第38話

 

 深い眠りについていた蘭子の睡眠を妨げたのは、目覚ましのアラーム音ではなくて携帯の着信音だった。

 寝ぼけ眼な中画面を見れば、仲の良い友人の名前が表示されている。


 「リリ奈、どうしたの?」

 『もしもし、来週の日曜日空いてたりする?』

 「確か空いてるけど…」


 返事を聞いてすぐに、電話口から嬉しそうな声が届いてくる。

 朝とは思えないほど高いテンションに、ついこめかみを抑えてしまっていた。


 『本当?あと蘭子だけだったから嬉しい!これで全員揃いそうね』

 「全員って…?」

 『私とひなちゃんに、蘭子と筒井さん。4人でプライベートビーチ付きの私の別荘にいきましょう』


 眠りの森を彷徨っていた意識が、一気に現実へと引き戻される。

 驚きのあまり慌てて起き上がりながら、電話口に向かって声をあげていた。


 「そ、そんな急に…!」

 『夏休みなんだから良いじゃない。一泊二日だから荷物準備しといてね』


 既に彼女の中では決定事項らしく、そのままプツンと通話が切れる。真っ暗になった画面を凝視しながら、突然過ぎる展開について行く事が出来なかった。


 いくら友達と一緒とはいえ、恋人とお泊まりをするという事実に変わりはない。意識をして、緊張してしまうのは当然のことだろう。


 




 一泊二日の旅行は来週なため、心の準備はもちろん荷物だって整えられていない。急遽伊乃と共に行きつけのブティックへ出向いて、当日に来て行く服を物色していた。


 しかし店員の声はちっとも耳に届いて来ず、ぼんやりと可愛らしい服を眺めていた。


 まだ付き合ってから一度もお泊まりはしていない。恋人と一つ屋根の下で一夜を共にするのだから、意識して当然だ。


 既に律は了承しているそうだが、一体どんな気持ちで首を縦に振ったのだろう。蘭子と同じように、少しくらいは意識してくれたりしたのだろうか。


 ソワソワと落ち着かずに、せっかく可愛らしいデザインの洋服を前にしても胸を踊らせる事が出来ずにいた。


 「こちら今シーズンの新作となっておりまして……」

 「じゃあ、それも」


 何も喋らない主人に変わって、伊乃が見極めて返事をしてくれている状態。

 明らかに様子のおかしい蘭子に、彼女は心配そうな表情を浮かべていた。


 「蘭子様、どうされたのですか」

 「今度リリ奈とひなと…律と一泊二日の旅行へ行くの」

 「楽しそうですね、良いじゃありませんか」

 「良くないわよ!お泊まりよ?付き合って初めての泊まり」


 感情が昂るあまり、無意識に声はどんどん大きくなってしまっていた。

 蘭子の声は静かな店内に響き渡って、皆の視線がこちらに集まっているのが分かる。


 居た堪れなさから逃れるように、買い物もそこそこにお店を出て、そのまま車に乗り込んでいた。


 行きつけのお店だったというのに、これでは暫く足を運ぶ事が出来ない。自分で撒いた種だというのに、猛烈な後悔に襲われていた。


 羞恥心で顔を伏せていれば、付き人である彼女に声を掛けられる。


 「気を確かに、蘭子様」

 「伊乃……」

 「相手はプロですから、あれくらいの粗相は大した事ないはずです」


 そうは言うものの、蘭子が気にしてしまうのだ。苦笑いを浮かべながら、気休めの言葉を受け止める。

 

 「それに旅行は4人で行くのであれば、何か発展などはないのでは…」

 「分からないでしょう…もしあったら…」

 「お嫌なのですか?」


 嫌か嫌ではないかの2択で迫られれば、咄嗟に選択する事が出来なかった。

 グッと押し黙ってから、悩んだ末に恐る恐る声を漏らす。


 「……やじゃ、ない」

 「ほう」

 「けど心の準備がまだ……完全には出来ていないっていうか、イチャイチャはしたいけどペースってものがあるでしょ?」


 蘭子の苦し紛れな言葉がピンと来ないのか、困ったように眉根を寄せてしまう。


 「繊細ですね」

 「女の子は普通だよ」

 「なるほど」

 「……友達がいたとしても、好きな人と…恋人と旅行に行くんだから、意識しちゃうでしょ」


 ポツポツと本音を話せば、ようやく蘭子の気持ちが伝わったのか腑に落ちた表情をしていた。

 回りくどい言い回しではなくて、ありのままの想いを打ち明ける強さも律から教わったのだ。


 「至極真っ当な感情だと思います」

 「伊乃……」

 「もしもに備えて、ランジェリーも新調しておきますか?」

 「……ッ」


 リリ奈のように揶揄っているのではなくて、主人を思って親切心で彼女は言ってくれているのだ。


 いざと言うときに蘭子が自信を持てるように、その手助けをしようとしてくれている。


 もしもに備えて、使用人としての勤めを果たそうとしてくれているだけ。

 ここで恥ずかしがって断ってしまった時の方が、いざ本番を迎えた時恥をかいてしまうだろう。


 顔を真っ赤に染め上げながら、首を縦に振る。頷いてしまった時点で、本当はもう覚悟が決まっていたのかもしれない。

 

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