再び歩き出す。

羽寅

気付けば、私の足は止まっていた。

 とてもありきたりな話をしよう。

 多分、誰でも経験したことがある一般的な話を。


「大丈夫?」

 その日、不思議と私は普段とは違う帰り道を歩いていた。

 特に理由は無いのだけれど、少なくとも機嫌が悪ければそんな行動は取らなかったように思う。

「きみ、転校生でしょ」

 季節は真夏だ。ふいに手を頭の上に置けば、やけどしそうになるほど熱かったのである。

 さて、水筒の中にはもう何も入っていない。私の自宅までは残り千メートルといったところだろうか。

「すぐそこの公園にさ、水を出すやつあるからさ」

 何故少し遠回りで帰宅することを選んでしまったのか。そのような後悔をしたのは、恐らくこのときばかりだ。


 自分と同じ学校の制服を着た生徒が一人、涙を流して座り込んでいるところを見つけた。それはまるで、私の行動を正してくれているかのようにも思えた。

「もし良かったら、肩貸すよ」

 内向的な性格の自分が考える間もなく話しかけたのは、きっと優しさではなく突発的な反射だったんだろう。

 事実、これ以降の人生でそんな正義感を発揮したことは無いのだから。

「ベンチ、熱いね」

 膝から血を出しただけで中学生とは泣くものか。当時の私は、彼女のそんな姿を見て少し笑ってしまったことを覚えている。

 それも、我慢できずに笑みが零れたことすら記憶しているのだけれど、向こうも釣られて笑っていたので今では笑い話か。


「寂しい?」

 泣き止ませようと努力はしていない。私とベンチに座り、少しの呼吸を置けば既に目元が赤くなっているだけだった。

 さて、後は話を聞くだけだ。とはいえ自分から話を振れるほど言葉は上手くないし、耳を澄ませてみることにしたのである。

 蝉の煩い声に遮られながらも、ぼそぼそと喋った彼女の叫びは、たまらなく切実だった。

「家族と仲が悪い。友達が居ない。クラスで馴染めない」

 似ている。私は一人っ子で両親共働き、学校でも特に騒ぐことも無ければ誰かと遊ぶことも殆ど無い。

 しかし特に不満など無かった。一人遊びが好きで、元より自分から誰かに話しかけることも無かったから。

「分かるよ」

 あちゃあ。子供とは嘘に敏感な生き物である。大人の誤魔化しに気づくのに、子供の雑な相槌に心を打たれるわけがない。

 顔を伏せた彼女に、幼いながらもなんとかしなければと慌てた。最初に顔を見合わせた時よりも、この時の方が私の心臓は大きく鳴っている。

「俺が、友達になるよ」


 当時でも、親が厳しくなければ携帯ないしスマートフォンを持たせてくれていた家はあったかと思う。

 実際のところ周りの同学年は所持しているのが大抵だったし、その件については他と疎外感があったのは認めよう。

 だけれど、私と彼女が電波を通した連絡手段を持たなかったのも運命という言葉で片づけて良いかもしれない。

「俺の家、あのマンションの五階」

 これがもし連絡先を交換したり、メッセージアプリなんかを使って親睦を深めようとしていたら、すこし薄っぺらな出会いになったのではないか。

 結果論であり強がりでもあるのだが、しかし、私はそんな状況だからこそ、なけなしの勇気を振り絞って肉声で伝えることが出来たのである。


「これからさ、一緒に帰ろ」



 人生で二十回目の、夏だ。今年は特に暑いと聞くけれど、まるで歓迎してくれてるかのように、今日は爽やかな風が町に吹いていた。

 中学校を卒業してから引っ越してしまった私にとって、とても懐かしく、歩くだけでも涙が出そうになる場所だった。

 特に仲良くも無かった同級生は、今何をしているだろう。何人かはこの場に残っているとは思うが、誰とも連絡を取っていない。

「…………」

 通っていた小学校、中学校を見て。あれほどまで高く思えた門すらも今では親しみを覚えそうになる。

 折角だから、ここから自分が住んでいたマンションまで歩いてみよう。

 私は大きくなった歩幅で、あの頃と同じように帰路についてみたのだ。


 そして、気付けば私の足は止まっていたのである。あの公園があった敷地で。

「あ」

 もう隣には誰も居ない。一緒に帰る人など、いないのだ。

 今、彼女は何をしているだろう? 最後に会ってから何年経っても考える時がある。

 両親との仲、クラスメイトとの関係、思う事は色々とあっても、連絡する術がない。

「…………」

 豪華な一軒家が立っていた、公園の跡地前で私はひとり笑う。

 後ろから彼女が声を掛けて来ないかと、トラックが通る僅かな時間を立ち尽くして待ってみた。

「さようなら」

 希望にすら満たない細い細い蜘蛛の糸を捨て、私は歩みを進めた。


 物静かで心優しい貴女は、今どこで何をしているんだろう。

 初めて出会ったこの日を記念日だと笑った貴女は、今でもカレンダーに印を付けているんだろうか。

 幼い頃から変わらない性格をしていて、引っ越す時でさえ特に思わなかったのだけれど。


「暑い」

 彼女が涙と共に呟いた「寂しい」という言葉を、初めて理解出来た気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

再び歩き出す。 羽寅 @SpringT

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ