第20話 すがちゃんとコンサート――違う世界

 いつものようにすがちゃんが僕の部屋に来てくれた夜のことだった。


「今度どこか行きませんか」


 僕は努めて平静を装い、三平汁を口にしながら言った。すがちゃんへのこれまでのお礼と慰労、そして僕の点数稼ぎを兼ねてデートに誘おうと思ったのだ。


「んっ?」


 氷頭ひずを口の中でコリコリ噛みしめながら不思議そうな顔をするすがちゃん。それを飲み込むと口を開いた。


「でもこの季節に行けるところってあるかなあ?」


 十二月ともなると外出できる場所もごくごく限られてくる。僕は無い知恵を絞った。


「うーん…… イルミネーション、函館山、五稜郭タワーとか」


「へえ…… それって定番のデートコースね。想さん、何を企んでるのかなあ? ふふ……」


「うっ」


 大人っぽくも可愛らしいほほ笑みを見せるすがちゃんに僕の顔は熱くなる。それにその表情はどことなく嬉しそうだ。僕の言葉は自然としどろもどろになってしまう。


「たっ、企んでなんかいませんっ。ぼくはその、いつもお世話になっているから少しくらいは息抜きをと思って……」


「ふふっ、ありがと。お気持ちだけいただいておきますね」


 涼しい顔で僕からの誘いを退けるすがちゃん。でも僕だってこのままでは引き下がれない。


「それじゃ公演を聴きに行くって言うのはどうです?」


「公演?」


「ああ、ええと、コンサートです」


「面白そう。誰の? GREISの?」


「いやいやそんなすごいチケットさすがに取れません。クラシックコンサートの地方公演です。おいやでなければ」


 すがちゃんの顔がパッと明るくなる。


「ジムノペディも聴ける?」


「あいや、ピアノリサイタルならあるかもしれませんが、普通はオケなので」


「桶」


「えーっと、オーケストラのことです」


「ああ」


「どうです? よろしければご一緒していただけませんか」


「私クラシックって聴いたことがないけれど、それでよかったら。想さんにそこまでお願いされたら断れませんもの。それになんだか興味出てきちゃった」


「やった、じゃあ今度探してみますね」


「はい。よろしくお願いします」


 僕は翌日から目ぼしいホールの公演予定を調べてみた。残念ながらピアノリサイタルはなかったが意外なことに地方交響楽団の公演が多い。そんな中でも札幌の交響楽団のコンサートを見つけた。しかも初心者向けと銘打ってある。

 演目はガラコンサートによくあるように多彩で、これならすがちゃんでも楽しめそうだ。早速チケットを購入した。


 その週の日曜日僕たちはホールのエントランスで待ち合わせていた。僕は待ち合わせ時間ギリギリに到着する。バイト先でミスした子のフォローに時間を取られてしまったからだ。

 この寒い中電停からホールまで走ったおかげですっかり汗だくになった僕をすがちゃんはとがめるでもなく笑顔で迎えてくれた。そのすがちゃんは冨久屋で見かける時のような服装とはまた違って楚々としていながら大人びた服装だった。僕はその姿にすっかり目を奪われた。それに気づいたすがちゃんは照れくさそうに少し顔を赤らめる。それがまた僕の胸を苦しくする。そのすがちゃんの服装に不釣り合いな格好をした僕が急に恥ずかしくなった。しかし、今さら何をどうしようもないし時間もなかったので急いで席に着く。

 パンフレットを見ながら僕がその曲について解説すると興味深そうにそれを聞くすがちゃん。身体を寄せ合ってそんな話ができる自分が幸せだった。


 まもなく開演。僕は胸の高鳴りと緊張感を感じながら演奏を待った。

 ブラームスの悲劇的序曲から始まったこのコンサートを僕は存分に堪能した。久しぶりに聞くオーケストラ演奏を僕は夢中になって聞いた。するとマーラーの交響曲 第5番 えいハ短調、アダージェットの第4楽章に差し掛かったころだろうか、僕の肩にすとんと何かが乗ったような重みを感じる。驚いて自分の肩を見るとそこにすがちゃんの頭がある。その瞬間、僕は驚き心臓の鼓動も最高潮に達した。寝てしまったんだろうか、それとも。僕の頭の中からマーラーは完全に追い出され、ただただすがちゃんの頭の事しか僕の頭の中にはない。心なしか甘いいい匂いがするような気さえしてくる。

 チャイコフスキーの交響曲第6番 ロ短調 Op.74 「悲愴」 第3楽章がかかると、すがちゃんはさっと頭を起こし、その後はもう僕に頭をのせたり寄りかかったりすることはなかった。僕は少しコンサートの演目を呪った。


 コンサートは盛況に終わった。充分な聴き応えだった。地元の交響楽団でこれほどの演奏が聴けるだなんて思ってもいなかったので大きな収穫だった。今度は藍と――などと思った僕はぎょっとする。これではまるで僕が二股をかけているみたいだと、そう思ったからだ。いや、藍はあくまでピアノ仲間や友達の範囲だ。だから二股ではない。必死になってそう自分に言い聞かせる。


 席を立つ前にすがちゃんを見る。すがちゃんはうつむいて少し元気がないようだった。それでも僕の視線に気づくとこっちを向いていつもと同じ笑みを見せてくれた。


「クラシックってすごいですね。私圧倒されちゃった」


 僕は素直に喜んで色々と小話を聞かせると、すがちゃんはそれを楽しそうに聞く。


 この後はほんの少し遠出をして明るくてきれいな喫茶店に入る。僕はチーズケーキを、すがちゃんはフワフワのオムレットを頼んだ。

 少し興奮気味の僕の口は止まらず熱っぽく音楽について語る。すがちゃんはそんな僕の話を笑顔で聞いてくれた。

 僕の熱弁を一通り聞いたすがちゃんは意外なことに少し表情を曇らせた。そして一言


「でも私、ちょっと寝ちゃって……」


 と言った。


 やはり寝ていたのか。すがちゃんの方から意図的に僕に頭を預けたわけではないと知って、あさましい僕は少し残念に思った。だがそれ以上に僕はすがちゃんが疲れているのではないかと心配になった。僕の身の回りの世話で余計な疲労が溜まっているのに違いない。僕はすがちゃんを弁護した。


「よくあるんですよ。特にあの曲のように穏やかなのは僕だって眠くなりますから」


「でも想さんは寝なかったでしょう」


「いや、それはまあそうですが」


 この時、実は僕も寝ちゃったんですよ、とでも嘘をつけばすがちゃんも胸をなで下ろしたかもしれない。


「でも寝ない演奏をするために指揮者も奏者ももっと努力しないといけないんです。結構いびきが聞こえてましたから、その点で彼らは努力不足だったと言えます」


 さすがにいびきはなかったが。


「そう言うものなの?」


「そう言うものなんです」


 僕の言葉に納得したようなしないような表情で紅茶を口にするすがちゃん。


「それにきっと日頃の疲れが溜まっているんですよ」


「えっ」


 すがちゃんは不思議そうな顔をした。


「冨久屋に行った日に僕のうちまで来ていただくだけじゃなく、土日までいろいろお世話をしていただいて。これからは自分のことくらいは自分でやりますし、僕の手のことならもう心配なんていりませんから――」


「いいえ、これだけはやらせて。どうかお願いします。これくらいしか私にできることはないの」


 ティーカップを両手に持ったまま固い表情で震え声のすがちゃん。強い、と言うよりあまりにも強すぎる決意らしきものすら覚える。


「でも」


「でももかかしでもなくて」


 いつか僕が言った言葉をまねて少し笑うすがちゃん。


「身が持たないですよ」


「いいのそれで。想さんこそ私のことは構わないで。お願い。これからもお世話させて」


 意固地なほどに強い意志を感じさせるすがちゃんの目に圧倒されて僕はただ渋々頷くしかなかった。

 実は今日も冨久屋は営業していて、すがちゃんはこのまま仕事に行きたがった。しかしせっかく有休を取ったのにもったいない、と僕は説得し、藍とも行ったことのない少し小ぎれいで高そうな居酒屋に行ってみる。すがちゃんは終始ソフトドリンクだったが、僕の飲んでいた冷酒に興味を示し一口口にする。たったそれだけで真っ赤になって陽気にしゃべるようになった。それがすごく可愛い。


 少しとろんとした眼で僕を見つめるすがちゃん。今ならもっと踏み込んだ話ができるかも知れない。


「あの……」


「ん?」


「この間冨久屋で二人っきりでいた時色々話してましたよね」


「そうねえ、色々話した」


 そう言って僕を見つめるすがちゃんは可愛いだけじゃなくてなんだかとても色っぽい。


「その…… 『難しいなあ』って」


「ああ」


「何がそんなに難しいんですか」


 すがちゃんは僕から視線を離しテーブルを見つめる。


「それは秘密。恥ずかしいから」


「恥ずかしいんですか」


「そ、恥ずかしいことなの」


 恥ずかしい事。一体どんなことなんだろう。僕の頭の中でそれこそ恥ずかしい妄想がむくむくと生まれていく。


「あーっ、今変なこと考えてたでしょ」


 すがちゃんがからかう様な顔になり僕の額を人差し指で強く押す。


「何考えてたんですか? ほら素直におねーさんに白状しなさい」


「いたたた、何でもない、何でもないですっ」


 更に額を指でぐりぐりされる。


「はっ、恥ずかしいことですっ、すいませんっ」


「ぷふっ、ふははっ、くすくすっ、正直」


「は、はあ……」


「でもそういう正直なところ、好き。それに免じてどんな恥ずかしいことかは聞かないでおくわね」


 すがちゃんの熱い視線に僕はどぎまぎする。


「あ、ありがとうございます」


 その後は特に色っぽい話もなく、そのままお勘定して店を出た。真っ黒い空から白い雪が降りしきる。


「あ、想さんの明日の朝ご飯作らなきゃ」


「だめです。今日はすがちゃんの慰労のために設けた日なんですから何もしないで下さい」


「ええー」


 すがちゃんは口をとがらせて抗議するが、必死にお願いして諦めてもらった。


 居酒屋から最寄りの電停まで歩く。雲に隠され月も星も見えぬ深々と底冷えのする夜だった。電停まで二人で歩く。僕たちは無言だった。市電に乗っても僕たちは何も話すことがなかった。それが心地よかった。僕たちが降りる電停の少し前でようやく僕は口を開く。


「今夜は直接すがちゃんのアパートまで送りますね」


 僕が言うとすがちゃんはぽつりと何かを言った。


「……」


 市電の揺れる音ですがちゃんのささやき声はかき消された。


「えっ?」


 すがちゃんは僕の耳元に顔を近づける。


「妙子」


 まだ酒が抜けてないのか火照ったような顔で僕を見つめる妙子さんに僕はどぎまぎした。


「えっと……」


「私の本当の名前」


 市電が急停車した。よろめいた妙子さんを僕が抱きとめる。妙子さんも僕の背中に腕を回してきた。そのまま妙子さんは僕を見つめる。


大須賀おおすが妙子たえこと言います」


 僕はどこかすがるような目つきでそう言った妙子さんの感触に言葉を失った。

 僕たちは同じ電停で下車し妙子さんのアパートに向かう。この間も終始無言だった。月明かりに照らされた僕たちは妙子さんの部屋の前にたどり着く。


「それじゃ、これで。今日は色々ありがとうございました」


 さっきとは違っていつは見せないどこか夢見心地の笑顔を見せる妙子さん。僕は勇気を出し緊張の面持ちで妙子さんに口を開いた。


奏輔そうすけです」


「え……」


入江いりえ奏輔そうすけ。僕の本当の名前です」


「奏輔……さん……」


「はい」


 僕のことをじいっと見つめていた妙子さんはふとほほ笑む。


「それじゃあ明日からまたよろしくね。奏輔さん」


「こちらこそよろしくお願いします。妙子さん」


 暗がりで冷たいアパートの防犯灯の下でははっきりしないが妙子さんはひどく寂しそうに見えた。鍵を開け部屋に入る前もう一度名残惜しそうに小さく手を振る妙子さん。

 僕も妙子さんの後を追ってあの部屋に滑り込めば何かが大きく変わるかもしれない。そう思ったが今の僕にそんな勇気はなかった。


 僕は自分のアパートに戻り一人で寝る。妙子さんの身体の感触、息がかかるほどの耳元で囁く声、切ない表情を思い浮かべながら僕はまんじりともせずに長い夜を過ごした。


◆次回

2022年7月27日

第21話 決して癒えぬ傷

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