第35話 コンクール

 雪華コンクール。

 この街に所縁ゆかりがあり、ここを拠点に活動する日本でも有数の音楽家武井千尋氏が主宰するコンクールで、地方コンクールとしては珍しく一般の部がある。金賞受賞者は自身のリサイタルだけでなく、今回から武井氏と旧知の仲である世界的ピアニスト、ジュラフスキーと連弾する栄誉が与えられる。そしてなんと賞金は70万円だ。


 藍の予選曲にはジュラフスキーが絶賛したリストの超絶技巧練習曲集第11番 「夕べの調べ」変ニ長調の演奏を動画に撮って動画投稿サイトに上げた。

 予選通過の通知を受け、第一次本選が街の芸術会館で行われた。ここで最終本選へ十名前後が絞り込まれる。まだ第一次なのにみんなびしっと決めた服で来ている。いつも通りの普段着というあまりにラフでよれよれな格好の僕たちは完全に浮いていた。仕方がない。他に着る服がない上に買うお金もないんだ。案の定、僕たちの格好は人々の注目を浴びるが、僕たちにはむしろそれが面白かった。外面にこだわる連中に目にもの見せてやりたかった。藍は多数の課題曲の中からラフマニノフの前奏曲プレリュード集,Op.32 13. 変ニ長調を弾いた。豊かな表現力が試される重厚で哀切な難曲だからこそ藍にふさわしい。明るい性格に見えて藍はそういった哀切な曲が得意だった。相変わらず緊張感のかけらも見せない藍。もはや呆れるというより感心する。藍が演奏を始めると一小節目からひと気のまばらなホール内にすーっと緊張感が立ち昇って来た。みんな藍の演奏に驚いてるな。僕は客席で一人にやりとする。

 藍は練習を上回る上々の出来で演奏を終えたあと得意気な顔で僕の隣の席まで戻ってくる。僕はハイタッチで藍を迎えた。満面の笑みを浮かべる藍。僕もここまで藍をなだめすかして練習させた甲斐があるってものだ。


 藍は面倒だと嫌がったが、僕は参加者全員の演奏を聴いておきたかった。改めて聴いてみると、他の奏者たちは思った以上に通り一遍の演奏で、藍と比べると独創性が圧倒的に足りない。これなら怪我する以前の僕でも突破できるんじゃないかと思うほどだ。藍なら楽勝だろう。


 予想通り一次本選も突破し、いよいよ最終本選。藍自身の豊かな表現力と、これまでの練習、そして本番に強いくそ度胸があれば決して難しくはない。


 二次本選の参加者は八名。持ち時間は二十分。ここに自由曲を自由に組み合わせて演奏する。


 僕は観客席のかぶりつきで他の参加者の演奏を聴いていた。既に四人の演奏を聴いている。

 やはり。顔触れが変わらない以上、音楽の内容も第一次本選とさして変わらない。

いける。これならいける。今までの藍なら「独創的でずば抜けた表現力が認められるが、技巧が拙く及第点には及ばず」と言ったところだろう。だが学生風情とは言え技巧には多少の自信があった僕が、その辺はしっかりと基礎からレッスンしたつもりだ。テクニックも充分及第点を取ってくれるものと信じている。僕は胸を高鳴らせながらも心の中ではすでに半ばほくそ笑んでいた。


 藍の順番は六番目だった。相変わらずのよれたセーターとデニムで飄々としてピアノ椅子に座る。

 一曲目はショパンのエチュード Op.10-6。藍の得意曲の中の一つだ。

 二曲目はリストで黒い雲S.199 R.78 変ロ長調

 三曲目はドニゼッティ歌劇愛の妙薬-人知れぬ涙

 どうしても難度が低めの曲を選ばざるを得ないが、音楽的には藍の性格とは真逆でいずれも暗く、聴いていて暗澹たる気分にさせられるような深く沈み込む曲ばかりだ。ホールに重苦しい雰囲気が漂う。藍の暗鬱とした表現力が人々を圧倒している。僕は満足の笑みを浮かべながらも他の聴衆と同じように気分がどんよりしてきていた。藍の演奏が僕の心にも影響を及ぼしている。僕がレッスンした通りミスもだいぶ減っている。それどころではない。今までで一番ミスが少ない。怪我をする前の僕からしてみれば、これくらい片目をつぶってもできて当然だと言いたいところだが、相変わらずこの本番力の強さは驚くべきことだ。もっと難しい曲にしてもよかったかもしれない。


 いよいよ最後の四曲目を藍が弾き始めると、観客席からも舞台袖からも不思議な雰囲気が漂い始める。多くの人が顔を見合わせ首をかしげる。今まで誰も聴いたことがない曲だったからだ。

 本選受験時の申告書にはこのような記載がされている。「四曲目、雪と風 作:入江奏輔」と。そしてこの曲は今回が初演だ。誰も聴いたことなどあるはずがない。


 雪に埋もれ音の消えた街、人々の上の重くのしかかる鈍色の雲と降り注ぐ雪。灰色の塊に押し潰されそうな屋根。白い息。古ぼけた建物のつらら、細雪、粉雪、ぼた雪、そしてついには吹雪。圧倒的な白い脅威に翻弄される人々。いつしか雪は止み雲も晴れ、静かな月夜が訪れる。今宵だけは、と人々は寝床で丸くなり穏やかな一夜を過ごす。だが明日のことなど誰にもわかろうはずもない。

 圧倒的な自然に翻弄され、それがもたらす気まぐれな静けさによってやっと人は安らげる。だがそれはほんの一時のことに過ぎない。と言う人間の弱さを描いてみた。どこまでできたかはさておき、難度的には藍に合わせ、音楽的には藍の表現力が一番伸びるように書いてみたつもりだ。


 突如僕の目の前が暗闇に覆われた。全身が痺れて指ひとつも動かせない。暗闇の中、曲に合わせて猛烈な吹雪が吹き荒れ始めた。冷汗をかきながら僕はこの幻覚に耐えた。やがて雪が止み雲が晴れ上弦の月が浮かぶ。僕は生まれて二度目の経験に驚きながらも藍の演奏に耳を傾けた。


 五分余りの演奏が終わる。完璧だった。完璧な上にも完璧だった。藍の演奏は文句のつけようもなかった。静かに降る雪も、吹き荒れる暴風雪も、その後の静かな月夜も、僕の意図を遥かに超えて表現してくれていた。そしてあの幻。僕は感激で鳥肌が立った。

 たくさんの人が拍手を送ってくれている。僕は驚いた。このような場でこんなにも多くの拍手を聞けるなんて思ってもみなかった。

 拍手をくれた人からは見えないとは思ったが、僕は立って深くお辞儀した。僕の処女作「雪と風」の初演は上々だった。と、僕は今でもそう信じている。


 舞台袖から藍がどたどたと騒々しく戻って来た。周りの人々が眉をひそめる。僕は立って迎える。藍が僕の胸に飛び込んで来ようとした。それは両手で押しとどめて、勢いよくハイタッチをする。ぱぁんと乾いたいい音がして手の平がじんじんするくらい痛い。だけど本当のことを言うと僕も藍とこの喜びをもっと分かち合いたかった。


「やったね」


 僕の隣にストンと腰を下ろした藍は既に勝利を確信しているようだ。


「まだまだだ。あとは審査員しだいだ」


「ふふっ、あたしがやっている時、ちらっと横目で見たら審査員席すっごいざわついてたもん。泡食ってるって言うかそんな感じ。ひひひ……」


演奏中のどこにそんな余裕があったのかと僕は呆れた。


八人目の演奏が全て終了するとホール内の緊張感が緩やかに解けていく。藍の緊張感も完全に解けていた。司会進行がぼそぼそと事務的な話を進めている。


「ねえねえ、これ終わったらさあ」


「しいっ、まだ話全部終わってないだろ?」


「もういいでしょ演奏終わったんだし。あとは結果待ち」


「じゃあその結果がどうやって通知されるか知ってるか?」


「え?」


「それを今舞台上で説明してんだからちゃんと聞けっ」


「ちぇっ」


「よし、二十日に通知発送。ちゃんと憶えとけよ、藍のところに送られるんだからな。間違って捨てるなよ」


「はいはいはいはい、もおうるさいなあ、捨ーてーまーせーんー」


「よろしく頼んだよ君ぃ」


「あ、なんかすごいやなやつな感じ」


「ははは、さっ帰ろっか」


「え、待ってやだよ」


「ん? なんだ、ずっとここにいたいのか?」


「ちがわい、じゃなくて打ち上げしよっ、て言ってるの」


「あー」


 僕の中でいろいろな打算がうずまいた。主にすがちゃんと冨久屋に関して。今から藍と打ち上げに行くとなると冨久屋にはもう行けないだろう。ただ、今日の選考会は小気味いいほどに上手くいった気がする。この気持ちを藍と分かち合いたい。僕はそう思って、今日ばかりは藍と飲もうと考えた。


「そうだな。行こう」


「やたっ、話わかるねっ」


「調子こいて飲み過ぎるなよ」


「よゆーよゆー」


 僕らは連れ立って夜の街に繰り出した。


◆次回

第36話 キス

2022年8月11日 21:00 公開予定

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