四日目:「滴る」『信心』

 神のために、それを消さねばならなかった。

 後悔はない。それで神が喜んでくださるなら。

 世界を幸福にするためなら誰が消えようが問題ない。たとえそれが自分自身であっても。

 

 

 神は遠くからやってきた。果てしなく遠くから。

 神は神の代理人としか話さず、代理人は「世界を幸福にしましょう」と言った。

「悩める者、迷える者、今が不幸なものたちよ。神を信じなさい。そうすればあなたたちは幸せになれる」

 初めはみんな疑っていた。

 けれど、神の見せる奇跡を目の当たりにして、神の力は本当なのだと皆心を入れ替えた。

 信心したのだ。

 

 水不足のとき、神は雨を降らせた。

 重い病気の者を、神は治した。

 横暴な上司はいつの間にかいなくなった。


 代理人は言った、

「罪ありき者よ、神を信じなさい。信じていればあなたの罪は濯がれる」

 「罪」を背負って生きていた俺に、その言葉は天啓だった。


 神を信じていれば、いつか真人間になれる。

 苦しむのは信心が足りないから。毎日祈り、自分のものを持たず、神のもとに良いものを寄付すれば、きっと助けてくださる。

 祈れ、祈るのだ。

 そうやって、俺も神を信じた。

 

 週に一度、同じ志の仲間と集まって聖句を唱え、神を讃える。

 様々な贈り物をする。

 不幸から逃れられるように。罪を濯ぐために。

 信じない者たちは「騙されてるよ、神なんていないよ」と言ったが、神はいる。俺はこの目で神の奇跡を見たのだ。

 同じく神を讃える仲間たちは俺を優しく受け入れてくれるし、俺がどんなに口下手でも笑顔で聞いてくれた。

 神を信じていなかったころの暗い日々が、神を信じてから明るく優しいものに変わった。

 幸せだった。温かい仲間たちに囲まれて、日々が充実していた。

 

 そんなときだった。週刊誌に不信心な記事が載ったのは。

 代理人は憤り、これは神への冒涜だと言った。

 そこで俺は選ばれた。

 この記事を書いた者を消せと。

 

 平和な世の中で生きる俺には当然殺しの経験などなかった。

 無事に消せる自信がない。

「大丈夫、あなたならできますよ。邪魔者を消せば神は必ずお喜びになります。あなたは死後、天国行きが約束されるでしょう」

 代理人が優しく俺を励ます。

「それに、あなたは一人ではありません。信頼できる信徒を何人かつけて、サポートさせます。安心してください、指示に従ってあれを消すだけで良いのです」

「本当に俺にできるでしょうか」

「できますよ。だからあなたが選ばれたのです」

「…………」

「神はあなたに期待されています。良い結果を待っていますよ」

 そう言うと、代理人は俺の背中をそっと押した。

 


 深夜。

 俺は仲間たちに助けられ、眠っている邪魔者を消し、火をつけた。

 ごうごうと燃える炎はまるで神を讃えるかがり火のようで、仲間たちはそれを見て嬉し涙を流した。



 邪魔者の死は報道されなかった。

 

「素晴らしい。あなたの働きは完全でした。神も喜んでおられますよ」

「ありがとうございます」

「これで死んでも天国に行くことができますね」

「はい」

「では次に、『俺がやりました』と書かれた遺書を作り、神の御許に向かってください」

「…………?」

「これはあなたの信心が試される儀式です。あなたがあなたの家でその儀式をすることで、天国への切符が確約されるのです」

 それはつまり、俺に死ねということか?

「安心してください。後から信徒たちも向かいます。あなたは孤独ではない……そのことは神も私もよく知っています」

「そ、そうですか……」

「おや? 何か……言いたいことが? あなたが本当に神を信じるならば、できるはずです。死など怖くありません……この世を離れるだけなのですから。ね、皆さん」

 代理人が片手を挙げると、仲間たちが部屋に入ってきた。

「■さん、すごいわね! あなたならできるわ」

「君は選ばれし者になれたんだね! 君のために祈っているよ」

「神のための死なんて羨ましいぞ。俺もいつか選ばれるために頑張るよ」

 口々に言う、信者。

 そう言われると崇高な死である気もするし、俺の死などというちっぽけなことで神が喜んでくださるのなら、安い気もした。

「……わかりました」



 自宅。

 鞄から荷物を取り出す。

 邪魔者を消すのに使ったナイフは赤黒く光っていて、今にも血が滴りそうにも思える。

 もう固まっているから、滴ることはないのだが。

 俺は遺書を書き、ナイフを自分のそばに置き、神の祝福を受けたロープをかけて、そして。

 崇高な理想に燃えていた。後悔はなかった。

 これで罪が濯がれるなら。世界が幸福になるのなら。自分の命が失われようと、問題ではない。

 意識が落ちる瞬間、俺は幸せだった。

 そのはず。

 俺が天国に行けたかどうかは、死後の話なのでわからない。

 それで終わり。

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