2章 アルミ/麻霧 葉
7.フードロス反対
9月6日 火曜日 午前7時30分
僕は自宅の布団の中で目を覚まし、いつも通りの平日の朝を迎えていた。
朝食はとらない。最低限の身支度を整え仏壇にある祖父の写真に手を合わせる。琉衣に貸す約束をしていたブラム・ストーカーとエドガー・アラン・ポーの文庫本を祖父の蔵書棚から取り出し通学用のカバンに入れる。戸締りのチェックをしたら学校へ出発だ。
学校までは徒歩で向かう。途中、とある精肉店へ寄る。『タニチ精肉店』と書かれた古い看板が掲げられたその店は、精肉以外にも総菜も売っている。ここの総菜パンは冷めても旨いのでお昼ご飯に丁度いい。店内に入ると、恰幅のいい中年男性の店主は僕の姿を認めるなり、人の良さそうな笑顔で迎えてくれる。
「侍くん、おはよう! 今日も早いね!」
「おかげさまで。いつもの、お願いします」
「あいよ! ハムカツサンドね!」
店主は並べられた総菜パンの中から、なるべく大きそうなものを僕に渡そうと選んでくれる。ここの店主は僕の祖父母とも面識があった人だ。僕や祖母の置かれた状況も知っていて、同情してか店を利用するといつもサービスしてくれる。今日も頼んだハムカツサンドとは別に小ぶりなソーセージドッグをおまけで包んでくれている。
「はい、お待たせ! おまけしといたよ!」
「ありがとうございます、いつもすいません」
「いいってこと。若い子はちゃんと食べないと! うちの娘も気を抜くとすぐ飯抜くから――」
他愛のない話をしながら、僕らはお金と総菜パンを交換しようとした。しかし、その間に誰かが割り込み、店のカウンターに半ば叩きつけるように小銭を置いた。
「お金は払いますが、それはいらないです。キャンセルします」
冷たい言葉で、僕と店主の間に入ったのは麻霧 葉だった。学校の制服に身を包んだ彼女は、何かを言おうとする僕の腕を掴んで無理やり店外へ出る。
「あ、麻霧さん?! な、なんでここに?!」
僕の知りうる限り、僕の家と葉の家は別方向のはずだった。こんなところで出くわすことはないはずだ。
「そ、それにあんなことしたら失礼だよ! せっかく包んでくれたのに……」
「AIAには情報収集担当のメンバーもいるの。あなたの家や通学路もすぐ分かった」
葉は僕の腕に体を寄せて、まるで僕が逃げ出そうとするのを防ぐようにしながら僕を学校までエスコートし始めた。
「それに、あの店の店主はインスマスの疑いがある。人目がつくから今は何もできないけど、いずれは処理するわ」
インスマス。AIA。
昨夜、AIAのアジトから解放された僕はおぼつかない足取りで家に帰り、まるで気を失うかのように床についた。朝起きたときも、昨夜のことは夢だったと思い込もうとしてたが、はっきり目覚めている僕の脳は、葉の言葉で昨夜のことが現実であることを再認識しはじめる。
「お昼ご飯のことはごめんなさい。お弁当を作ってきたから。それを半分。あげるわ」
「そんな、それは悪いよ」
「いいえ。明日からは二人分作るから」
女子の手作り弁当。しかも好きな人の作ったものを食べられるだなんて。僕の人生では想像だにしなかった幸せが今まさに具現化していた。
「私たちの仲間には、健康でいてもらわないと」
「僕なんか、役に立たないと思うけどな……」
昨夜、僕は葉の「仲間になって」という言葉に頷いてしまっていた。場の雰囲気に流されたこともあるが、なにより好きな人に頼ってもらえたことが嬉しかった。ただ「ヒーローになって」という彼女の要望には応えられる気はまるでしない。運動が苦手ということはないが、一介の高校生に過ぎない僕が、あんな恐ろしい怪物と戦い続けることは無理な話に思えた。
「大丈夫。あなたは既に一匹倒しているし、私たち仲間もバックアップする。今夜は他のメンバーにも会ってもらいたいから、放課後は空けておいて」
好きな人からの放課後のお誘い。やることを考えなければ、これ以上心躍るものはないだろう。しかし、長年の孤独な生活によるものなのか、僕の心根はすっかり縮みあがっていた。
「……あの、それはいいんだけどさ。麻霧さん、あの……」
「どうしたの?」
「そろそろ学校が近いから……その、みんなに見られると……」
僕らは既に学校の近くまできていたため、他の生徒たちが密着して歩く僕たちの姿を認めることとなった。傍から見ればいちゃつきながら登校しているように見えるだろう。
「僕みたいな陰キャと、麻霧さんみたいな美人が誤解されると、ほらまずいから」
「何がまずいの?」
本当は何もまずくはない。クラスにいるカップルがこうやって登校するのを見て、羨ましく思わなかったなんてことは言わない。建前で言っただけだし、葉がそれを嫌がっていないのなら、僕は何も問題なかった。僕らはそのまま歩みを進める。
「え……侍……?」
問題があった。かなりまずい。
校門が見えてきたところで、僕らは琉衣と鉢合わせした。
「ええぇぇ?! なななななんでぇ?!」
琉衣はご近所の後期高齢者が心筋梗塞を起こしかねない声量で叫ぶ。琉衣は目を白黒させながら、僕と葉を交互に見比べた。
「お、おはよう琉衣……」
「おはよう恋路さん」
「いやいや、なんで二人ともそんな平然と挨拶してんの?!」
つい昨日まで話しかけるのにも躊躇していた男が、その想い人と腕を組んで登校してきたのであれば、驚くのも無理はないだろう。
「侍、昨日フラれたって……」
馬鹿野郎、フラれてない。
「手を組んで登校してるだけよ恋路さん」
これを『だけ』というのは一般の高校生にはハードルは高いんだよ、麻霧さん。
「酷いよ、侍! 私にしときなよ!」
この状況でその繋げ方は無理があるぞ。
「じゃあ行きましょうか」
葉は気にせず僕と共に歩もうとする。
「ちょいちょいちょい! なんでそうなったか聞かせなYO!」
琉衣は葉がいる反対側から僕の傍にぴったりと付き、僕らの馴れ初めを聞き出そうとする。まるで今朝受け取ることができなかったハムカツサンドのように、二人の女子に挟まれた僕は、より周囲の視線を引くことに恥ずかしさと居所の悪さを感じる。
「私たちだけの秘密よ」
「そこを聞かせてよ葉ちゃん!」
「お願いだから、二人とも距離を取って……」
結局のところ校舎に入るまでの間、僕の願いも話も二人に聞き入られることはなかった。
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