真夜中の車線変更
摂津守
真夜中の車線変更
真夜中、突然目が覚めた俺は、気がつけば愛車に火を入れていた。
キャブレーター式四気筒空冷1100ccのエンジンは快調だった。心地よいノイズ。ふけるアクセル。吠えたけるエキゾーストノート。
ここじゃ近所迷惑だ。ゆっくりクラッチを繋ぎ、真夜中に向けて走り出す。
目的地などない。そんなものはどこにもないのだ。ではなぜ走るのか? わからない。わからないからこそ走るのかもしれない。きっとそうに決まっている。
道は寂しい。当然だ。草木さえも眠っている。こんな時間に走るのは酔狂かバカだ。まともじゃない。
俺はどっちだ? 酔狂か? バカか? どっちもか? どっちでもいい。大した差はない。
ただ心になにかがひっかかっていた。正体不明のなにかが。アクセルをひねるたび、それを振り切ろうとしていた。
今ではそれが目的になっていた。ライトが闇を引き裂き、排気音を轟かせることが目的かもしれなかった。闇夜の風を浴びるのもその一つだった。
いくつもの信号をこえた。いくつもの車線変更を繰り返した。いくつものカーブを曲がり、いくつものアスファルトを踏み越えてきた。
このままじゃ海だ。都会(まち)から離れてゆく。これは俺の意志じゃない。すべては愛車次第だった。愛車の意志か、もしくは真夜中の意志か。
ヘルメットとカウルウィンドウの先になにかがチラついていた。わからない。いや、わかりたくない。わかろうとしたくない。だが、それは意思に反して輪郭を際立たせる。
それは面影だった。いつか追い求めたものだ。今それを置き去りにしようとしている。アクセルを開け、ガソリンと空気を燃やし、時速二百キロを軽く超えるパワーを生み出し、マフラーが叫び、タイヤは路面を蹴る。そして俺は走る。
風に紛れる甘い匂いを排気の匂いへと変え、前照灯の映す甘い仕草を流れる景色に埋没させ、耳を打ったくすぐるような囁きをエンジンの生み出すあらゆるノイズで打ち消す。
愛車が俺に言う。ただ走れ、と。考えるな、感じろ、と。
そうだ、この速度じゃ考える必要はない。余計なものを振り落とさなければ、あのカーブは超えられない。
簡単だった。シンプルでよかったのだった。泣けてくるぜ。こんなことで解決なのか。もっとはやくこうするべきだった。
そしてもっと速く走るべきだった。
すべては失われた。ただ走るだけでよかった。目的も目標もなにもなかった。ただ走るだけだ。走ること、それは生きることだった。
トンネルを抜けると潮の匂いがした。左へカーブを曲がると、ガードレールの向こうに真っ暗な海が見えた。
たどり着いたそこが結果として目的地になった。海沿いの堤防。潮騒がやけにやかましい。
ガス欠寸前。エンジンを切ると熱くなった鉄が弾くような音を立てる。
簡単すぎた。涙も出るぜ。タンクが軽くなると心も軽くなった。
ここまでの道程なんてもう覚えていない。どうでもいい。今ではなんでも見えるような気がした。かつての面影も、その先のものさえ。
ヘルメットを脱いだ。暗い海。空は白み始めた。真夜中の終わり。しばらくは休もう。スタンドが開くまでは。
真夜中の車線変更 摂津守 @settsunokami
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