第9話 かわいそうな俺
トルコの宮廷料理の洗練された味わい。俺はそれを楽しみにしていたが……千石さんを前にしてはどのお皿も味がしない。
「……」
千石さんが何か喋っているようだが、俺の頭に入ってこない。俺もどうしたらいいのか分からないんだ。さっきからこみあげてくるこのムカムカとした気持ちを。
嫌だ。もうこの人と料理を食べるのは嫌だ。無理。
俺はテーブルに落としていた視線を上げた。
「ごめん。気分が悪くなった。申し訳ないけど……」
千石さんはキョトンとした顔で俺を見る。俺はこういうとき、つまり相手の機嫌を損ねてしまいそうなとき、相手の目を見ていられない性格のはずだった。なのに、俺は彼女から視線を逸らさない。どうしたんだ、俺?
「悪いけど君と一緒に料理は食べられない」
「……帰るの?」
俺は立ち上がった。
「あ、レストラン代、ここに置いておくから」
クレカだけでなく現金を持ってきておいて良かった。まさかこんなことになるとは思っても見なかったが。クレカ払いだとポイントつくけど、もうここはいいや。
「え、じゃあ、私も……」と立ち上がりかけた千石さんを待たずに、俺は踵を返して店から出ようとした。
店員さんがなぜか手回しよく、俺が預けていた鞄とコートを持って、出入り口で待ち構えていた。
そしてそれを渡しながら小声で囁く。
「今度は偏見のない女性とお越しください」
「……」
「よい出会いが貴方にありますように」
その後に続くのは同じ意味のトルコ語の祈りの文言のようだった。千石さんは外国風の顔立ちの人には日本語も分からないだろうと油断していたようだが、そうだよなあ、ここの店員さんがいかに日本人と違う風貌をしていても、日本で商売してるんだから、日本語出来ておかしくないよなあ。
自宅に戻っても俺は千石さんに何も連絡しなかった。当然、千石さんからも何の連絡もない。
あれほどの美女を逃したことになるが、別に後悔する気も湧かなかった。もともとあんなリア充な女性は俺には遠い存在だったが、今は別の意味でも心の距離が遠いと思う。
俺はその日を境に家に帰っても料理をするのを止めてしまった。なんか、何もかもどうでもよくなった。
なんでだろう? なんで気落ちするんだろう。俺が彼女に振られたわけでもない。どちらかといえば、俺が振った形に近いだろうに。別にちゃんと付き合ってたわけじゃないけれど。
かわいそうなのは俺の冷蔵庫の食材だ。小松菜など葉物野菜が野菜室でしなびていく。玉ねぎから瑞々しさが薄れ、ジャガイモからちょこちょこ芽が出始めている。
もちろん罪もない食べ物を粗末にするなどあってはならない。フードロスは社会問題だ。俺はそれらを食べきるためにしばらくの間味噌汁だけを作り続けたが、冷蔵庫を片付けた後は何も作らなかった。
コンビニ弁当にインスタントのお味噌汁。まあ、独身男性の夕食なんてこんなもんだろう。
お昼も弁当ではなく食堂だ。研究所にある食堂は、本社ほどランチタイムに混雑が集中することはないし、俺にとって給食が美味しかったように、プロがつくる定食だって美味しいものだ。食堂でお昼を済ませるのも悪くない。
ある日、アジフライ定食を食べていると、「お、一ノ瀬君じゃん」と声がかかった。営業に配属されていた同期の一人だった。
「今日は研究所に来る用事があって。ここの食堂は昼でも空いていて美味いって聞いたから昼飯もこっちで食うことにしたんだ。あれ、一ノ瀬君って毎日弁当じゃなかったの?」
「いや、最近自炊してなくて」
学生時代からスポーツマンの彼と、インドア派の俺とはさほど仲がいいわけでもない。とはいえ、お互い顔を合わせたら飯は一緒に食わないと不自然だろう。
「なあ、一ノ瀬君、千石さんと上手くやれてないの?」
「あ、ああ、うん。料理が共通の趣味になるかなと思ったんだけど……いや、俺が料理に興味なくしちゃって」
そう。興味が失せた。料理にも千石さんにも。
「もったいないことするなあ。一ノ瀬君みたいな地味な男性が千石さんを落とせるのかと同期の男どもとしては注目してたんだぜ。料理で女性を釣るなんて、斬新な技があるもんだと感心してたのに」
「……そうか。うん、彼女が料理に興味があるんなら、他の男も俺みたいに料理でお近づきになったらいいんじゃないかな」
俺はそこから先には進めなかったが、料理をきっかけに恋人づきあいを深められる男は他にいるだろう。
俺が誘っておきながら、俺が放り出すような形になって、ここは少しばかり千石さんに後ろめたい気持ちがあった。
「一ノ瀬君と同じってわけにはいかないからなあ……」
「なんで? 料理ってそんなにハードルの高いものじゃないよ。高校までの家庭科で調理実習ってあっただろ?」
「いやあ、一ノ瀬君のキャラってのがあるからさあ」
キャラ? 彼女は一応俺の人柄にそれなりに好意を持っていてくれたのか。それなら申し訳ないことをした……。
「一ノ瀬君って、女性と接点なさそうじゃん?」
「……」
少々ムカッとするが、事実なので仕方ない。
「『モテない男性だからかわいそう』って千石さん言ってた。『真面目なのにかわい
そうよね』って」
かわいそう?
「俺たちさあ、もう社会人じゃん? 女性だと就職の次は結婚を意識する人も出てくる年齢だろ? 一ノ瀬君みたいな堅実な男性が結婚相手としてはいいわけじゃん」
「結婚……」
「千石さんはバリバリ働きたいからさ。料理をしてくれる男性が良かったみたいだよ。家に帰ったら温かい手料理が待ってる、そんな暮らしがいいってさ」
料理なら作るにやぶさかではないが……。
「一ノ瀬君なら結婚後も喜んで料理を作ってくれるいい結婚相手なのに、それなのに、冴えなくてモテなくて『かわいそう』だって。だから自分が相手を『してあげよう』って思ってくれてたみたいだぜ」
「『かわいそう』とか『してあげよう』って、千石さん自身がそんな言葉を使ったの?」
相手が少し顎を引いた。
「あー、まあ、そんな言われ方は男としてはプライドが傷つけられるかもしんないけど。まあ、あれだけの美女なんだからさ。ちょっと女王様みたいなところあっても仕方ないんじゃね?」
彼は使い終わった箸をトレイに置いた。
「女王様に『へえへえ』って
「じゃあ、君がそうしたら?」
俺もまた、フォークを置いてトレイを持って立ち上がった。お皿にブロッコリーが残っている。食器回収口に食器を置いてから、それだけ指でつまんで口に放り入れた。
そして営業の同期に聞いてみる。
「千石さんは、『かわいそう』な俺には、連絡取ろうとしないの?」
「おいおい」と彼は頭を振った。
「『かわいそう』な側から平身低頭して連絡とるべきなんじゃない? そこは」
「そうか……」
ならいいや。俺は彼女に「かわいそう」と思われるのはまっぴらごめんだ。俺の知らないところで俺のことをかわいそうと思うのは好きにすればいいと思う。だが、もう関わり合いになりたくない。俺が彼女の「かわいそう」の範囲からズレた時に、どんな毒々しい悪意を向けられるか分からない。そんな目にあうのはごめんだ。
千石さんは美人だ。だけど、トルコレストランでM国のお母さんを罵っていた彼女は生理的に受け付けられなかった。
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