第39話 熱発
翌日、僕は昨日の藍の様子が気になったのと、無性に藍の演奏が聴きたくなって駅ピアノに行った。藍がモスクワに行ったらその演奏ももう聴けなくなってしまう。そう思うとなんだか切なくなってきて、いてもたってもいられなくなったからだ。藍の演奏を聴くとあんなにも僕の心はざわついて苦しいのに、いざそれが聴けないと思うとどうにもやりきれなかった。ところが、藍はそこにいたもののどこか様子がおかしかった。
「どうしたんだ?」
「ん? なんでもないなんでもない」
そういう藍の顔は真っ赤だった。
「なあ熱でもあるんじゃ」
僕が藍の広い額を手で触れる。
「ひゃ」
「おい、めちゃくちゃ熱いぞ。今日はやめたらどうだ」
「奏輔の手冷たくて気持ちいいー」
抵抗もせず僕に身を任せ目を閉じる藍。おかしい。いつもと違う。そう言えば息も荒いようで心なしか震えてるような気もする。僕は藍を説得してアパートまで連れて行った。やけに素直な藍を普段着のまま布団に寝かせてから僕はドラッグストアに行く。藍の部屋に戻るとドラッグストアで買ってきた体温計で熱を測らせる。
「ねえ、39.2℃だって」
なぜか得意そうに言う藍に腹が立ったので軽くデコピンしてから藍の額に冷却シートを貼る。
「はー、気持ちいい」
無防備に嬉しそうな顔をする藍。古臭い石油ストーブの火力を上げる。水を張ったやかんをストーブの上に乗せる。僕は鍋に火をかけようと台所に向かった。
「奏輔どこ行くの」
藍が今まで聞いたことのない心細い声を出す。
「台所に行くだけ。どこにも行かないよ」
「うん、早く帰ってきて」
僕は鍋でお湯を沸かし
「どうせ何も食べてないんだろ。これくらいは飲んどけ」
「うん。いただきます」
今日の藍はひどく素直だ。
口で吹いて冷ましながらゆっくり時間をかけて
「なんだか奏輔お母さんみたいだね」
僕ははっとした。藍は二歳の頃に両親と死に別れていたことを思い出したからだ。僕は一瞬何と言っていいかわからなかった。
「お母さんってこんな感じなのかなあ……」
布団をあごまで引っ張り上げ、半分目を閉じてうつらうつらしながら呟く藍。
「奏輔があたしのお母さん、か。ふふっ、変なの」
「藍には素敵なおじさまがいるんだろ」
「うん、でもおじさまはおじさまだよ……奏……輔と……違う……」
「え? なんだって? よく聞こえない」
「奏 輔みたいな…… お母さん……だった、らいいな……」
そのまま藍は深い眠りに落ちていった。
僕は真ん中分けにして前髪のない藍の髪を
その時僕は息を呑む。妙子さんが僕の頭の中に思い浮かぶ。僕に献身的に尽くしてくれる妙子さんが。僕はどうしたらいいんだろうか。いや、僕には妙子さんを捨てるような真似はできない。当然のことだ。ならば僕はもうこれ以上藍といてはいけないのか。そう思うと僕の心臓に鋭くて太い針を突き立てられるような痛みを感じる。ひどく悲しくとてつもなく寂しい。僕は選ぶことのできない分かれ道でまた立ち尽くし、藍の布団の隣に横になった。妙子さんと藍のことを考えながらうつらうつらと浅い眠りが僕を包む。妙子さんと藍が僕を笑いからかいながらゆらゆらと揺れる。そんな姿が現れては消えていった。
「……輔。……奏輔」
藍の声が耳元で聞こえる。ゆっくりと目を開け、声のした方を向くと、顔がくっつかんばかりの距離に藍の顔があった。
「うわあ!」
僕は飛び起きた。藍は布団の中に半分潜ったまま僕に笑顔を向けていた。藍は笑っていた。今まで見せたことのない優しく穏やかな笑顔だった。
「おはよ」
「あ、ああ、おはよう」
どうやら僕たちは晩ご飯も食べずに朝まで寝ていたようだ。
「ずっと看ててくれたんだね」
「いや、途中で寝ちゃったけどな」
「ううん、それでも嬉しい」
「具合はどうだ」
「それがもうすっかり元気でさ! 奏輔のおかげだよ」
「そう言うにはまだ早い」
僕は藍に体温計を渡した。測ってみると37.4℃だった。
「ほら治った」
「まだ微熱あるんだからもう一日ゆっくりしてなきゃだめだ。昨日だってあんなに熱があったんだから」
「これくらいどってことないよう。バイトだってあるんだしさあ」
「それならなおさらだ。しっかり休んで仕事は明日からにしろ」
「ちぇっ、ほんとにウザいお母さんみたいだな」
「なんだって」
「いいえなんでもありませえん」
缶ビールだらけの冷蔵庫の中に、冷や飯と賞味期限切れ間近の卵があった。これで玉子粥を作り二人で朝食にする。藍はなんだかとっても嬉しそうだった。
「なんかこれほんとに夫婦みたいだね」
「ばか言え」
食器を片付け終わると藍がからかうような甘え声で僕に何かをねだって来る。
「ねええ、汗かいちゃったから服着替えるの手伝ってえ」
「ばかっ! 手伝えるかっ!」
大笑いをする藍自身に着替えさせ、その間僕は外に出ていた。寒かった。
藍はその性格からして身体を動かしていないと落ち着かないのではないか。こうして布団に横になったままではつらいに違い。そう思いながらもできる限りは寝るように言った。意外にも藍はおとなしく寝てくれたので僕はほっとする。僕がバイトに行ったり買い物に行ったりしていた間も布団でおとなしくしていたようだ。
夕食にはネットで調べた玉子あんかけうどんを作る。藍は嬉しそうに完食した。
「優しい味」
うどんをすすりながら藍は言った。
「そうかな」
手作りの料理を褒められたこともないので、僕は照れた。
「うん。優しい人が作ると料理も優しい味になるんだね」
「いやいや、優しくない。優しくないから僕」
優しい料理というのは妙子さんの料理のようなものを言うんだ。そう考えたらその妙子さんの優しさが僕の胸に痛く突き刺さる。
僕自身は妙子さんと藍の間でゆらゆらしていて、優しいなどとはおくびにも出せない。いつか二人を深く傷つけてしまう予感に僕は鳥肌が立った。
「謙遜しちゃって」
ふふっと笑う藍。
「でもさ、でも…… その優しさがさ……」
「ん?」
「いやっ、何でもないっ」
そう言うと慌てたように乱暴にうどんをかき込んですする藍。
その晩も藍に懇願されて僕は藍の部屋に泊まった。僕もなぜか帰る気にはなれなかった。病人の藍は布団に寝かせて、僕はそのそばにごろ寝した。
朝、僕の方が先に目が覚めると、寝ている藍の指が僕の眼の前の手の指にゆるやかに絡まっていた。僕は藍の長い指の感触に少し苦い感覚を覚えながら指をそっとほどく。台所に立ち朝食を用意する。
トーストにスクランブルエッグに昨日買ってきたポテトサラダといったごく普通の朝食にして藍と二人で食べた。藍はもう平熱で元気な上楽しそうによくしゃべる。すっかり良くなったようだ。僕はここからバイトに向かうことにする。布団を畳んで藍も出かけるようだ。
「じゃ、僕はこれで。治ったからってあまり無理はするなよ。今日までは駅ピアノも休むんだぞ」
「大丈夫だよ。無理なんてしないし。ピアノも行かない」
そう言うと急に藍がまじめな顔になる。
「それと、看病とかご飯とかほんと色々ありがと。嬉しかった」
「いやいや、苦しい時はお互いさまって言うだろ。気にするなよ」
「じゃ、奏輔が倒れた時はあたしが看病するね」
「ああ、間に合ってる間に合ってる」
「間に合ってる? 間に合ってるって?」
藍は不思議そうな顔をする。失言だ。僕は冷や汗が出る。
「ああ、そうじゃなくて僕は馬鹿だからそもそも風邪なんかひかないし……」
「ふうん……」
何か不審そうな顔になった藍だが、すぐにさっきの表情に戻る。
「まいいや、お互いさまってことで、奏輔の時はあたしに看病させてね」
「あ、ああ……」
扉を閉めて僕はバイトに向かう。その間灰色の雲の下でずっと僕はこれからの行き先を自分に問いかけ続けた。全く何の答えの出せない問いを。それはモスクワか、函館か。
バイトが終わったのは夕刻過ぎだった。少し疲れたので冨久屋には寄らずに帰る。
すると部屋の小さなテーブルの上に紙切れがあった。妙子さんからのメモだった。
≪お帰りが遅かったので帰ります。冷蔵庫にお食事があるので召し上がってください≫
と記されている。僕は慌てて小さな冷蔵庫を開く。そこにはボリュームたっぷりで美味しそうなブラウンシチューと小鉢がラップに包まれて保管されていた。僕ははっとしてスマホを見た。電池切れだった。急いで電源ケーブルを繋いでメールを検索する。いくつものメールがある。昨日の〇時過ぎを最後にそれは途切れていた。
悪い事をした。僕はそう思った。一昨日の冨久屋は定休日だったから、僕の事を思ってきちんとした食事でも、と考えたのだろう。だけどその頃の僕は藍の看病にかかりきりだった。
この埋め合わせをしなくてはな、と思ったところで息が苦しくなる。埋め合わせ? 僕はいつまでもそんなどっちつかずの事をしていいのか? 僕のような男に好意を抱いてくれる女性なんてそうそうはいるものか。ところが妙子さんも藍も僕に好意を抱いているように思える。こんなどっちつかずを続けていたら僕は両方から嫌われ蔑まれて終わるだろう。
昨日の僕は確かに妙子さんを捨てるような真似はできないと思っていた。じゃあそうなのか、僕は妙子さんを選ぶべきなのか。選ばないといけないのか。それとも。そうしてまた僕は答えの出ない選択肢が目の前に現れる。二人の姿が頭に浮んでは消え僕は冷たい部屋で一人頭をかきむしって呻いた。
◆次回
第40話 ふたつにひとつ
2022年8月15日 21:00 公開予定
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