第2話 絶望の音色――夜想曲

 午前中のバイトを終わらせれば、今日はもう何もすることがなかった。


 収入の不安定な憂うつと空腹感、そしてもう二年近くも拭い去ることができない言い知れぬ喪失感を抱きながら、僕は仕事場を出る。気が付くと人影のまばらな函館駅構内にいた。船をモチーフにしたこの駅は、比較的最近にできた鉄骨とガラス製の駅舎で、久々に見る陽光を浴び、ぴかぴかと輝いていてとてもきれいだ。


 もっとも、そんなものを見たからといって僕の空腹が満たされるはずもない。いっそ朝市に立ち並ぶ観光客向けの高い店に行って、空腹といらだちに任せて思い切り高い食事でもやけ食いしてみようか。そうしたら少しは気もまぎれるのかも知れない。

 その時、懐かしくて聴きたくもない音がした。ピアノの音色だ。Fisフィス。ファのシャープ。

 もう二度と耳にしたくなかったその音にぎょっとした僕は、なぜなのかゆっくりとその方を向く。そこには黒光りする一台のグランドピアノがあった。数人の若者がそのピアノを物珍し気にいじっていた。どういうことだろう。昨日までこのようなものはなかった。彼らはしばらくピアノをつま弾いていたが、飽きたのかすぐに立ち去って行った。

 彼らがいなくなると、ピアノの前には長髪が腰の下まである若い女性の姿があった。彼女はAアーの鍵盤を幾度か叩き、続いてDデーの鍵盤を叩いた。

 その仕草を見た僕は、もしかするとこの女性は調律師なのかと思った。すると、彼女は流れるような動作で角ばった黒いピアノ椅子に腰を下ろし鍵盤に手を乗せる。


 彼女の手が滑るように鍵盤の上を行き来し音が奏でられていった。


 一瞬僕にはそれが何の曲かわからなかった。それがショパンの夜想曲ノクターン第19番ホ短調Op.72-1だと気づくには一瞬の時間がかかった。ひどく暗くて僕は苦手だった。聴いたこともあまりない。


 だがたちまちのうちに僕はこのすすり泣くような演奏に飲み込まれていく。こんなにも濃密な演奏を聴いたのは初めてだった。暗鬱とした救いのない曲調に僕は絶望を見出した。空から暗黒の帳が下りてきて、僕を冷たく包み込んでしまう錯覚を覚える。いや、錯覚などではない。僕は間違いなく暗闇に閉じ込められ窒息してしまいそうだった。息づまる闇と静かな絶望と悲嘆は僕が今まで感じたどんな感情よりも深く、破滅の色をまとっている。僕が抱えている絶望感など些細なことにさえ思えてくるほどだ。


 かすかな灯火ともしびともったと思ったのもつかの間、その灯火ともしびさえも漆黒の風に吹き消される。かくして静かにか黒き闇が世界を支配する。


 まばらな拍手が響く。数人の観光客が彼女の演奏に興味を示していたようだ。それを耳にしてようやく僕は我に返る。喉に手を当てた。まだ息が苦しい。空気の代わりに黒々とした大気を呼吸させられていたみたいだ。首筋を汗が伝う。僕はこの幻覚に戸惑っていた。こんなことは初めてだった。

 本当に驚くべき演奏だった。しかしミスが多い。目も当てられないほどミスが多かった。なのにこの圧倒する力はなんだ。


 彼女は数少ない観衆に愛想を振りまくでもなくすっと立ち上がる。背筋を伸ばした彼女の姿を見て僕はなんだか自分が恥ずかしくもあり、悔しくもあった。その悔しさを源にしてか、僕の中にむくむくとピアノを弾きたい欲望が湧き上がってきた。


 僕だって。そうだ僕にだって。僕にだって弾ける。いや弾いてやる。驚いたことにおよそ二年ぶりの感情だった。


 男性が数人の仲間とおしゃべりをしながらピアノに向かおうとしていた。僕はそれに割り込むようにしてピアノ椅子に座る。何を弾くかもう決まっていた。昨日冨久ふく屋で話題になったベートーベンの月光ソナタ。ピアノソナタ第14番えいハ短調 Op.27-2。その第三楽章。


 最初の一音から僕は感情を鍵盤に叩き付ける。あれほどピアノを嫌がっていたのに、二年ぶりに対峙すると気分が昂揚こうようしてくる。そんな自分に腹が立つ。まあいい。超新星から吹きつけてくる恒星風をイメージする。そしてその暴風でさっきの曲によって生み出された、僕を覆いつくしている漆黒の絶望感を吹き飛ばしてみせる。今日までの自分の絶望がもしかすると些細なものだったのかも知れないと感じたことが悔しい。そしてそう思わせるほどの演奏をやってのけた見ず知らずの彼女への反発心、嫉妬、羨ましさがむくむくと湧き上がってくる。僕はこの演奏にその全てをぶつけた。そしてなぜかみじめだった。ひどくみじめだった。

 不思議なことに二年の空白を全く感じない。楽譜を読むまでもない。僕の脳細胞の奥にしまい込まれていた楽譜が僕を正しく導いてくれる。僕の指は滑るように鍵盤の上を行き来し、ミスらしいミスもない。ノーミスで二年ぶりにしては自分でも驚くほどの演奏を終えた。


 演奏が終わると軽い虚脱状態に襲われた。さっきの彼女の演奏時と同じく、観光客らしいギャラリーが数人、あまり気のない拍手をくれる。

 そんな脱力した状態で、僕は急に恥ずかしくなった。見ず知らずの人に自分の恥部を見せびらかした、そんな気がした。そそくさと立ち上がり顔を伏せてこの場から離れようとする。幸いさっきまでの聴衆たちもすでに僕に興味を失っているようだ。


 足元ばかりを見ていて気が付かなかったが、僕は目の前の人とぶつかりそうになる。びっくりして顔を上げるとそこにはさっきの夜想曲ノクターン第19番の彼女がいた。こうして見ると意外にも僕より15㎝は背が低い。彼女は屈託のない笑顔で声をかけてくる。


「上手いんだ」


 そう言われて僕は少しむっとした。ノーミスとは言え結局のところ僕の演奏は乱雑でただの力任せだった。一方で彼女の演奏は欝々うつうつとしてはいても、のびやかで自由を感じる。それは僕の演奏とは真逆だ。僕の演奏がひどく拙いものに思え僕は恥ずかしささえ覚えた。それに彼女のこの馴れ馴れしい口ぶりもなんだか気に入らない。


「いいえ」


 ぶっきらぼうにそう答えると、僕は更に目を伏せて足早にその場を立ち去ろうとした。が彼女はそんな僕にお構いなく、僕の後を追ってきて、さらに言葉を投げかけてきた。


「そう? すっごく上手い。あたし、こういうの好きだな。とても力強くて、気持ちもこもってたし」


「気持ち?」


 僕は驚いて思わず立ち止まり、彼女を見た。二十歳前後だろうか、明らかに僕と同年代で幼い澄んだ大きなハシバミ色をした瞳の女性だった。女性と言ってもどこか少女染みてもいる。しかし彼女は一体どんな気持ちを僕の演奏に見出したのだろうか。


「音楽が好きだ、って気持ち」


 まさか。僕はもう音楽に倦み疲れた人間だ。音楽を好きな気持ちなどもうこれっぽっちも。僕は吐き捨てた。


「じゃあそれは読み違いです」


「読み違い?」


 彼女は少し太くてきれいな眉をひそめる。


「僕はもう音楽を好きではないからです。むしろ憎んでいるくらいかも知れません」


「えーっ、全然そんな風には聴こえなかったけどなあ」


 と彼女は信じられない、といった風に笑った。


「僕には僕の事情がありましてね。では」


 うんざりした僕は話を打ち切って立ち去ろうとした。しかし、彼女は僕を解放するつもりはなかったようだ。歩み去ろうとした僕についてきてしつこく声をかけてくる。


「ああ、あの、そうだ。ごめんなさい、それとは全然別なんだけど訊きたいことがあって」


 これほどの美人を前にしているにもかかわらず、その頃には僕もすっかり不機嫌になっていて、彼女への返答もぞんざいなものになっていた。


「なんですか」


 立ち止まった僕はまるで吐き捨てるかのように返答した。彼女は全く臆せず、意志の強さを感じさせる少し太い眉を寄せて今度は少し困り顔になった。


「実はあたし、ここ来たばっかでさ。持ち合わせもそんなないし、どこか安くておいしい店を知らないかなって」


「朝市に行けばそんな店掃いて捨てるほどあるでしょう」


「うーん、そうじゃなくて、できればワンコインで済むようなとこだと助かるんだけど」


 その時僕の腹が盛大に鳴った。彼女は笑いをかみ殺すような表情で少し上目遣いに僕の方を見る。


「案内してくれたらあたしがおごるから。助けると思って。ね、お願い」


 彼女は少しいたずらっぽい笑顔になって僕に懇願した。少々あざとささえある。一方の僕はばつの悪さでいっぱいの不貞腐れた顔になっていたと思う。


「持ち合わせがないんじゃなかったんですか」


「だから、なるべくお安いお店まで案内してよ。ささ、あたしまでお腹がグーって鳴っちゃいそ、グーって。くっくっ」


 僕は不機嫌な表情を崩さず、黙って駅からほど近い「活力亭ラーメン」へと向かった。ここでは彼女の希望通りワンコインからラーメンが食べられる。彼女は初めて食べる透き通ったスープの塩ラーメンにいたく感激した。彼女の口にもあったようで、豪快にどんぶりを持ってスープを飲み干す。僕は塩ラーメンと餃子を頼んだ。もとより初対面の、しかも年下に見える女性にお金を出させるつもりはなかったので自由に注文させてもらった。

 すると彼女は何を思ったか何食わぬ顔で僕の餃子を二つも食べやがった。ただ、そんなことで腹を立ててはみっともないのでそ知らぬふりをしたが。


 半ば予期はしていたが、案の定会計の際にもひと揉めする。僕がお金を出すと言ったのに対し、彼女は自分が最初に言い出したのだからおごらせろ、だいたい男だからおごる、女だからおごられると言うのはおかしいと強硬に主張し、話は平行線のまま。これにはとうとう二人とも吹き出してしまった。彼女も笑いながら妥協してくれたようで、結局割り勘で済ますこととなった。

 こんな風にして無邪気に笑ったのはどれくらいぶりだろうか。目の前で素直に笑う彼女が少し眩しかった。


 店を出て空腹を満たし満足したように見える彼女は、大きく伸びをする。僕はここで初めて彼女を失礼にならない程度に観察した。前髪のないつややかなお尻まであるストレートヘア。痩せ細って起伏の全くない身体によれたダークグリーンの薄いセーターとデニム。そして安物の薄っぺらいロングコート。顔立ちは細くて尖った高い鼻、広い額、ハシバミ色をした大きな瞳、薄いそばかすのある顔。多分なんの化粧もしていない。面差しはあどけないふうに見えなくもないが、かなりざっくばらんな性格なのは今までの言動を見れば間違いない。口ぶりはぞんざいだけど何も言わなければ相当な美人だ。荷物はクラシックなデザインの大きなキャリーバッグとバイオリンケースの二つ。典型的なバックパッカーに見える。


「これからどうするんですか」


 余計なお世話と知りつつ好奇心から僕は声をかけた。彼女は小首をかしげて答える。


「うーん、夜までぶらついて、その後は宿を探そうかと思って。ネカフェもって考えたんだけど、前いたとこのがひどい店でね」


「この辺だと一人でも泊まれる格安ホテルや旅館がありますよ。探してみましょうか」


「えっ、ほんとに? 助かる」


 いつの間にか彼女の口調は完全にタメ口になっていた。

 僕がスマートフォンで調べると、すぐに安価なホテルや旅館を何軒か検索することが出来た。


「あ、安い。あ、ここもいいかも。うわあ、これ本当に助かった。ありがと」


 彼女が感謝に満ちた眼差しを向けてくるのが、僕にはなんだかくすぐったかった。


 彼女の今夜の宿泊先のめどが立ちそうになったところで、僕たちは別れることになった。と、そこで二人とも互いの名前を知らないことに気が付いた。どうせこれっきりの縁だから別にそんなことはどうでもいいと思った僕だが、彼女はそうはいかなかったようだ。一瞬迷った僕は自分の名前を「想」とだけ伝える。すると何かを勘繰かんぐるような目つきをしてからにやりと笑った彼女は、「じゃ、あたしは『あい』。あい色のあい」とだけ言った。


「そうそう、それとあたし明日もあの時間ぐらいにあそこでピアノ弾くと思うから、良かったら来て」


「……気が向いたら行きますよ」


 そう言っては見たものの、僕の気が向くことはないだろう。


 僕は夕方になると習慣通り冨久ふく屋に行く。僕のいつもの席、カウンターの一番端に座った。すがちゃんの一挙手一投足が見える特等席だ。僕はいつも通り、すがちゃんを人知れずそっと眺めたり、昼間のバイトのことなどを考えながら一人飲む。一人酒が進んだ頃、何がそんなに嬉しいのかくるりとこちらを向いたすがちゃんが、笑顔で僕に話しかけてきた。


「想さん、今日はずいぶんご機嫌なんですね」


 僕は全くそんなことを意識していなかったので意外だった。むしろあいの演奏を聴いた僕の心の中には悪い感情が吹き溜まっているような気がしていた。


「そうですか?」


「ええ、なんだかとっても嬉しそう。なにかいいことでもあったんですか?」


 すがちゃんはまるで自分にも嬉しいことがあったような笑顔だった。そんな笑顔を見るとこちらまで嬉しくなる。微かに僕の口元がほころぶ。


「いや……」


 笑顔から硬い表情になる僕。僕はあいの演奏を思い出していた。美しくて苦しい演奏。うらやましくもねたましい音色。しばらく黙って考え込んだ後、ぽつりと言葉を続ける。


「僕の方から捨てたはずの古くからの知り合いに、ばったり出くわしたからかもしれません。でもあまり胸躍る再会とはいかなかったんですがね。ですからきっと勘違いですよ」


 とだけ僕は言って硬い表情のまま燗酒をあおった。


◆次回

2022年7月4日 21:00

第3話 すがちゃんとピアノ――ジムノペディ

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