アンカーの少年

八壁ゆかり

アンカーの少年

「そういうのが僕の弱点っていうか悪癖なのは分かってるんです、もう何年も前に気付いて治そうと努力してるんですよ。でも、気付いたらまた同じことを繰り返してしまう。どういう訳か忘れてしまうんです。僕はこれ以上家族や友達を傷付けたくないし、いい加減進歩したい。もういい年ですしね」

 窓に下ろされたブラインドからは西日が漏れていて、話をする彼の横顔を縞々に照らしていた。彼は眩しさなんて感じないように続ける。

「最近自分でも調子がいいなと思える日が増えてます。だけど以前忠告されたように、そういう時は必ずぶり返しが来るものだと覚悟するようにしてるんです。波があって当然なんだなって気付けたら、少し楽になった気がします。人間誰しも大なり小なりあるはずですからね」

「おっしゃる通りです」

 私は軽く咳払いをしてから口を開いた。

「自分の状態に自覚的で居られる時間が長くなっているように感じますね、良い傾向だと思います。ですが自分のことを常に監視するような生活も息苦しいですから、適度に息を抜くというか、思うがままに行動するのも手ですよ」

「副作用で」

 彼はぐいと唾を飲み込んでから一言だけ発し、しばらく俯いた。私はじっと彼の言葉を待つ。

「口渇が酷いんですよね。今ちょっと飴を切らしてしまいました」

「大丈夫ですか? 外の冷水器を使われても構いませんよ」

 彼は二度頭を下げ、荷物はそのままに立ち上がって部屋を出た。ブラインドの隙間から伸びる日光は、彼が座っていた生成りのソファを縞模様にする。私はそれを眺めて、日が短くなってきていることを実感する。

 この部屋は気に入っている。クライアントからの評判も良い。低いガラステーブルとソファ、壁の絵画や随所の観葉植物は、ここが医療現場ではなくコミュニケーションの場なのだという私の信念を補強してくれている。私はほとんど一日中この部屋のベージュのソファに腰掛け、決して少なくはない人数の話を聞き、相槌やちょっとした訂正や率直な意見を述べ、それを記録する。それは数年間変わっていない。激務だと思う時もあれば、天職だと誇りたくなる時もある。今日はそのどちらでもなかった。表情はいつも通り、クライアントが警戒しない程度に視線を揺らし、会話をする。

 しかし外の待合室で喉を潤わせた彼が戻ってきて着席した瞬間、私は頭の中で叫んだ。

 あの人と話したい。

 その欲求は、日本刀で私を上から真っ二つに斬り裂くような強烈さを持っていた。表面上はクライアントと話を続け、一人終われば次の予約までの時間に記録をし、残り三名も満足げにカウンセリングルームを後にした。まるで機械の自動運転だった。私の心はもはやこの部屋にはなく、あの人と話すことだけを目的に呼吸していた。しかし私の身体は自発的に動き、自然な笑顔を形作り、暖かな声音で彼らに言葉をかけ、我に返ると最後のクライアントの記録を終えていた。私は手早く明日の準備をし、部屋から出る。

「あら先生」

 受付の女性がつけまつげを揺らして私を見る。

「お疲れ様です。少し顔色が悪いですよ?」

「そうかな」

 私は彼女の目を見ずに奥の事務所に入った。ちょっとした書類仕事を済ませれば私は自由だ。

 あの人と話したい。あの人と今すぐに話をしたい。

 職場を出た私は普段利用するバス停を通過し、少し先にある地下鉄の駅に入った。あの人とは、あの店でしか会ったことがない。連絡先は知らない。職業も知らない。名前も知らない。だが何も知らないからこそ話せることもある。私はホームで軽く足踏みしながら電車を待った。あの人が今夜あの店に居るかは分からない。それでも私はどこかで確信していた。あの人はきっと私を待ってくれている。これまでのように。

 目的の駅で降りて目的の店へと足早に向かった。そこは敷居の低いジャズバーだ。私はジャズを聞かないが、偶然入ってあの人と出会った。以来、ジャズではなくあの人との会話を目当てに店に通うようになった。

 繁華街は平日の夜の平均的な混み具合だった。二度、通行人と肩がぶつかった。一人は迷惑そうに振り返ってこちらを見たが、私の目はもうあの店の地味な看板しか捉えていなかった。

「いらっしゃい」

 入店すると禿頭のマスターが声をかけてくれて、グラス片手に店の奥を指さした。あの人が居るのだ。私は頭を下げて木製のテーブルとジャズの音の間をすり抜けた。

「やあ」

 あの人は、一見すると未成年のように見える少年は、一番奥のソファ席に座っていて、私に気付くと片手を上げた。

「どうしたの、肩で息しちゃってさ」

 こちらの欲求や要求を全て承知の上で、敢えて私に言葉にさせようと仕向けるように、少年は言う。

「貴方と話したかった」

 私は素直になる。どういう訳かこの少年には逆らえないのだ。しかも少年は、逆らわないこと、従順になることの悦びを私の本能に刷り込んでくる。正確な年齢は知らないが私よりかなり年下であることは確実だ。しかし私は少年を『貴方』と呼ぶ。そう呼ぶことによって、対等であろうとする。無駄なあがきだ。強者は明らかに向こうなのだから。

「いいよ、ヒマだし。座れば?」

 少年はタバコに火を付ける。私を受け入れてくれるという合意のサインだ。私は口を開き、無数の言葉を腹の底からとめどなく吐き出す。空っぽになるまでだ。頭や心や腹の中がすっかり空になるまで、私は話し続ける。口の中は乾き、水やアルコールを次々と嚥下する。そして続きの言葉を吐き出す。

「そっか」

 私の中が空っぽになるのが、少年には分かるのだろうか。いつも絶妙なタイミングで、彼はタバコの火を消し、すくっと立ち上がるのだ。

「色々聞けて良かったよ。また今度」

 去りゆく少年の背を、私は見ない。ただひたすらに、空になって全てを除去され浄化された自分自身の内部を確認する。水やアルコールを摂取し、時には軽い食事もして、自分が骨と皮膚だけで形成された空っぽの生物であることに満足する。

 今、私の頭や心や腹の中には何もない。

 これで、明日からも仕事を続けられそうだ。

「でもそれってどうなんだろうね」

 安堵した瞬間、背後からあの少年の声がした。

「多くの悩める人々はアンタに吐き出す、アンタは俺に吐き出す。となると俺のはけ口は一体誰なんだろうね」

 聞こえないふりをする。

「この連鎖は終わらないよ。アンタもまたすぐにここに来ることになるさ」

 聞こえないふりをする。聞こえない、ふりをする。

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