月と影――ジムノペディと夜想曲

永倉圭夏

第1話 月光と月の光

 

 19歳の夏、僕はショパンを捨てた。


 もはやしかばねに過ぎなくなった僕は、故郷から遠く離れた北国、函館に流れ着いていた。


 夜気満ちる港街で、青白い街灯に照らされた僕はとぼとぼとみすぼらしく歩く。吐く息が白い。

 ジャケットのポケットに突っ込んだ手の指はあかぎれで痛み冷たくかじかんでいる。でも今はもう指を使うこともないから別にどうということはない。


 小さな飲み屋がぽつりぽつりと軒を連ねる路地裏の片隅に、馴染なじみの飲み屋がある。


「あらいらっしゃいそうさん。今日は遅いんですね」


 暖簾のれんをくぐると店員のすがちゃんが、ふんわりした落ち着く声で僕に声をかけてくれる。


「今日は遅番で」


「お仕事お疲れ様です」


 僕はいつもの席に座れた。すがちゃんがにこやかにお通しと割りばしを出してくれる。


 馴染なじみと言っても通い始めたのはわずかひと月半前のことだ。席数9席のカウンターしかないさびれた店は、それでも酒もさかなも美味い上に安いこともあっていつも満席に近い。


「ウルメイワシと熱燗下さい」


「はい」


 僕の注文にすがちゃんの表情がほんの少し曇る。すがちゃんは僕がまた飲み過ぎるのでは、と心配しているようだ。


 僕はここで毎晩一人で浴びるように飲む。とは言え、くだをまいたり吐いたり泣いたりすることもないので、板さんの「長さん」は静かに放っといてくれている。ただすがちゃんは飲み過ぎる僕にいつも気遣うような眼を向けていた。


 そのすがちゃんが物静かだけどどこか愛嬌のある声で他の客と話している。地味でおっとりとした25~6の女性だが間違いなく美人の部類に入る。それもかなりの美人。このすがちゃん、どこかしら陰をたたえていてそれが更に不思議な魅力を醸し出している。この小さなカウンターだけの飲み屋「冨久ふく屋」の繁盛には、すがちゃんの存在も少なからず貢献しているのは間違いない。素朴な顔立ちなのに美人で、さらには素朴な人となりで、おまけに大概のお客さんよりずっと若いすがちゃんは、言うまでもなくここの常連客のヒロインだった。


 偶然座ってから気付いたのだが、僕がよく座るこの席は、カウンターにいるすがちゃんの全身がよく見える特等席だった。すがちゃんは白かブラウンのハイネックラムウールセーター、ベージュ系の地味な厚手のロングスカートに黒いタイツを身にまとってダークブラウンのエプロンをつけていることが多かった。


「今日のお月さまはきれいですねえ」


 誰に言うでもなくすがちゃんが口にした。


「すがちゃん、いくら俺がいい男だからってそんな粋な告白しないでよお」


 酔客の一人が上機嫌で茶化す。常連で50絡みの菊井さんだ。


「え? ええ? 告白? どういうことなんですか?」


 全く話が見えずきょとんとした顔のすがちゃんに、長身のやせ形で強面の長さんが、ぼそっと助け舟を出した。


「夏目漱石が“I love you”を『月がきれいですね』と訳したって話です」


「へえ、すごい。長さんよくご存じなんですね」


「ただの逸話です」


 素直に感心するすがちゃんに不愛想な顔と声で長さんが答えた。


「長さんも案外物知りだねえ」


 別の酔客も感心した声で長さんを褒める。


「いえ」


 長さんはまた不愛想な声で答えるとウルメイワシを焼く。暖かな店内にイワシの焼ける香ばしい匂いが立ち込める。


「その月明かりって、『月光』と『月の光』のどっちでした?」


 ここに来てから覚えたコップ酒をあおると、僕はすがちゃんにちょっと意地悪な質問をしてからかってみた。


 僕がいるカウンターの一番端っこから半分くらいまでの酔客が驚いて僕の方を見る。長い髪を後ろに束ねているすがちゃんも驚いた顔でこっちを見る。この店に来てひと月と半、注文以外で口を開いたのはこれが初めてだったからなんだろう。


「え、えーと、月光? 月の光?」


 すがちゃんは困惑の表情を隠せない。

 一席空けて僕の隣に座る還暦を過ぎた客が唸る。


「『月光』…… はて『月光』…… 『月光』ってえとあれだあれ、えっとな、ベトーベーンだ!」


「あら、田中さんそれを言うならベートーベンね。よくご存じなんですね。でも、そしたらじゃあ『月の光』ってなんです?」


 会話に参加していた数名全員が降参の素振りを見せる。僕が種明かしをしようと口を開く一瞬前、長さんがぼそりと口を開いた。


「ドビュッシーです。はいイワシ干しお待ち」


 相変わらず無味乾燥な語り口で、こんがりと焼いたイワシをカウンターに出す長さん。

 正直な話、僕はこのような場末の酒場の板さんから、イワシの丸干しと共に、ドビュッシーの名前を出されるとは思いもしなかった。僕は素直に頭を下げる。


「おっしゃる通りです」


「『そうさん』、クラシックをやってらしたんで?」


 長さんが平板な声で問いかける。「想さん」とは僕のことだ。この店になじみ始めたころ、名前がないとどうにも具合が悪いとすがちゃんに言われ、仕方なくその場でひねり出した名前だ。「夜想曲やそうきょく」の「想」。


 僕は長さんの言葉にぎょっとした。その問いには僕自身の核心が潜んでいる。何の意図で長さんがそんなことを訊くのか僕には判じかねた。


「どうしてそう思うんです?」


 とっさに切り返すことしか僕にはできなかった。その声はほんの少し緊張していたかも知れない。


「いや何、なによりよくご存じのようですし、時折カウンターを叩く指がメロディーを奏でているように見えましてね」


 その長さんの言葉に僕ははっとした。じっと右手を見る。あり得ない。そんなはずはない。僕はもう音楽を捨てたはずだ。ベートーベンも、ドビュッシーも、モーツアルトも、ショパンも、リストも。


 捨てたんだ。


 そして僕は突如暗くて深い記憶の淵に沈んでいった。


 延々と苦い物思い出に耽っていつもより深く酔った僕は少しふらつきながら席を立つ。音楽の話なんかしたせいだ。よどんんだまなこで会計を済まそうとすると、お会計をしてくれるすがちゃんの気づかわしげな表情に気が付いた。それがなんだか無性におかしくて、にやにやとした笑みを浮かべながら僕は店を出た。


 寒さに震えながら築四十年は下らないであろうつたううモルタル製の安アパートに帰る。必要最低限の家具しかない冷え冷えとした六畳一間。僕は着替えもせずそのまま倒れ伏すようにして万年床に潜り込んだ。ショパンの夜想曲ノクターン第7番Op.27-2が耳鳴りのように僕の鼓膜を突き刺すので、なかなか寝付けない。しかしやがて酔いが僕をゆっくりと浅い眠りに引きずり込んでいった。


◆次回

2022年7月3日 21:00

第2話 絶望の音色――夜想曲

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