答えと受け取ったガートルードは視線を落としたまま、申し出る。
「……あの、やっぱり自分で歩けるので、降ろしてください」
昨日、アシュリーが家族として自分を心配してくれたことは嬉しかった。それが、たとえ恋情などなくても。しかし、嫌われることだけは避けたかったガートルードは、彼に昨日の醜態を見せたのは失敗だったと思った。
「っ駄目だ」
それは反射的な答えだった。
ガートルードが驚いて顔を上げるが、アシュリー自身も、出た言葉に驚いている。しかし、悄気た様子の彼女を見て、与えた誤解に思わず否定していた。
「けど、アシュリー様は自分の足で立って歩ける女性がお好みでしょう?」
まるで自分の好みを見聞きしたようなガートルードの言葉に、アシュリーは首を傾げる。あながち間違ってはいないが、彼女は一体どこでそんな話を耳にしたのか。
いずれにせよ、このタイミングで肯定だけしては、またガートルードに誤解を与えることは解った。
「それは健康なときの話だ。一人で立つのも辛いときは頼れ」
「え。けど……、また峠がきたときはアシュリー様に甘えてしまうかもしれないんですよ……?」
彼女のいう甘える行為が何かを知っているアシュリーは、一瞬身体を強張らせた。しかし、嫌なのでは、と不安そうに見つめてくる瞳に、でかかった反射的な否定を堪える。
「っか、構わん」
今のところ彼女が甘えられる相手が自分しかいないというのであれば、多少のことには目を瞑ろうとアシュリーは決める。なるべく意識しなければいいだけの話だ。
多少無理した様子ながら、今後も甘えていいと許容されてガートルードは目を丸くする。
「いいんですか?」
「家族に多少の面倒をかけられたぐらいで、嫌うか」
ガートルードが念押しして確認すると、くどいとアシュリーが嫌う理由にならない旨を断言した。どうやら妻としては見られていないものの、彼の生活のなかにいてよいぐらいには家族と思ってもらえているようだ。
「よかったぁ……」
不安が拭われた嬉しさに、ガートルードは頬を薔薇色に染めてはにかむ。
そんな彼女の笑みは、アシュリーの眼を奪うには充分だった。自分の一挙一動で、簡単に表情を綻ばせる彼女。内心動揺するとともに、彼女があまりに無防備に思えて心配がもたげる。
「もう少し警戒心を持て」
「何を警戒するんです?」
きょとんとするガートルードに、ますます危うさを禁じえない。
「年頃の娘ならもう少し、だな……」
アシュリーは気まずげに言葉を濁すが、その意図をガートルードは正しく理解した。
「ああ。アシュリー様になら何されても構いませんから」
ゴン、と衝突音がした。ガートルードの発言のせいでドアを引く力加減を誤ったアシュリーが、その額を打ちつけたのだ。ドアノブを持つ手と反対側の腕で抱えられたガートルードは無事だ。
大丈夫かとガートルードが心配してくるが、アシュリーはそれどころではない。ガートルードが労って彼の額に触れると、その手よりも熱をもっていた。その熱は打ちつけたためだけではなかった。
「だからっ、お前はもっと慎め!」
「偽りない本心ですよ」
憤るアシュリーに対して、ガートルードはにっこりと微笑む。
爽やかな初夏の朝にしては、ずいぶんとけたたましい。そして、こんな話題をしたあとに向かう先が、ガートルードの寝室であることが、とても居たたまれないアシュリーだった。
休ませるためだ、という事実を何度も頭に
ガートルードが部屋に入るのを見届けるだけで大丈夫か、アシュリーは彼女を降ろすべきか悩む。朝食までちゃんと休むか気がかりだ。ベッドまで運んで、横になったのを確認した方がよいのだろうが、先ほどのガートルードの発言のせいで変な他意が発生しないか。妙に勘繰ってしまい、アシュリーの判断は揺らぐ。
アシュリーが決断できぬ間に、中からドアを開けられた。
「まぁまぁ、いらっしゃらないと思ったら、坊っちゃんとご一緒だったんですね」
ふっくらとした女性が二人を出迎えた。この邸でこれまで女性の使用人をみたことがなかったガートルードは、お仕着せ姿の彼女を不思議に思う。
「あなたは?」
「本日より奥様の身の回りのお世話をさせていただく、ジェフの娘のターラと申します」
「料理長の?」
料理長の娘だと聞き、ガートルードは納得する。料理長は細身の体躯だが、二人の笑ったときの目元がそっくりだ。
「月の
アシュリーとともにいたのならよかった、とターラは朗らかにガートルードを部屋へと誘う。アシュリーに降ろしてもらい、ターラの手をとると、掌に血が巡りきっていないことを指摘される。
「こんなに冷えた手でお散歩だなんて、すぐ湯たんぽを用意しますね。カル坊に頼んでおいてよかったわ」
湯たんぽは、陶器製や金属製のものがあるが、独自の形状をしているため高価なものだ。平民ではストーブで温めた軽石を使うのが一般的だが、この季節にストーブをつけるのも難だ。
昨日の夕方、料理長ジェフから紹介され、カルヴィンから打診を受けたターラは、侯爵夫人の事情を聞き二つ返事で了承した。そのうえ、カルヴィンにすぐさま街の金物工房へ馬を走らせるように指示をしたのだ。女性のことは女性に任せるに限るので、カルヴィンは上司ながら急を要することと判断し、彼女の指示通り金物工房から金属製の湯たんぽを購入した。さっそくそれが役に立つ。
「私はガートルードと申します。ルードと呼んでください。よろしくお願いします、ターラさん」
「ルード様みたいな可愛らしいお嬢さんのお世話ができるなんて、嬉しいわ」
うちは息子ばかりで、と笑うターラ。彼女の息子は二人おり、すでに成人済みで、家のことも息子の嫁にまかせられる状態だ。なので、侯爵夫人の侍女への
「ターラ、頼んだ」
「はい、坊っちゃん」
アシュリーが後は任せる旨を伝えると、とターラは了承した。
二人の息子より若いアシュリーは、成人しても変わらず彼女にとって坊っちゃんだった。直接顔を合わせるのは久しぶりだが、厨房を担う父や息子たちから話を聞いているせいもある。
ガートルードを横にし、てきぱきと動き出すターラを確認して、アシュリーはドアを閉めた。
幼い頃より知っているためか、ターラは自分を子供扱いするのでアシュリーでも接しやすい女性だ。執事のカルヴィンも承知のうえで、ターラに声をかけるのを最優先したのだろう。
彼女がついていれば、万全ではないガートルードも無理をすることはないはずだ。そこは安心だった。
ふと、アシュリーは、暖をとる道具があるなら自分の手で温める必要はない、と思い至る。次彼女に甘えられたら、と危惧していたことは杞憂に終わった。それに安堵を覚えるが、安堵だけではない
その靄の正体を追及してはよくない気がして、アシュリーはわだかまる靄に目を瞑った。
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