第46話 藍の右手、僕の左手

 妙子さんと藍とが公園で掴み合いをしたその翌日、藍からメッセージが届く。もう一度だけでいいから会いたいと言ってきた。場所も時間も指定してある。大通りのイタリアンレストランだ。


≪奏輔が来なくても、あたしずっと待ってるから≫


 その言葉に何か不穏なものを感じたが、今回ここで会ってきちんと言い聞かせれば藍も収まりがつくだろう。そう思った。


僕が店につくと藍は無表情で俯き席についていた。


「よお」


「うん……」


 眼を合わせずうつむいたままの藍の姿に違和感を覚える。いつもならはじけるような笑顔でお喋りが止まらないのに。それは藍が受けた傷の深さを表しているような気がして僕は胸が痛んだ。

 藍がコース料理を僕の分まで頼んだ。僕たちは薄暗い店内で黙々と食事をする。僕は何をどう切り出せばいいかわからなかった。藍もそうだったのかも知れない。

 肉料理は子羊のカッチャトーラだった。ナイフとフォークを静かに鳴らしながらついに藍がぽつりと呟くように喋る。


「奏輔さ…… あたしといるとつらいからあの年増のもとに走ったの?」


 半分図星だ。ピアノを弾く能力を失った僕にとって、藍の天才的な演奏を聴き続けることは拷問に等しい。その一方で妙子さんは音楽への知悉ちしつがない分物足りなくも安心していられる。


「……ノーコメントだ。この手の話は藍が一方的に苦しむだけだから。もうよそう」


 僕は子羊のカッチャトーラをナイフで切りながら言った。


「ねえ……」


 だが藍はそのつもりはなかったようだ。藍は子羊をナイフで上手に切り口に運びながら上目遣いにこちらを見る。


「もしあたしが音楽をやめたらどうする?」


「なんだって」


 僕はぎょっとした。藍が音楽をやめるなんて考えもしなかったし、そんなことはあってはならないと思った。僕は食事の手を手を止める。


「何言ってんだ。どうするもこうするもない。藍は音楽をやめちゃだめだ」


「なんで」


「藍の手は、指はいずれ世界の財産になる。僕はそう信じてる」


 藍は黙っていた。黙って肉を切っていた。肉をひと切れ飲み込んでからようやく口を開く。憂うつそうな声だった。


「あたし、別にそんなものになんてなりたくないよ」


 血のように赤いワインで肉片を喉の奥に流し込む藍。


「藍はこのままいけば、多くの人に希望と喜びをもたらす存在になるんだ」


「だったら、なおさらそんなの止めたい。そんなもんのためにあたしピアノやってんじゃない」


「藍……」


「そしたらさ…… あたしが音楽捨てたらさ、あたしを取ってくれるかな? だってそうしたらあたしもう奏輔苦しめないよ? だからいいよね」


「藍は音楽を捨てちゃだめだ。藍にとって音楽が全てだろ」


「ううん、違うよ。あたしにとっての全ては奏輔。そんなことにも気付いてなかったの?」


 うつむいたまま羊肉を食べるのに専念しているように見える藍の、この何気なく放たれた一言に僕は絶句した。ようやく言葉を振り絞る。


「それにはもう僕は応えられない」


「でも奏輔はあたしが音楽を捨てればきっと来てくれる。そう信じてる」


「どうしてそう信じきれる」


「奏輔ってば優しいから」


 そう言って面を上げそっと僕にほほ笑みかける藍が怖かった。僕はなぜか背筋が冷たくなる。


「だけどね、いきなり音楽を捨てるって言っても奏輔には信じられないと思んだ」


「あ、ああ」


「だから今、奏輔の目の前で証明してあげる。あたしが今ここでこの瞬間に音楽捨てるって」


 言っている意味が全く分からない。


 何食わぬ顔で藍はそれまで子羊を切り刻んでいた左手のナイフを高々と掲げ、右手の甲に勢いよく突き立てようとした。


 藍から音楽を失わさせてはいけない。音楽こそが人の苦しみの全てを癒せるものだから。僕も藍のピアノに苦しめられながらも同時に心を癒されてきた。そしてきっとこれからの藍自身でさえも。


 僕はとっさに左手で藍の振り下ろしたナイフを掴む。その先端は藍の手の甲まであとわずか二、三センチといったところだった。きつく握りしめた僕の指の間からゆっくりと血が流れ出す。ナイフの先端から真っ赤な血が滴り落ち藍の右手の甲を赤く濡らす。これで「スクリャービンの左手のための小品」も弾けなくなったかもな。僕のピアニスト人生は今完全に終わった、僕はそう思った。だけど、時を経た今でも後悔はしていない。


「どうして……」


 愕然とした表情で血を流す僕の左手を見つめる藍。僕は強い調子で噛んで含めるように藍に言い聞かせる。


「藍は、僕みたいに、ピアノを失くしちゃいけない。絶対に。音楽は藍そのものだからだ。僕にとってもそうであるように」


 僕は妙子さんの前夫がつけた細い傷痕のある右手で、茫然として身動しない藍の指をこじ開け、赤ワインのような血にまみれたナイフを取り上げ皿に放る。ナプキンで血まみれの左腕をくるみ病院へ急いだ。藍は半ば放心した表情のまま無言でついてきていた。藍はこのままでは何をするかわからなかったので、ついてきてくれて助かる。病院では親指以外四本の指それぞれ一針から三針ほど縫った。この街に来て既に一回縫っているので僕もすっかり慣れたものだ。


 病院での処置も終わり薬の処方を終わって薬局の扉をくぐると、背後で藍のボソッとした声が聞こえた。


「……」


「え、なに?」


「ごめん…… ごめんなさい……」


 背を丸めうつむいて弱々しく声を吐き出す藍。


「いいや、謝るのは僕の方だ。すまない」


「え?」


「藍が自分の身体を傷つけてしまうほどに苦しんでいただなんて気づけなくて本当にごめん。すまなかった」


「でも左手まで怪我させちゃってあたし…… あたし……」


 藍の声が震え出したので、近くのソファに座らせ、右手で藍の肩を掴み軽く揺する。


「いいんだ。気にするな。これは藍の苦しみに気付けなかった僕への罰だ。当然のことだ。いいな。気にするんじゃないぞ。藍は悪くない。悪くないんだ。わかったな」


 街灯に照らされた病院前の電停まで行く。藍は背中を壁に預けずるずると冷え切ったホームに屈み込んだ。そして両膝を抱え、そこに顔を埋めてさめざめと泣き出した。


「つらいよ…… つらいよう…… なんであたしばっかこんなにつらいんだよう…… 奏輔え…… 奏輔ぇ……」


 僕は黙って隣に立っていることしかできなかった。


 藍の部屋まで送ってやった。静かに泣きながら、僕にそばにいて欲しいと懇願する藍。そんなことをしたら藍は多分立ち直れなくなる。そんな気がした僕は藍のアパートから去った。アパートの部屋の薄いドアの向こうから、藍のすすり泣きが聞こえたような気がした。


 手の怪我のこともあり、その足で冨久屋に行く気にもなれなかった僕は、自分の部屋で薄くて冷たい布団にくるまる。布団の中で左手指に痛みを感じながら、藍のことばかりを考え罪の意識に苛まれつついつの間にか眠りに落ちた。朝四時、痛みと寒さで目覚めた僕は少し涙を流していた。


 翌日、気になった僕は駅ピアノに行ってみたが藍はいなかった。何か嫌な予感がして藍の部屋へ行ってみると、鍵もかかっておらずもぬけの殻だった。僕はそれっきり藍を見ることはなかった。

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