第36話 キス

 コンクールの最終本選を終わらせた打ち上げに僕は藍と夜の街に繰り出した。


「ほい、じゃ、どこ行く」


「サンシーロ」


「やっぱ帰るわ」


「わかったよう、竹芝のおでん焼き鳥居酒屋さん」


「ああ、あの何でもありの店。うん、いいんじゃないかな」


「よっしゃ、じゃ善は急げだぜー早く電停行こっ」


「おまえなあ、何はしゃいじゃって」


 そわそわと浮ついた藍と一緒に竹芝の電停を降りた僕もやはり舞い上がっていた。カウンター席にかけた僕らはとりあえず生ビールで乾杯する。そこからもうお互いお喋りがが止まらない。ビールの泡を手で拭いながら思い思いに今日あったことを口にする。


「賞金70万だよ70万。折半して35万。嬉しいなあ」


「まだ確定したわけじゃないんだぞ。気を緩めるな」


「緩めようとどうしようと今さらもうどうにもなんないじゃん」


「ま、まあそうだな…… ただ審査員の方で紛糾ふんきゅうして何もかも消えてなくなることだって無きにしもあらずなんだからあまり甘い夢ばかり見るなよ」


「はあい。なんだろうなあ、こう言うの『小姑こじゅうと』っていうの?」


「何か言ったか?」


「いいえ、滅相めっそうもございません」


「ただ、審査員がなんと言おうと今日の演奏は最高だったな」


「ふふふっ、会心の出来ってああいうやつだね」


「会場すっかり暗く沈み込んでお通夜みたいになってた」


「さすがあたし」


「さすが藍」


「そんなあたしに乾杯イエーっ」


 ジョッキを重ねる。カチン、と音がする。



 しかしいつも以上にハイペースで飲み続けた藍は珍しくカウンターに突っ伏し半分舟をこいでいる。


「なあ、聞こえてる?」


「聞こえてるよぉ」


「これからどうする」


「どうするって?」


「モスクワ中央音楽院行ってから先の話」


「うーん、わかんない」


「わかんないって…… 将来への展望とかないのかよ。向こうでピアニスト目指すとか、こっち戻ってきてピアノ教師や音楽教師やるとか」


「……今がいい」


 藍がぼそりと呟く。だが、呟きにしては真剣な響きがした。


「え」


「バイトして駅ピアノして奏輔とこうして飲みながらバカみたいな話してたまにコンクール出て…… 今みたいのが一番楽しい。決まり事だらけの生き方なんてごめん」


「藍……」


 なんて気ままで、そしてなんて自由な生活。大学で課題に追われるわけでもなく好きな曲を好きな時に弾く。そして音楽を肴に飲み語り明かす。もし手に怪我をしていなければ、それは僕にとってもある意味理想のような生活だったかも知れない。でも。


「僕はそういう生き方をし続けていたら、だめになっちゃうかもな」


「へえ、じゃ奏輔は? どうすんのこれから」


「僕? 僕か? 音大に復学しようか悩んでる。今ならまだ間に合うんだ。そしてピアノ科から作曲科に転科しようかとも思っている」


 僕は自分の心の迷いについて口に出せなかった。ここで言い出せていればあそこまで深く人を傷つけることはなかったのかも知れない。


「で、作曲家になるの?」


「まだ分からないけど…… できるのなら」


「……つっまんないの」


 藍はプイっと横を向いた。僕には藍のつやつやした髪に覆われた後頭部しか見えなくなる。


「みんなそうやって…… つまんない事に飲み込まれていって自分をすり減らしていくんだ。くっだらねえ」


 大きなげっぷをしてからがばっと上体を起こした藍。、気が抜けかかって半分くらい残ったビールを一気飲みする。


「おいちゃん! 大根たまごはんぺんスジつみれごぼてんちょうだい! あとねぎまたれで!」


「はいよ」


「あ、あのちくわぶってありますか?」


「悪いね、うちちくわぶ置いてないんだよ」


「あ、すいませんでした」


 しかしいきなり元気を取り戻した藍に僕は驚いた。


「お、おい飲み過ぎてたんじゃないのか? もう無理すんなよ」


「何が無理なもんか。これからじゃない奏輔、今日は金賞賞金七十万の前祝だあっ!」


「お、おう……」


 しかし藍の元気は一時間ももたなかった。


「う~う、なんかぐるぐるする~」


「本格的に悪酔いしてるじゃん、珍しいな。やっぱり疲れてたんじゃないか?」

 

 お店を早々に退散した僕たちは藍の部屋を目指す。あまりにも足元がおぼつかないので僕は藍に肩を貸してやった。どうしても僕たちの身体が密着する。


「いやあん、奏輔さんのえっちい」


「もう何言ってるのかさっぱり分かりませんわ」


「あははははは」


 藍の身体は細くて薄くても柔らかくしなやかで僕はどぎまぎした。下手な漫才を繰り返しながらようやく僕らは藍のアパートに着く。とにかく藍が使い物にならないので、足の踏み場もない六畳一間の部屋から布団を掘り起こし、僕が布団を敷いてやって着替えもしないままの藍を寝かせる。枕元には水を入れたコップも置いてやって、僕は電気を消そうとした。


「電気消すからな。鍵、ちゃんと自分でかけろよ」


「はあい」


 だらしない声で答える藍。


 電灯に手を伸ばしたところで藍が布団に寝たまま手招きする。


「奏輔…… ねえ奏輔え……」


「ん? なんだ」


 屈み込んだ僕に藍はゆっくり身体を起き上がらせて僕の首に腕を回す。顔が限界まで近くなる。鼻と鼻がくっつきそうだ。


「藍……」


「奏輔…… あたし、あたしさ……」


 頬を上気させ潤んだ瞳をした藍はさらに顔を僕に近づける。僕の動悸が極限まで激しくなる。もしキスをするならちゃんとしたシチュエーションで僕の方からしたい、そう思っていたことも完全にどこかに行ってしまっていた。このまま顔を近づけていいものか、僕は妙子さんのことなどすっかり忘れて藍の瞳をじっと見つめていた。藍がゆっくりと顔を近づけてくる。藍の酒臭くて熱くて速い呼吸が僕の顔にかかる。


 あと一瞬で僕たちの唇が重なる瞬間。


「おえっぷ」


 藍はえずいた。


「ううっ」


 ものすごい勢いで藍はトイレに駆け込む。僕は呆気にとられながらも激しい動悸が一気に鎮まっていくのを覚えた。トイレでひとしきり吐いた藍は台所で雑に口をすすいでコップ一杯の水を飲むと布団にすべり込む。


「はああ、すっとしたあ。おやすみい」


 そう呟くとすっきりした笑顔を浮かべながら藍はすとんと眠りに落ちていった。さっきまでのことは完全に忘れてしまったかのように。僕はすっかり毒気を抜かれ、気持ちよさそうに寝ている藍の枕元にあぐらをかいていた。このままじゃ自分から鍵をかけるなんてできないだろう。鍵をかけずに僕だけ自分の部屋に帰る、そんな不用心なまねはできなかった。僕は大きなため息を吐くと勝手知ったる藍のうち、とばかりに焼酎とグラスと氷を取り出してきて一人飲み始めた。カバンの中にあった楽譜や作曲の本を読みながら僕は夜を明かした。幸い藍はあのあと具合を悪くするようなこともなくすやすやと安らかな眠りについている。呆れ果てながらも僕はそれを見守っていられるのがなんだか嬉しかった。些細なことかもしれないけれど何か藍にしてやれているのが嬉しかった。


 翌早朝に藍は目を覚ました。僕は寝ぼけ眼の藍に声をかける。


「おはよう。具合はどうだ?」


「おはよ。んっ? 具合? 具合って?」


 藍は何の話か分からなかったようだ。布団からのっそりと起き上がる。


「おいおい、お前夜吐いてたんだぞ」


「え、全然覚えてない」


 僕は呆れた。それならキスしそうになった瞬間のことも覚えてないのか。


「じゃ、じゃあキ――」


「ん?」


「いやなんでもないなんでもない」


 僕は思わず口走ってしまいそうになった。慌てて口をつぐむ。


「それじゃ心配していてくれたんだ」


 意外にも藍は嬉しそうに微笑んだ。


「当たり前だろ」


「ありがと。ごめんね」


 藍が僕にしがみ付いてきそうになったので僕はそれを手で防いで帰宅の準備をする。朝早いバイトがあるから急がないと。

 バイトに向かう途中でもバイト先でも至近距離にまで接近した藍の顔がちらちらと頭に浮かんでは消えてゆく。あのままいったら僕たちはどうなっていたのだろう。そう思うと胸に甘酸っぱいものと重苦しい苦いものが同時にこみ上げてきた。


◆次回

第37話 賞

2022年8月12日 21:00 公開予定

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