別離

日暮マルタ

別離

 晴は聞き耳を立てていた。終礼後もダラダラと、椅子や机に座りながら無駄話を繰り返す、大して接点のないクラスメート達の会話だ。神隠しが続いていると、そしてそれが晴の足でいけるような場所にあると。異世界への道があるのだとか無いのだとか、勿論晴は、くだらない作り話めいていると一時は断じた。しかしそれから一週間も経たない内に、晴は聞いた場所へやってきた。そこには人気のない廃ビルが、ポツンと建っていた。入り口には鎖が巻かれている。とても入れそうにないと晴が帰り道に向き直った時、急に男の声がした。

「お客様! お待ちしておりました、どうぞ中へお入りください」

 不審に思った晴の目に、鎖の巻かれた先程の光景が映ることはなく、代わりにいやに真新しい白いビルの入り口が見えた。磨き抜かれた窓ガラスがピカピカに光る。

「どうなさいました? さあさあ、中へ」

 晴は背中をグイと押され、建物の中へ押し込まれた。彼女がぎょっとしているのは、景色の変化だけでなく、背後に誰もいないと確信していたのに聞こえてくるこの声は誰、という点だ。白昼夢でも見ているのかもしれない、と無理矢理に納得してみせた。

「私、お客じゃないです。すみませんが」

 建物に入ってからは姿を見せて、強引に前へと腕を引く、スーツの男に制止をかける。それでも男は歩みを止めない。軽快に力強く、圧を感じる調子で笑われる。

「何をおっしゃいますか! 見ればわかりますとも。お客様、あなたは居場所を探しているのでしょう?」

 晴は息を飲んだ。自分でも明確には知らない、心のもやに診断名がついたような、腑に落ちる感覚。喉がネバついた。

「あるのですか」

「勿論ですとも! さあ、すぐに着きますよ。エレベーターに乗って」

 晴がエレベーターに乗り込む時、恐怖、好奇心、安心と、それと少しの罪悪感が胸にあった。

 空虚な元々の生活の中、それでも誰にも愛されなかった訳ではない。言うなればそう、忘れ物をしていた。前々から晴にしつこく好きだと伝えてくる男が一人、晴の頭に思い浮かぶ。突然神隠しにあったなら、彼は探しに来るのだろうか。

 晴はエレベーターのパネルの前に立つ、笑顔の彼に問いかけた。

「お別れをしたい相手が、いるのですが」

「それは……しない方が、良いかと」

 やはり妙に圧力を感じた。怯む晴を見て彼は、取り繕ったように明るく言う。

「いえね、するなと申した訳ではございません。もしどうしても連絡を取りたいと言うのであれば、私共に止める手立てはありません。そのポケットの携帯電話をご使用なさるのであれば、どうぞ今お使いください。上階は、電波とは相性が悪いようにできていますので」

 晴は例の彼に簡単なメールを打ち、送った。

 件の彼は今、メールをみてすぐに晴を探しに走り出した。中々無い彼女からのメールの文字が全て、文字化けしてしまっていて読めなかったからだ。内容はわからなくとも、彼女からのメールが届いたという事実さえあれば、彼にとって重大な何かが起きているということがわかる。そして悲しいかな、余程のことでないと彼女から連絡が来ないと彼は経験で理解していたため、つまり今彼女が、余程の何かに巻き込まれていると彼は察した。


 晴を探す彼は、あちらこちらの目撃情報を集めてどうにか廃ビルまで辿り着いた。錆の浮いた不衛生そうな鎖が巻かれた入り口に立つ。無理矢理中に押し入ろうと、鎖に足をかけた彼に、背後から声がかかる。

「そこに入っちゃいかんぞ!」

 赤い顔をした壮年の男性だった。無視して進もうとすると、引きはがしにわざわざやって来て、古い建物だから倒壊の恐れがあって危険なのだと説教を垂れられた。

「ここに、これくらいの背の女の子、来たって聞いたから探してるんだけど。オッサン見てない?」

「オッサンは見てない。なんだ人捜しか」

 赤ら顔の男性は急にニヤけて、彼に顔を近づける。小声で「好きな子か」と聞くから、彼は「そうだよ」と答えた。途端に男性の態度は軟化し、力強く彼の背を数回叩いて激励の言葉を浴びせ、その場から立ち去った。

 廃ビルの裏に回ってぐるりと見回し、何の変わりもないただのビルだと確認した彼は、表の入り口に戻ってきた。すると、あの鎖は姿を消していて、生活感を徹底的に排除したような、ただ白いばかりのビルが建っていた。目を白黒させた彼は辺りを確認する。シンと人気の無い空気が薄ら寒い。彼はメールを開き、差出人の名を指でなぞり、意を決して白いビルへと立ち入った。中では味気ない観葉植物だけが彼を迎えた。


 彼は白いビルの中の白い廊下を一人歩く。外から見たあの薄汚いビルとはどうしたって結びつかない。清潔すぎる壁を不気味に思った。一階のどこにも、窓がない。

 階段を見つけた。それを上った先には、たくさんの部屋と、所々に窓が並ぶ廊下があった。彼が窓に寄り、外を覗くと、驚くべきことに、そこは多くの人がいた。皆一様に幸せそうで穏やかな笑みを顔に浮かべ、思い思いの生活を送っていた。自転車に乗って信号待ちをしている人、買い物袋を腕に下げる人、古ぼけて立ち尽くす電柱。懐かしささえ感じる光景だ。彼の目はその光景に吸い込まれるように固定された。なぜビルの中に青空があるのか? あの人達は何をしているのか? 当然思い浮かぶであろう疑問の何一つも、彼の思考に入り込む余地はなかった。電線に留まる雀が飛び立つのを、ただ凝視する。


「そこにいるのは?」

 不意に鋭い声が彼の意識を裂いた。混濁した思考に一石を投じる。不審そうにスーツの男が彼を見ていた。

「俺は……」

 彼はぼんやりと記憶を辿った。俺は何をしていたのだったか。

 晴。彼の頭に晴の姿がよぎる。学校の机に着いて、大人しく次の教科の用意をしている。生きづらそうに息をする人だった。あの時、夕暮れの陽が差し込む教室の角で、彼女が向けてくれた微笑みを覚えている。

「おやおや、いけませんね。予想外のお客様だ」

 スーツの男はコロッと笑顔を作った。人の心の裏側に忍び寄る、薄気味悪い笑顔だと彼は感じた。背中が寒い。晴はどこにいるのか? ……俺は晴を探しに来たんだ! 

 男が彼に歩み寄り、彼を案内しようと手を伸ばす。彼は強く床を蹴り、勢いづけて走り出した。男に背を向けて。呆気にとられた男が一人、白い壁と窓の間に立ち尽くす。彼の姿が見えなくなって、やっと焦って追いかけに行った。


 目頭がじんわりと熱を持っていた。彼は一度上った階段を駆け下りる。頭がおかしくなりそうだった。あの窓から見えた妙な光景、白すぎる壁に、胡散臭いあの男も異様である。この場所から今すぐにでも飛び出して、元の日常に帰りたいのだが、その日常には欠かせない人物がいる。彼は出口に目もくれず、当てもなく建物の一階を走る。地下があるらしい。また下り階段が現れた。後方から、硬い革靴の音がする。降りる。


 地下の部屋数は多くはない。一般的な、ビルのトイレなんかでよく見ることのある、無骨な白いドアが二つ壁にある。幅の広い廊下はそう長くは続かず、奥の突き当たりに大きな扉があった。深みのある赤色の、重そうな扉である。手をつくと、かけた力の分だけ沈む。取っ手を引いて扉を開くと、途端に何かの音がしてきた。これは歌だろうか。よく伸びる声が重なって、伴奏に乗っている。 

 踏み込むと、中がよく見えた。音楽ホールのようである。照明に当てられて演奏している者達が複数いた。そこからする音以外、何一つの物音もしない。観客席にはまばらに人がいる。彼は上映途中の映画に割り込むような居心地の悪さを感じた。

 彼は声を上げた。晴の名前を呼んだ。この空間のどこかにいるような気がした。本当はいないと思っていても、彼は限界が近かった。縋るべき対象を今、再確認する必要があった。彼は繰り返し彼女の名を呼ぶ。人は驚いて彼に注目した。不自然に演奏を続ける人形のような人もいる、微動だにしない観客もいる、だが一部は彼を見た。彼の意思を感じた少数の人々は、何かを思い出そうとしていた。


 確か文化祭ではなかったかな、と彼は思う。気が乗らないクラス行事だった。クラスメートが思い思いに班を組んで、下らない役割分担をしていた気がする。元々誰とも自主的に組む気がなかった彼と晴は、一切接点はないがクラスからあぶれた者同士、まとめられて何か雑用を言い渡されていた。不要になった段ボールを紙紐で縛るとか、そういう。

 忙しなく動き回る周囲に対して、二人の動きは教室の角で停滞していた。その時彼から見た晴の印象は、暗そう、だった。

 彼が関わりたくない人種に見えた。面倒なのだ。真面目ぶって、人がサボっているのを見ると何か言ってくる人間だと思った。ああいう連中は、実は人を攻撃する口実を探しているだけだ。

 勝手な想像で決めつけた相手を小馬鹿にする。先手を打とうと思った。相手は大人しくしている。彼は言った。

「やらないの?」

 晴は彼を一瞥した。彼の浮かべる薄笑いの意味を正しく認識した。それでも何の感情も浮かばない。またか、と思うだけである。

「あなたがやるならやる」

「俺はやらない。どうでもいいし」

 彼は相手の返答を予想した。その通りになれば、いっそ愉快な気分になれそうだ。気まずそうに顔を伏せるか、あからさまに顔をしかめるか、興味も関心もないのか。反応が無いのが一番つまらない。無意識の内に相手の嫌悪を期待していた。

 人は自分の意に沿わない相手に、こいつは嫌な奴だ! とレッテルを貼る。一度貼られたそれを剥がすのは大変なことだ。そして厄介なことに、本来の自己が他者の評価に引きずられて変容することがある。そのことに気がついた人は、彼は、大変不愉快に思った。そんなことは望まない。

 どうぞご自由に、俺はレッテルに従わない。自身を知っている!

 だけど、時々空しくなる。誰も彼を受け入れはしないのだ。自己を損なわずに存在することを許されたかった。

 一方、晴は、クラスメートの動きを見ていた。不要そうな段ボールがあったら取りに行ってまとめるべきだろうか、と思っていたのも数十秒。各自で勝手にまとめているのを目撃した。

 気付かない振りをしているが、ちらちらと煩わしい視線がある。窺うようだ。その視線の送り主である女子達は、大人しい方だが優しくて、誰にでも好かれていた。あの二人だと頼みづらいよね、と話しているのが聞こえる。

 やりたくない。やる必要がない。ならやらなくてもいいんじゃないかな……。そう言い訳めいて考えた矢先、彼がやらないと断言した。取り繕った言い訳も一切ない、大変潔い言葉だった。思わず笑みが漏れ出る。彼の意思が小気味良かった。

「いいんじゃない?」

 混濁のない肯定。

 下校時刻を告げる鐘の音がした。傾きだした日は音もなく窓から教室に影を作る。赤く染まる壁や人に紛れて、彼の頬も淡く色づく。世界が平面になったような気がした。

 彼は晴こそ、自分を許してくれる相手だと思った。


「帰ろう、晴」

 不自然に和音のみが鳴り続けるホールで、彼の声は壁に吸い込まれて消えた。何度も繰り返された彼の呼びかけに、答える彼女の声はない。

 スーツの男は彼に追いついた。勢いよく彼の肩を掴む。余計な手間に対する憤りを、薄皮一枚で覆って声に乗せる。彼はもう逃げ出しはしなかった。

「いい加減にしてください……ね」

「晴はどこにいる? 連れて帰る!」

 彼の言葉を聞いて、スーツの男は(なんだ、)と思った。なんだ、お客じゃないのか。と。

「彼女がそれを望むならね」

 男は彼の腕を強く掴んで、足早にホールから立ち去ろうとした。彼は表情に色濃い戸惑いを浮かべてはいるが、特に抵抗もなく連れられていく。目立っていた彼らの一部始終を見届けたホールの人々は、何事もなかったかのように呆然と演奏、または聴衆に戻っていく。

 ラフな格好で、項垂れるように観客席に座っていた男性がいた。その人は覚束ない足取りで立ち上がり、出口を求めて扉へと向かう。


 男とエレベーターに乗った彼は、上階へと辿り着く。壁全面がガラス張りの、開放的なフロアに出た。「晴は?」と聞くと、上品ぶった動作でガラスを示される。指で指し示すのではなく、揃えた手指でその方角を示されたのだった。男は億劫そうにしている。

 彼は恐る恐るガラスに寄り、眼下に広がる小さな町を見下ろす。小さな道の中央で、ぼんやりと立ち尽くす晴を見つけた。

「晴!」

 思い切りガラスを叩くと、鈍い音がした。しかしヒビ一つ入らない。

 晴が顔を上げた。ビルの上階にいる彼と、ガラス越しに目が合う。愛想笑いをして手を振った。彼の名前を呼ぼうとしたが、思い出せなくてやめた。

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別離 日暮マルタ @higurecosmos

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