第38話 モスクワ

「ねえ、このあと話があんだけど……」


 駅ピアノの帰り、藍が海鮮丼のどんぶりをつつきながら言う。珍しく食欲がなさそうだ。僕たちは函館駅にほど近い海鮮居酒屋の格安ランチに来ている。どこか沈んだ声の藍に僕は違和感を覚えながらも「ああ、いいよ。どこ行く?」と答えた。

 居酒屋を出た僕たちは雪にまみれながら近場の古い静かな喫茶店に入った。僕は小じゃれたカフェはどうも苦手だ。

 喫茶店で席に着くなり藍は一通の大きな封筒を僕の前にぱさっと軽く放るように置いた。


「今どき封筒なんて古風だな」


 裏を見るとジュラフスキーの名が記されている。僕はぎょっとして慌てて封筒の中を改める。そこにはロシア語と日本語の便せんが入っていた。内容は藍のモスクワ中央音楽院への入学を認めることと、その簡単なスケジュール、そしてジュラフスキーからのまた会えることを楽しみにしている、是非この音楽院で研鑽を積んで欲しいとのメッセージだった。

 僕は興奮して藍に言った。


「やったな! ついにこの時が来たな! おめでとう!」


 藍は明らかに気乗りのしない表情で頬杖をつき、メロンソーダの氷をストローで突いていた。


「うん……」


「なんだしけた面して。もっと喜べよ」


「うん……」


「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」


「ちがうよ……」


 藍の声は少しすねているかのようで、口元も心なしか少し尖っているようだ。


「行きたかったんだろ? 前にジュラフスキーからこの話聞いた時あんなに喜んでたじゃないか」


「行きたかった…… そりゃ確かに行きたかったんだけど…………」


「じゃあなんで?」


「いざこれが来たらさ……」


 藍はメロンソーダから目を離し、こっちを正面から見据えて訊く。その強い眼に僕は息を呑む。


「じゃ、奏輔はあたしがモスクワ行って嬉しい?」


「そ、そりゃそうさ! これで藍はモスクワで一流の音楽教育を受けられるんだ。これ以上嬉しいことはない……って……」


 僕の語尾は尻すぼみに小さくなって消えてしまった。そう、モスクワ。藍がモスクワへ行く。東京でも函館でもない、モスクワだ。僕たちはもう会えなくなってしまうのだろうか。僕は言葉を失ってしまった。藍と会えなくなるだなんて、想像したこともなかった。たった四か月前に会ったのに、僕にとって藍はそんなにも大きな存在になっていたのか。


「わかった。もういい」


 藍は真意の読めない表情でガタっと席を立つと、そのままふいっと店の外に出て行ってしまった。僕が慌てて会計を済ませて店を出るとそこにはもう藍はいない。

 僕は北風に吹かれながら考えていた。藍の笑顔、藍の笑い声、藍の音楽。その全てが僕の前から消えていくのだ。音楽院を卒業すれば本格的な音楽活動に入り、もうここに戻ってくることもないだろう。

 あの駅ピアノで演奏することもない。あのラーメン屋で行儀悪くラーメンをすすることだってない。藍の部屋で朝まで音楽談議に花を咲かせることも紙鍵盤で連弾してふざけ合うこともない。化粧をした唯が細い手足を絡ませて僕にしがみ付いてきていたずらっぽい笑みを浮かべることもない。それが寂しかった。胸が痛くなるほどどうしようもなく寂しかった。


 そのあと僕は冨久屋に向かうが、妙子さんの笑顔を見ても一向に気は晴れない。一人黙って酒を飲む。そんな僕を心配そうに妙子さんが見つめていたのに僕は気付いていなかった。


◆次回

第39話 熱発

2022年8月14日 21:00 公開予定

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る