物質的には同じワタシ

 その時、一瞬轟音が響いたかと思えば、誰かが再び私の名前を呼んだ。

「――誰?」

 どこから聞こえたか分からない。けれど、どこかで聞いたことがあるその声に、私は取りあえず返事をした。

「……………………」

 しかし、返事はいつまで待っても返ってこなかった。

「何かありましたか?」

 誰かわからない声の主を探しながら、私がもう一度後ろを振り向きむいた時、そこには誰も居なかった。

 

――空耳、聞き間違い。

 その言葉で片づけようとして前を向こうとした時、私はどこか違和感を覚えた。

 この違和感の正体は何だ、何故か目を背けたら一生後悔する、そんな確信ともいえる予感めいたものがあった。

 そして頭をうんうん唸らせ、その原因を必死に考える。


「――あっ」

 そうして悩んでどれくらい経っただろうか。だが、お陰で答えを得ることが出来た。

 

「……自分の名前がわからない」

 何故か、自分は己の名前を忘れてしまっている事に気が付いた。……今一度、自分の環境や状況を確認しよう、そう決意した時、背後から水がボコボコと沸騰する音が聞こえた。

 

「えっ⁉ 何⁉」

 驚きを隠せず、慌てて振り向いた。だが、足がもつれて上手く体をひねることができずに、思わずバランスを崩して地面に倒れそうになる。せめて服は汚したくないと、地面に倒れ込む体を守ろうと、手を伸ばして転ぶことを避けようとする。しかし、手に返ってきたのは、ねちゃりとした感触で、上手く踏ん張ることが出来なかった。

「――あっ」

 そしてそのまま、私は顔面から地面と粘着質な抱擁を交わした。

「痛っ――」

 地面がぬかるんでいたから踏ん張ることが出来なかったのかと、上半身に響く痛みで理解した。いつまでもこうしているわけにはいかない。私は、なんとか腕に力を込めて体を持ち上げ、立ち上がった。

 

「沼地かぁ……」

 地面は上手く踏ん張れない程ぬかるんでいて、地面に小さい水溜りが何個も存在していた。だから何となくは予想していたし、家の近所にある、人があまり立ち寄らない場所なのかという知識は持っていた。だが、自分の目で見るのは初めてだった。息を吸うたびに、湿った空気が喉に貼りついて不快感が募っていき、一刻も早くここから立ち去りたいという思いが強くなっていく。服についた泥を落とし終わったら――

「――ん?」

 自分の膝元のズボンに付着した泥を落とそうとした時、何故か素肌に触れた事に気が付いた。もしや、先ほど転んだ時に破けてしまったのか。下半身は下着姿を晒さなければいけないかもしれないという最悪の想像が頭をよぎり、私は慌てて膝元を見た。――しかし現実は、想像していたものとは少し違っていた。


 自分の膝には、大きな樹木の様な火傷跡が出来ていた。


 ここまで自分という存在について考えたことは無いと思う。沼地の真っただ中で、私はひたすら考え込んでいた。自分は何故か、自分の名前を忘れてしまっていた。だが、何も覚えていないというわけではなく、寧ろ。今日両親と交わした会話、友人と話した下らない痴話話、密かに抱いていていた恋心。たった今経験したかのように、それら全ては鮮明に思い出すことが出来た。だが、肝心の自分に関しては何も覚えていない。自分の家の場所も、何故こんな傷が出来た理由も、どうして沼地という場所に来ていたのか、何もわからなかった。

 

「――よしっ! 諦めるか!」

 だが、散々悩んで一つの結論を得る事が出来た。


 家に帰ろう。


 ここで起きたことをさっさと忘れて、今まで通りの日常を過ごせばいい。今は自分の名前を忘れているが、自分の部屋には、自分の持ち物がある、アルバムがある、思い出もある。そこにある物を見れば、自分が何者かなんて、誰かに教えて貰う必要すらない。

 

 そして、歩き出そうとして、ふと最後に、もう一度後ろを見ようと思った。ここは、ある意味では自分の始まりの場所でそれを目に焼き付けておきたくなった。コマのようにくるくる回っているなと自嘲しながら、私は振り返る。

「あっ!」

 わざわざ見た甲斐があったかもしれない。視力の良さが役に立ったのか、少し奥にある沼のほとりに、自分が使っている鞄が置いてあったのが見えた。駆けだそうとして転んだことを思い出し、ゆっくりと歩いて行った。

 見つけた通学鞄は、一度沼に浸かってしまったのか底面部分が少しぬかるんでいたし、何故か焦げ臭い匂いもした。理由は分からないが、自分の名前を知ることが出来るチャンスだ。中身を一つ一つ確認していくことにした。

――学校で貰ったプリント、薬が入ったポーチ、眼鏡入れ……。色々な物が出てくるから、私は整理整頓が苦手だったのかもしれない。そして鞄の底に手を伸ばして探っていた時、丸まったプリントが指先に触れた。

「確かこれって……」

 これは覚えている。渡されたテストの点数から目をそらすために、ぐしゃぐしゃに丸めて突っ込んだ物だった筈だ。破かないように慎重にプリントを広げる。


「" "」

 声に出した時、結構しっくり来た。――私は須和部すわべか。

 我ながら良い名前じゃん、親のセンスを褒めたくなる。そして私は、沼地を後にした。


 今日、須和部沼火は生まれ変わった。


 

 足元に落ちた雷の跡は、彼女の目には入らなかった。

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