赤い月がきれいですね

八壁ゆかり

プロローグ

 ダメだなぁ、分かってねえなぁ。

 調剤薬局の水色の椅子に座って、俺は音の絞られたテレビを茫洋と見ていた。大阪で無差別殺傷事件が起きて、十三という所が大変らしいが、十三ってなんて読むんだろう。そんなことを考えながら、三名心肺停止状態、とかいう情報を目に映すだけ映して、違うんだよなぁ、と思う。カウンターの中では、薄いピンク色の制服を着た女が薬を持って最終チェックをしていた。

神木かみきさん、神木真一朗しんいちろうさん」

 俺は立ち上がって、黒髪を後ろに結った若い女から、笑顔を浮かべて薬を受け取った。処方箋の偽造なんていつぶりだろう。

「領収書とおくすり手帳は一緒に袋に入れておきますね」

「ありがとう。あれ、大変だね」

 何となく、俺は壁に掛かっているテレビを指さしてみた。

「ああ、ジュウソウの! 恐いですよね、通行人を無差別になんて、ねえ?」

 十三と書いてジュウソウ、あまり納得できない。



 初めて命を奪ったのは、少なくとも記憶にある中では、黒くて大きな蟻だった。小学校に上がる前、当時住んでいた団地の合間にある公園でのことだった。小さな蟻なんかは、もっと幼い頃から他の幼児と一緒に足をバタバタと動かして踏みつぶしていたと思う。でも、その公園にいた蟻は、通常の蟻より一回りも二回りも大きくて、楕円形の頭部は黒光りしていて、キュッと締まった胴体の先には頭より少し長い部位があり、中身がぎっちり入っていて今にも破裂しそうだった。

 とはいえ蟻は蟻。幼児とはいえ俺は人間。木の枝でスリムな部分を固定し、脚をばたつかせるのは無視して、親指で黒い果実みたいな身体を押し潰した。ぱりっと何かが割れる感覚が指の腹に走った。白と黄色が混ざったような色の温かい液体が、地面と俺の小さな指先にべったりと付着した。なのに、まだそいつは生きていて、光る頭を前後左右に忙しなく動かし、潰し損ねた脚二本で逃げ惑うように、いや実際に逃げ惑っていたのだけど、とにかくまだ生きていた。

 俺は動悸を覚えていた。

 こいつは抵抗している。よく見ると何かを噛み千切りそうな口腔もあった。生きるために、必死で足掻いている。

 それを俺は、終わらせることができる。

 その足掻きから、痛みから、恐怖から、全てから、こいつを解放してやることができる。

 大丈夫。

 もう一度親指を押しつけた。ほんの少し、何かが皮膚に引っかかった気がした。

 後に残ったのは、乳白色の体液と、赤が混じった体液と、潰れてしまった黒い身体。

 そして俺の中には、命を奪うこと、殺生の、一部始終が全て残った。

 

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