第21話 決して癒えぬ傷

 僕が負傷してから二週間が過ぎた。僕は早起きをしてストーブをつけ、万年床の上に座ってゆっくりと包帯をほどく。右手の甲には細い、だがくっきりとした傷跡が残されていた。手に力を入れて握ったり開いたりしてみた。握った時に軽く引きつれるような痛みがかすかにあるが、それ以外に痛みも痺れも張りもない。今のところは上々に見える。僕は思わず立ち上がって諸手を挙げた。

 朝からのバイトに行っていつも通りに力を使ってみたが、ごくわずかな痛みを除けば全く普通と同じだ。僕は嬉しくてたまらなかった。弾ける。これで今日からいつものようにピアノを弾ける。だが肝心なのがこれからだ。僕は気を引き締めて駅ピアノへ向かった。


 駅ピアノでは藍が待っていた。僕よりも僕の手のことを心配してる様子だ。


「どう?」


「よさそうだ」


「よかった」


 大げさなほどほっとした表情を見せる藍。藍でもこんな顔するんだな。

 僕が演奏しようとすると二十人近いギャラリーがざわめく。二週間ぶりの演奏なので緊張する。暑くもないのに手に汗をかいている。ゆっくりとピアノ椅子に腰かけ手を鍵盤に乗せる。僕が弾くのはベートーベンのピアノソナタ第8番ハ短調Op.13第三楽章。よく知っている曲で、リハビリには易し過ぎず難し過ぎない曲を選択した。

 出だしは悪くなかったと思う。だが次第に右手の指が引きつるようになった。遠くの鍵盤に指が届かない。いつものように指を操ろうとすると指が思うように動かず悲鳴を上げる。複雑な動きをすると指が全くついてこれなくなる。思いもよらないタッチミスが連続する。この曲でこれでは、さらに高難度の曲やテンポの速い曲ではどうなるのか。背中に冷たい汗が伝っていく。心臓が凍り付きそうだ。冷汗が止まらない。息が浅く早くなっていく。だめだ、まったくだめだ。

 あと四小節を残したところで、僕は右の拳で鍵盤を叩いた。耳障りな和音が駅構内に響き渡る。ギャラリーの大半は事情が呑み込めないようでざわざわとざわめいている。

 僕はいきなり立ち上がり駅から出ようと大股の速足で歩みを進める。早くあの呪いの箱から離れたかった。「奏輔!」と藍の叫ぶ声が聞こえる。


 駅から出る直前に藍が後ろからしがみ付いてきた。


「待って! 待ってよ奏輔! ちょっと落ち着きなよ!」


 藍のこんなに必死な声は初めて聞いた。


「落ち着いてるさ」


 自分でも不思議なくらい無機質な声が出る。


「じゃなんで、なんでこんな震えてんのよっ」


 ああうっとうしい。本当にうっとうしい。


「うるさいなあ、藍には関係ないからいいだろ」


 藍は僕の前に立ちふさがった。


「関係あるっ!」


 藍の大声に驚いて何人かの人がこちらに目をやる。


「どんな?」


 僕は心底めんどくさかった。僕の前に立ちはだかって両手を広げた藍は口を真一文字に結んで顔を真っ赤にし、押し黙ったままだ。


「とにかく今は一人でいたいんだ」


 そういい放つと僕は藍を押しのけて駅の自動ドアをくぐろうとする。


「奏輔っ!」


 藍が僕の腕に両手で掴まってくる。その藍の腕を思い切り振り払い怒鳴りつける。


「いいからほっといてくれ!」


 さすがの藍も僕の剣幕におじけづいたのか静かになった。


「僕はこれでもう藍とは関係ない。関係なくなったんだ、もう」


 外に出ると重苦しい灰色の雲から湿った雪がしんしんと降り続けていた。僕は雪がまつわりつくのも構わず歩いて自宅を目指した。しゃらしゃらと雪の降る音と、ぎしぎしと雪を踏みしめる音、そしてさっき僕が弾いた聴くに堪えないひどい演奏だけが耳から離れない


 僕のピアニスト人生は終わった。僕はもう死んだんだ。完全に死んだんだ。そう思った。


◆次回

2022年7月28日 21:00

第22話 音楽が僕を捨てた

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