エレベーターの扉が開いた

増田ふすま

第1話 病院

 蝉の鳴き声に充たされた午後。彼女は、妹の手を引いて歩く母親の少し後ろを着いていった。岡の上、葉を鬱蒼と繁らせた木々に囲まれた、大きな総合病院が、目的地だった。

 眩しい陽射しの中を歩いて来たせいか、人気の少ないエントランスは、より薄暗く、うらぶれて見える。

 人のいない受付の前を左に折れ、奥に進む。夜間救急救命室の前を過ぎ、レントゲン室の待合から右手に曲がると、エレベーターホールだった。

 母親が上行きのボタンを押すと、間もなくチンッと音がして、エレベーターの扉が開いた。

 妹が母親の手を振り切ってエレベーターの中へ駆け込み、ボタンの並ぶ一角を陣取る。

 誰も奪いやしないのに。

 彼女は妹の得意気な顔を眺めた。額には大きな絆創膏が貼られている。妹がそれに手を伸ばすと、

「掻いちゃダメ」

 母親が妹の手を掴んで降ろさせた。

 妹はもう片方の手でボタンを押した。5階のボタンが点灯した。行き先は本当は4階なのだが、4という数字は縁起が悪い為に、この病院には4階、そして4号室は存在しない事になっている。そんな話をいつか誰かから聞いたことを思い出し、彼女は首を傾いだまま、階数表示を見上げていた。

 一瞬の浮遊感があった。

 チンッと音がしてエレベーターの扉が開いた。地下1階。エレベーターホールの正面は霊安室である。

 誰も居ない。

 足の辺りに冷たい空気が這入り込んだ。

「やだ、気持ち悪い……」

 母親がそう呟いて、ボタンを連打すると、扉は閉じて、エレベーターは今度は上に昇り始めた。

 「このエレベーター、時々勝手にあそこへ行くのよね。気持ち悪いったら」

 目的の階で降り、再び彼女は母親と妹の後ろを歩いた。

 5号室の前を通り掛かった時、ふと辺りが暗くなった気がして、彼女は足を止めた。

 その部屋から、一人の老人が出てきた。まるで滑るように、彼女が来た道を、音もなく去って行った。

 チンッと音がして、エレベーターの扉が開き、そして閉まった時、5号室から女性の悲鳴が上がった。

「おじいちゃん、おじいちゃん! 目を開けて! 誰か、看護婦さん!」

 看護師がバタバタと走って来て、5号室へ駆け込んだ。

 母親と妹はとっくに祖母の部屋に行っていた。彼女は少し明るくなった廊下を、ゆっくりと歩いた。

 六人部屋にいる患者は、今は祖母だけだった、窓際のベッドの上に祖母。妹はスツールに腰掛け、母親がその横に立っている。

 祖母は泣いていた。

 部屋の出入り口に突っ立ったままで、彼女は見ていた。

「ごめん、ばあちゃん」

 呟いたが、その声は祖母には届かない。

 彼女は目を閉じた。

 悪いのは自分だったのだ。

 車の中で、彼女は自分の席に座りたくないと駄々を捏ねた。そこよりも、大好きな祖母の膝に座りたいと泣いた。祖母は許した。

 ところが……。

 不意に強い衝撃を感じ、首があらぬ方向へねじ曲がった。覚えているのはそこまでだ。

 どうやら、祖母の怪我は酷くない様だった。

 彼女はそっと部屋を出、誰もいない廊下を元来た方へ歩いた。

 エレベーターの扉が開いて彼女を待っていた。黄色い光りに満ちたその中へ、彼女は乗り込んだ。

 エレベーターは昇ってゆく。高く、高く……。



(おわり)

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