文披31題【黄昏】

千石綾子

黄昏に走る僕

 ひたすらに僕は走っていた。

 黄昏時のこの道は危険だ。人には見えない色々なものが、僕にははっきりと見えてしまう。

 それだけが理由ではないのだが、とにかく僕の足はアスファルトを蹴りつけながら先を急いでいた。

 風もないのにざわざわと葉を鳴らす大きな銀杏の木が、前を行きすぎる僕に囁きかけてくる。


「無駄だ。もう間に合わないよ」


 そんなことがあるもんか、と僕は首を横に振ってその声を頭から追いやる。

 

「この世の中、どうせ何も上手くいかないのは分かっているだろう」


 電話ボックスの中で天井に頭をくっつけて浮いているスーツの男は、まるで自分の事のように悲し気に呟いている。

 彼の言う事はある意味もっともだが、今はそんな一般論を聞いている場合じゃない。

 

 僕には使命がある。

 毎日欠かさずアパート──バベルハイツの住民たちの食事を準備すること。管理人として住み込みで雇われた僕に課せられた使命だ。そしてそれは僕の信念でもある。

 

 買い物の途中で、配られているポケットティッシュを断られずについつい浄水器のセールスに捕まってしまった。不覚だった。断るタイミングを見いだせず、気付けばもう5時を回っていた。


「い、急いでるんで。すみません!」


 意を決し、いきなり立ち上がって僕はスーパーのレジ袋を両手に駆けだしたのだ。そして今に至る。

 


「近江、おせーよ。これから準備するのか?」

「今日はシチューだっていうから寄り道しないで帰って来たんだぞ」


 住民たちは何故かクリームシチューが好きだ。クリームシチューに関してとても寛容だ。ご飯にかける者もいればかけない者もいる。しかし互いにそれをそしることもなく平和に食卓を囲んでくれる。


「大丈夫、間に合わせるから!」


 僕は超特急で具を刻み、煮込み始めた。ちょっと強火で煮崩れの危険性もあったが、たとえ煮崩れても彼らはそれはそれで認めてくれる。シチューに関してはとても寛容なのだ。


 アクをすくいながら付け合わせのサラダを作り漬物を床から出して洗って切り、盛り付ける。

 何とか間に合いそうだ。僕はほっとして最後の仕上げに入ろうとした。その時。


「あああああああ、しまったああああああ!!」


 僕は思わず膝から崩れ落ちて頭を抱えた。なんてことだ。なんてことをしてしまったんだ。


「ぎゅ、牛乳買い忘れた……」


 彼らがわいわいとダイニングに集まってくる声が聞こえてくる。今から買いに行くという選択肢はない。僕は絶望した。彼らはシチューには寛容だが、僕の失態には容赦がない。


 道すがら出会ったあの銀杏の木とスーツの男が言っていたのはあながち間違いではなかった。もしやこのことを知っていて揶揄していたんだろうか。


 僕はカレールーとしらたきを手に、カレーと肉じゃが、どちらへの変更が少しでも許されるだろうかと必死で考えるばかりだった。


 


               了

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文披31題【黄昏】 千石綾子 @sengoku1111

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