第47話 別れのリサイタル

 ここのところいい陽気が続いていて、僕たちは本格的な春の到来間近を実感していた。


 この日の午後、妙子さんは僕のアパートに来る予定だったが、勤務先から出勤を命じられ朝からパートで忙しかった。おかげで僕はぽっかりと空いた時間を持て余している。


 部屋でうだうだしているのもしゃくなので妙子さんと一緒にする予定だった部屋の掃除を一人で始めた。郵便受けに放り込まれるチラシや没になった楽譜の束をを整理しようとしたところ、そこからはらりと一枚の紙きれが舞い落ちる。僕はそれを手に取りはっとした。


 雪華コンクール金賞受賞者のリサイタルチケットだ。


 日付は今日。時計を見るとまだ一時。二時からのリサイタルには間に合う。僕の心臓が低い音を立てて鳴った。これを手渡した時の藍のはにかんだ顔と、「絶対聴きに行くから」そう約束した自分を思い出す。


 聴きに行く? 僕が? 今更? そんなことをしたらまた藍が傷つくんじゃないだろうか。妙子さんが胸を痛めないだろうか。それだけでなく僕の気持ちがまたぐらつかないだろうか。


 だがそれ以上に藍の演奏が、ジュラフスキーと藍の連弾が、聴いてみたくなって仕方なかった。今回のリサイタルの選曲には深く関わらなかったものの、コンクールの曲選びや練習には力を注いだ。その練習の成果がこのリサイタルでも発揮されているか僕はぜひこの耳で確かめたかった。


 聴きたい。藍の演奏が聴きたい。どうしても聴きたい。それがどれほど苦しみを伴うものであっても。


 そう思うと僕はいてもたってもいられなかった。衝動的に部屋を飛び出し、鍵をかけるのもそこそこにリサイタル会場へと駆け出して行った。


 相変わらずの薄汚れた格好でリサイタル会場にたどり着きパンフレットを受け取る。曲目を見る。


 リストの愛の死、モーツアルトのレクイエム 二短調 ラクリモサ(Lacrimosa=悲しむ女)、ベートーベンの月光全楽章。連弾曲はシューベルトの人生の嵐。いずれも藍の得意そうな重厚で重苦しい曲ばかりだ。一曲目の「愛の死」、二曲目の「ラクリモサ」と言う言葉が僕に重くのしかかって来る。とてもではないが記念リサイタルにふさわしい曲目ではない。これはやはり今の藍の心象を表しているのだろうか。僕は悲しい憂うつ感を覚えながら一番後ろの目立たない席に座った。今藍に会うわけにはいかない。それは彼女にあまりにも大きな動揺を与えるだろうから。僕の塞がりきっていない左手の指の傷が疼いた。


 驚いたことに藍はドレスを着て登壇した。いつもどおりによれよれの普段着かそれともせいぜいスーツくらいを着てくるのかと思っていた。真っ黒なドレスはまるで喪服に見えた。やはり「愛の死」への「レクイエム」を奏でるつもりなんだろうか。

 一曲目から人々の涙を誘いかねない見事な、いや、とてつもない演奏が続く。なるほどこれまで幾度も思った通り、藍の演奏はその性格とは真逆の暗鬱でネガティブな曲が本当によく似合う。


 耳を澄ましてみる。明らかに初めて会ったころより格段に巧くなっている。僕が初めて藍の曲、ショパンの夜想曲第19番を聴いて衝撃を受けてからもう五ヶ月も経つ。あの時僕は月光の第三楽章を弾いたんだ。そう思うと息がつまるような感覚がして右手の甲に引きつれるような痛みが走る。心の奥にかろうじて押しやっていた絶望と藍への羨望が湧き上がってくる。焼けるような苦痛を全身に感じる。


 弾きたい。ピアノが弾きたい! 思うがままに弾いてみたい! 悔しくて涙が溢れてきそうになるのを必死でこらえて気を落ち着ける。


 深呼吸をして僕は苦悩を自分の中に封じ込めると背もたれに身体を預け、藍の音楽に集中した。そして僕と藍の音楽について思い出していた。初めて会って互いのピアノに影響を受け合ってからずっと楽しかった。僕たちはそれなりに結構頑張ったよな。少ない時間と金をやりくりして精一杯のことはしたよな。結果だって今こうして出しているもんな。僕たちのやったことは間違っちゃいなかったんだ。そう思うと胸苦しさを感じる中にも小さな喜びが湧き上がってくる。


 最後のジュラフスキーとの連弾は圧巻だった。ジュラフスキーに決して負けていない藍の感性。個性と個性がしのぎを削る演奏に僕は飲み込まれた。改めて激しい羨望と嫉妬が生まれ右手が疼く。ぎゅっと右手を掴む。苦しくて苦しくて胸が張り裂けそうだ。なんて美しい旋律なんだ。この美しさがこれほどの苦痛を生むなんて。ああ、その場に僕も立てたのなら。


 この手の記念リサイタルにしては破格の拍手で、半分以上の観客が立ち上がって拍手をする。やはり藍の才能はとてつもない。僕なんかとは比較にもならない事を改めて感じた。


 さようなら。さようなら藍。藍はこれからモスクワ中央音楽院に行き、僕とはけた違いのその才能に見合った人生を送るだろう。もう永久に僕の人生と重なることはない。今までありがとう。楽しかった。さようなら…… 永遠に……


 感傷に浸る間もなくアンコールが流れ始める。一曲目はクライスラー=ラフマニノフの愛の悲しみだった。


 二曲目はブルックナーの思い出。この選曲も藍の僕への決別を意識させるものだった。すると突然またあの感覚が甦る。それも今までで一番強烈な感覚。藍の演奏でしか体験したことのない幻覚。


 今度は身体も動かせない。身体中が椅子に張り付いたように動かない。視線は一点を見つめたまま。その先には喪服のような黒いドレスを着て演奏する藍がいた。身体中が緊張して、やがて視界に入る観客席や舞台やピアノを弾く藍を遮るかのように次々と映像が浮かんでくる。これまでの幻覚と違い過去の映像や感覚が走馬灯のように浮かんでは消えていく。


 ショパンの夜想曲第19番を弾く藍を初めて見た時。お尻まであるつやつやしたロングヘアーをひるがえし細い身体をくるりと回転させる姿。ハシバミ色の瞳をいたずらっぽく輝かせてわがままを言う時の表情。男顔負けに豪快にラーメンをすする姿。僕の音楽人生に新しい道を指し示してくれた、作曲の教則本を手渡す藍の少しおずおずとした様子。天真爛漫に大口を開けて笑う顔。僕の腕にしがみ付いた時に見せる挑発的なほほ笑み。化粧をして少しすました顔になる唯。シューベルトの幻想曲を連弾し終えた時の爽快な表情。練習に集中している時の少し怒ったようにも見える真剣な顔。僕の指に長い指を絡ませてきた時の胸の痛み。膝枕をしてやった時の藍の髪の手触り。初詣で繋いだ手の感覚。そしてキスの感触。藍の驚いた顔。怒った顔。藍の頬を叩いてしまった時の手ごたえ。細くて長い手をさし伸ばし寂しいと言った時の顔。震えながら僕の前から歩み去っていく後ろ姿。全てが優しくもあり悲しくもある切ない思い出だった。


 走馬灯のように流れる幻覚に翻弄されながら僕の中で何かが爆発していた。わずか五ヶ月間共に過ごした藍が、これほどまでに僕にとって大きな存在だったとは思いもしなかった。全てが僕にとって心の底から愛おしい記憶だった。この愛おしさを捨てるわけにはいかない。この感情はなんだ。これが妙子さんの言う本当の恋なのか。だとしたら僕が妙子さんに対して抱いていた想いはなんだったんだ。僕は呆然と目を潤ませこの幻覚に耐えるしかなかった。僕の視線のはるか先にいる藍がよく見える。まるで藍を望遠鏡でクローズアップして見ているかのようだ。その藍は泣いていた。鍵盤に涙をこぼしながらピアノを弾いている。僕は藍にどれだけ苦しい思いをさせていたのかを知り、僕まで申し訳なさで胸が苦しく目頭が熱くなった。


 演奏が終わると僕の幻覚も解けようやく体の力が抜けた。汗をびっしょりとかいて脱力した僕はすっかり疲れ果てていた。

 三曲目が奏でられた時僕ははっとする。これは僕が藍にプレゼントした「さよならの涙」と言う曲だった。僕はそれを最後まで聴き終わらないうちによろよろと席を立つ。そして楽屋前に小さな白い花束を置いてホールを去った。

 ホールを出て強い北風に吹かれた僕は身体を震わせると飲み屋街へ向かった。とてもではないが冨久屋に行く気にはなれなかった。どんな顔をして妙子さんに会えばいいかわからなかった。冨久屋によく似たカウンターしかない酒場の隅で僕は一人飲みながら思いを馳せる。僕の想い。藍への、そして妙子さんへの。

 あの幻覚がなければ僕は何もかも見誤ったままだったかもしれない。僕の選択は決まった。だがまだ腹は決まっていない。明日、妙子さんが僕のアパートに来る。そこで僕はなんと言えばいいのか。全く見当がつかない。僕は妙子さんを傷つけたくはない。しかし、それはできない相談だろう。きっと明日、僕は妙子さんを深く傷つけるに違いない。妙子さんは怒り、僕をなじるかもしれない。そんな自分が許せない。

 叫び出したい気持ちを抑え僕はひたすら一人で酒をあおるしかなかった。


◆次回

第47話 早春のジムノペディ

2022年8月22日 21:00 公開予定

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